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◆「よき人・孔子・・と日本人~ 子供と語リ合う「よき生き方」


我々の先人は何代にもわたって、『論語』を通じて「よき生き方」とは何か、を考えてきた。


■1.幼稚園児が「己の欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ」■

 ある幼稚園でのこと、友だちをいじめている子に向かって、「己の欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ」と言った園児がいた。まさにその場にふさわしい『論語』の一節だった。

 それを聞いて驚いた幼稚園の園長が、親に電話して「お宅では、どんな教育をしているのですか」と聞いた。「家では『論語』を素読しています」という答えが返ってきたという。

 意味が分からないのに、『論語』の素読をするなど無意味だ、押し付けだという人がいます。しかし、子供でもその意味は、直感的に分かるのです。[1,p19]

 弊誌546号[a]で紹介した『子供と声を出して読みたい「論語」百章』の著者・岩越豊雄氏が、その続編で語られた一節である。

 続編では、『論語』の代表的な章をいかにも子供にも分かるように易しく説いている。 [1,p2]

 今回、続編をまとめていて、つくづく感じたことは、江戸時代の儒学者、伊藤仁斎や荻生徂徠がそうであったように、孔子を聖人として祭り上げるのではなく、孔子の大きく豊かな人柄を、その言動から学ぶということでした。

 岩越氏の解説から浮かび上がってくる孔子は、誠実で思いやりのある人柄である。江戸時代の国学者で儒学を嫌った本居宣長でさえ「よき人、孔子」と呼んだ。そういう人物が、弟子たちとの日常的な語り合いの中で発した言葉を集めたのが『論語』である。だから、子供でも直感的にその意味を感じ取れる章句が少なくない。


■2.「それぞれ、日ごろの志を言ってみては」■

 孔子の人柄は、次のような弟子との会話から、浮かび上がってくる。

 ある時、孔子は側に仕えていた弟子の顔回と子路に、「どうだね、それぞれ、日ごろの志を言ってみては」と問いかけた。

 まず子路が答えた。「私の願いは、車や馬や着物や皮衣を友にこころおきなく使ってもらい、壊れたり破られたりしても惜しまない。そのような気のおけない交際をしたいものです」と。

 子供の間でも、物を貸したり借りたりすることがあるだろう。そういう時に、惜しまずに貸せるような友達づきあいをすることが、子路の理想だった。

 次に顔回が答えた。「私の願いは、自分の善を誇ることなく、つらい骨折り仕事を人に押し付けないようにしたいものです」と。

 これも子供が善いことをしても自慢したりすることなく、また教室の掃除や家でのお手伝いをすすんでするのと同様である。


■3.「老人には安心され、友人には信じられ、子供にはなつかれる」■

 その後で、子路が言った。「今度はぜひ、先生のお志をお聞かせ下さい」と。

 子(し)曰(いわ)く、老者(ろうしゃ)はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者(しょうしゃ)はこれを懐(なつ)けん。

 先生がおっしゃった。「老人には安心され、友人には信じられ、子供にはなつかれる、そういう者でありたい」と。

 どこにでもいそうな善い人の生き方である。そういう当たり前の生き方を、孔子は目指していたのだ。岩越氏はこの部分を次のように説明されている。

 孔子の弟子、顔回と子路の性格がよく表れていておもしろい章です。

 気の早い子路が真っ先に発言し、その後に何事も謙虚な顔回が言うところにも、それが表れています。また、子路は気が置けない友情を言い、顔回は、己の善を誇らぬ謙虚さと、他への思いやりを言います。外向的な子路と内省的な顔回の違いもよく出ています。

 孔子の答えは、老人、友人、子供とそれぞれの世代全般への信頼と、親しみに満ちた言葉です。さすが大人の風を感じます。それにしても肩のこらない、孔子学園の暖かさを髣髴とさせる章です。[1,p87]

 孔子は、抽象的に善を説くのではなく、あくまでも具体的な日々の生活の中で、人から「安心され、頼られ、なつかれる」という生き方を目指した。だからこそ、子供にも直感的に理解できる所があるだろう。


■4.「素直な心」とは■

 前々節で「私の願いは、自分の善を誇ることなく、つらい骨折り仕事を人に押し付けないようにしたいものです」と言った顔回は、孔子の弟子の中でも、誠実さを絵に描いたような人物である。孔子は顔回について、こんな評を残している。

 子曰く、われ、回と言う。終日違(たが)わず、愚(ぐ)なるがごとし。退いてその私(わたくし)を省(せい)すれば、またもって発するに足る。回や愚ならず。

 先生がおっしゃった。回は私と一日中話していても、まったく素直に聞き入るだけで、反問するでもなく、愚かのように思える、ただ、席を退いてからの、回の行いを見ると、教えを十分生かしていて、教え甲斐があることが分かる、回は愚かではない。[1,p37]

 岩越氏は、素直さについて、松下幸之助の言葉を引用して解説している。

 経営の神さまといわれた松下幸之助氏は「素直な社員はよく伸び、仕事もできる」と言っています。

 そして「素直な心」とは、私心にとらわれない心(自分のことばかり考えない)。謙虚に耳を傾ける心(人の話をよく聴く)。すべてに学ぶ心(先生や親はもちろん、友達や自然からも学ぶ)。寛容の心(人を広く受け入れる)。人を愛する心(多くの人に愛の手を差し伸べる)、と言っています。

 そして、このような素直な心が養われると、ものの真実が見えてくる(本当のものが見えてくる)。ものの価値が分かる(もののよさが分かる)。融通無碍になる(自由自在にものを考えることができる)と言っています。

 まさに一見、愚に見えた素直な顔回の境地そのもののように思えます。[1,p37]

 こういう解説なら、子供でもある程度、理解できるだろう。幼稚園や小学校では、活発に発言し、皆を引っ張っていく子供こそ「できる子」と考えやすい。しかし皆がそういう姿を目指したり、そうできない子が劣等感を持つのは問題である。

 口数は少なく一見愚鈍に見えても、人の話をよく聴き、思いやりのある素直な子供こそ「よく伸びる子」だと教わることは、子供達が自分の生き方を、落ち着いて考える出発点となるだろう。


■5.「そうだね、私もお前と同じ、回には及ばないね」■

 顔回の人となりは、次の章にも出てくる。

 子、子貢(しこう)に謂いて曰く、女(なんじ)と回(かい)といずれか愈(まさ)れる。対えて曰く、賜(し)や、なんぞあえて回を望まん。回や一を聞いてもって十を知る。賜や一を聞いてもって二を知るのみ。子曰く、如(し)かざるなり。吾と女(なんじ)と如かざるなり。

 先生が子貢に向かっておっしゃった。「お前と回とでは、どちらが優れていると思うかね」 お答えした。「私など、とても、回の足元にも及びません。回は一を聞けば十を悟るほど、察しのよい人です。私など、一を聞いてやっと二が分かるぐらいな者です」 先生がおっしゃった。「そうだね、私もお前と同じ、回には及ばないね」

 「賜(し)」とは子貢の名。子貢は顔回より一つ年下で、頭の良さにかけては孔子に優るともいわれた、目から鼻に抜けるような才人だった。これに比べて、顔回は上述したように、愚直な人だった。この二人をあえて比べる質問を、当の子貢にした所に、孔子の教えの妙がある。

 孔子は、子貢の率直な答えをよろこび、「お前だけではない、この私も顔回に及ばない」といって子貢を慰めたとしています。孔子は心からそう感じたのだと思います。

 朱子の説は「吾(われ)女(なんじ)に如(し)かざるを与(ゆる)さん」と読み、「彼に及ばないという、お前の意見に賛成する」としています。これでは孔子の心の暖かさが伝わってきません。荻生徂徠はこの説を「聖人の心を知らず」と批判しています。[1,p78]

 朱子の読みでは、孔子は上から二人を比べ、「お前の方が下だ」と冷たく言っていることになる。それに対し「私もお前と同じ、回には及ばないね」という読みでは、孔子の謙虚な心が伝わってくる。同時に、子貢に対して、才能では顔回に及ばなくとも、一緒に学問の道を歩んでいこう、と励ます暖かさがある。

 こうした心遣いができる人こそ「聖人」であると、荻生徂徠は読んだのである。我が先人たちの学問の深さを垣間見せる一言である。


■6.仁者の生き方■

 孔子の目指した生き方を表した言葉が「仁」である。『論語』の中には、58章で109回、「仁」という言葉が出てくるが、孔子は「仁」の意味を抽象的に説明したりはしない。ただ、仁を持つ人は、こういう人だと、あくまでもその具体的な生き方に即して説く。

 子曰く、富と貴(たっと)きとはこれ人の欲するところなり。その道をもってこれを得しにあらざれば処(お)らざるなり。貧と賤(いや)しきとはこれ人の悪むところなり。その道をもってこれを得しにあらざれば去らざるなり。君子は仁を去りて、悪(いず)くにか名を成さん。・・・

 先生がおっしゃった。豊かさと高い位は誰もが求めるものだ。しかし、正しく生きてそれを得たものでなければ、そこに止まろうとは思わない。貧しさと低い位は、誰もがいやがることだ。しかし、それが正しく生きてそうなったのであれば、甘んじてそれを受ける。志ある人は、「仁」を抜きにして名を成そうとは思わない。

 金持ちや地位のある人が、かならずしも「偉い人」とは限らない、という事を教えた章である。岩越氏はこう説明する。

 貧困や地位身分の低さは、多くは自分の努力や仁徳のなさがもたらすものです。ただ、いくら努力しても、仁徳があっても、世に認められず、貧しく、地位もないということはあります。本当に仁徳のある人は、その境涯も楽しむことができる。だからあえて去らないというのです。「貧にしてその道を楽しむ」とあります。それが本当の意味での仁者ということです。・・・

 ともかく、人としての正しい生き方、世のため人のためを思う「仁」を抜きに名をなそうとは思わないということです。[1,p67]

 金や地位があっても周囲にいばっている人と、つつましい生活をしていても、自分の仕事に打ち込み、周囲の人々のために思いやりをかける人と、どちらが偉いか。どちらが幸福か。そういう問いかけを子供にするのも、大切なことだろう。


■7.「自分を磨く師や友を得る」■

 それでは、どうしたら仁の心を持てるのか。ここでも、孔子が説く道は、実生活を離れない。

 孔子は人から学ぶことをよく説いています。学而1-6には「汎(ひろ)く衆を愛して仁に親(ちか)づき、行いて余力あればすなわちもって文(ぶん)を学ばん」とありました。「仁に親づき」とは「仁徳のある人に近づき、師として学べ」ということです。また、述而7-21では「三人行くときには、必ず我が師あり」とも言っています。

 また、季氏16-4に「直(なお)きを友とし、諒(まこと)を友とし、多聞(たもん)を友とするは益なり」とあります。直言して隠すことのない人、誠実で裏表がない人、見聞の広い人を「益者三友」といい、付き合って有益な友としています。[1,p211]

 子供なら、まずは親や先生など身近な所で尊敬すべき人を見つけることが、生き方を学ぶ近道である。あるいは、偉人伝などで心に響く人物を見つけるのもよい。単に知識を身につける勉強とは、まったく違う、生きた学問の世界がそこにあることに気がつくだろう。それこそ、子供の一生涯を導く灯火となる。


■8.「よき人、孔子」と日本人■

 子供と『論語』を素読しながら、こんな事を話し合うというのは、人間としての生き方を学ぶ上で、実に意味のあることではないか。

 そういう会話の中から、子供はどういう生き方が良いのか、考えていく。冒頭で紹介した、いじめっ子に向かって「己の欲せざる所、人に施すこと勿(なか)れ」と注意した幼稚園児は、その好例である。

 『論語』は「よき人、孔子」がどんな生き方を目指したのか、その具体的な言動を通じて語った書である。我々の先人は何代にもわたって、この書を通じて「よき生き方」とは何か、を考えてきた。逆に、「よき人」孔子の生き方が、日本人の心の琴線に触れたからこそ、この書が千年以上も愛読されてきたのだろう。

 子供と『論語』を声に出して読むことは、そうしたわが国の先人が大切にした生き方につながっていくことになるのである。(文責:伊勢雅臣)


1. 岩越豊男『続・子供と声を出して読みたい『論語』百章』★★★、致知出版社、H21http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4884748433/japanontheg01-22%22
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by sakura4987 | 2009-05-22 13:40

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