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◆もし中国にああ言われたら―こう言い返せ②

「月刊誌を読む」06/02  「諸君」

■リットン報告書は満洲事変を侵略と断罪したと言われたら

杏林大学客員教授 田久保忠衛

 全十章からなるリットン報告書はどのような価値を持つものであろうか。…

 「日本は、シナの無法律状態により他の何れの国よりも苦しみたり。…」

 「満州における日本の行動および方針を決定せしものは、経済的考慮よりはむしろ日本の安全に対する重大なる懸念なるべし…」

 といった表現が少なからず登場する。実際に日本に同情的な委員が多かった報告書を日本人自身が正確に読む義務がある。(85頁)

 さらに、中国人は日本船での旅行、日本の銀行の利用、業務上も家事上も日本人の下で働かないよう警告を受けた。全国的に組織を持った国民党が組織を利用してあおり立て、警告に従わない中国人業者に爆弾を投げ、財産を破壊するなどの脅迫を行った実例がリットン報告書には挙げられている。…

 報告書最大の問題は第九章と第十章だった。とりわけ九章では問題解決の一般原則として十項が挙げられたが、そのうちの第四項は「満州における日本の権益は無視し得ざる事実にしていかなる解決もこれを承認し、かつ日本と満州との歴史的関連を考慮に入れるにあらずんば満足なるものにあらず」である。日本の満洲における特殊権益を歴史的にも認めているのである。…

 日本の不満は第七項[広範なる自治]…にあった。しかも、第八項は、秩序を維持するために憲兵隊を創設し、同時に外国軍隊の撤退を求めている。…日本国民全体がこれに感情的に反発していった。(86頁)


■盧溝橋事件は日本軍の謀略から戦争が始まったと言われたら

現代史家 泰郁彦

 中国のどの歴史書も言及を避けているのが、いわゆる「慮溝橋の第一発」、つまり七月七日夜、清水中隊が銃撃されたという事実である。(90頁)

 日中交渉で松井特務機関長が発砲者を第二一九団第三営と名指しで抗議したのに対し、秦徳純(第二十九軍副軍長)は「堤防には配兵していない」「撃ったとすれば匪賊か、西瓜小屋の番人か国民党の特務かも」とはぐらかしているが、共同で現地へ調査団を送ることに合意した。(90~91頁)

 では犯人は誰なのか。東京裁判でも結論は出ず、その後もミステリーの謎解きめいた諸説が乱立してきた。…筆者自身も久しく「発砲者は不明」の立場を通してきた。

 だが宛平県城を守備していた第二一九団第三営長で、河南省在住の金振中(一九〇三-八五)の回想談(一九八四年)が北京市政協編『七七事変』(中国文史出版社、一九八六)に掲載され、全文の訳を『中央公論』の一九八七年十二月号に紹介していらい、発砲者は…第二十九軍兵士だと確信するようになった。…

 金回想が初めて明らかにした重要事実は――(91頁)

 「私は部下の各中隊に戦闘準備を指令し、日本軍が中国軍陣地の一〇〇メートル以内に侵入したら射撃せよ、と指示した」

 すでに書いたように、提防方向から実弾を射たれたとして、責任を追及する日本側に対し、金振中をふくむ中国側は一貫して堤防への配兵を否認していた。ところが半世紀後に金老人はうっかり本当の話を語り、ヒアリングをまとめた若い世代の編集者も削るのを失念したものかと思われる。…

 ついでに中共謀略説に触れておくと、その可能性はきわめて低いというのが拙著『慮溝橋事件の研究』(東京大学出版会、一九九六)の結論だ。(92頁)


■日中戦争の死傷者三五〇〇万、南京大虐殺三〇万を認めろと言われたら

ジャーナリスト 櫻井よしこ

 中国政府は日中戦争の死傷者は三五〇〇万人であり、南京での日本軍による虐殺は三〇万人にのぼると声高に主張する。…一連の数字…は、間違いというより中国政府の政治意思に基いた〝捏造〟である…。

 〝三五〇〇万人〟というこの数は、一九九五年五月九日、江沢民国家主席(当時)がモスクワで突然、発表したものだ。…帰国後、江沢民は、前年に打ち出していた愛国主義教育実施要綱の実施に着手した。…

 歴史を振りかえると、日中戦争の犠牲者の数は、日本人の常識では理解し難い変遷を辿ってきた。日本が、戦いに敗れたことをもって犯罪国家とされて裁かれた東京裁判で、中華民国軍政部長を務めた何応欽が中国の人的被害の数を「軍人三二〇万、民間人不明」として出している。しかし、何応欽はその後両方合わせて五七〇万人だと訂正した。一方、内戦を経て中国共産党が中華人民共和国を樹立すると、日本軍による人的被害の数は二一六八万人へと飛躍的にふえた。(93頁)

 中国人による〝数字〟について、私は二〇〇五年夏、興味深い体験をした。…北京を訪れ、中国を代表する学者二名と共に日中歴史問題について論じたときのことだった。…私は彼らに、…たった一種類しかない中国の国定教科書で、日中戦争の犠牲者は一九六〇年までは一〇〇〇万人と教えられ、八五年には二一〇〇万人と改訂され、九五年には三五〇〇万人と、なんの説明もなく増えていったとも問うた。

 彼らは当初、右の問いには全く答えようとせず、話題を他の点に移そうとした。しかし、中国流の事実の歪曲を知るにはどうしても答えてもらわなければならない。三度目に問い質したとき、中国社会科学院研究所研究員の歩平氏が次のように答えたのだ。

 「戦争の犠牲者についてですが、歴史の事実というのは孤立して存在するのではなく、それは感情というものに直接関係しているということを申し上げたいと思います」

 馬脚を露すとはまさにこうしたことだ。日中戦争の犠牲者の数の理不尽な増加が国民感情に直結していると言うのであれば、その数は日本への恨みと憎しみの感情表現に他ならず、歴史事実とはなんの関係もない。しかもその恨みと憎しみを愛国主義教育によって植えつけ、増幅させるのが中国の国策である限り、反日感情も、犠牲者数も、その主な部分は中国政府自らが創作したものだと言われても弁明できないだろう。(94頁)

 かつて中国は日本を貶めるために国策として虚偽の情報を国際社会に広めた。現在も、彼らは日本を貶めるためにはどんな嘘をついてもいいと考えている。そのような心理から生れてきたのが日中戦争の犠牲者三五〇〇万人であり、南京大虐殺三〇万人である。(95頁)


■「万人坑」「三光作戦」「731」で大量殺戮されたと言われたら

昭和史研究家 田辺敏雄

 万人坑とは主に旧満州(中国東北部)の日本人経営の鉱山や大規模な工事現場で、中国人労働者に苛酷な労働を強要した結果、栄養失調やケガ、病気などで使いものにならなくなると、生きながらも捨てた「ヒト捨て場」だとされている。

 一九七一(昭和四六)年、本多勝一記者の手になる朝日新聞連載「中国の旅」で一躍有名になった。南満州の大石橋にあったマグネサイト鉱石を採掘していた南満鉱業では、推定犠牲者一万七千人という万人坑が発掘され、その上に建設した記念館に累々とした白骨遺体が展示、公開された。…

 また、満州最大の炭鉱、撫順炭鉱では約三〇~四〇カ所、犠牲者約二五~三〇万人というから、万人坑の一つひとつが、文字通り万単位の「ヒト捨て場」ということになる。(96頁)

 万人坑がデッチ上げだと断じる理由を簡単に説明しておきたい。…戦後行なわれた国民政府による満州唯一の瀋陽裁判で、同容疑で刑を科せられた例は一例もなかったし、取調べも逮捕された例もなかった。…万人坑が事実なら、敗戦時に現存していたはずであるから、現地の中国人が黙って見過ごすわけがあるまい。

 日本将兵は「三光作戦」、つまり中国人を殺しつくし(殺光)、家を焼きつくし(焼光)、家畜などの財産を奪いつくす(奪光)という作戦を知らなかった…。「三光」なる語が日本で知られるようになったのは、中国抑留者の手記集『三光』(カッパブックス、一九五七年)からであろう。(97頁)

 朝日新聞(一九九九年十一月二九日付)によれば、新華社通信は日本軍の細菌戦により、「中国民衆に少なくとも二十七万人の死者が出た」と報じたという。これに対し、常石敬一・神奈川大学教授は「残っている証拠から推定すると中国側の死者は多くても千人ほどだと思う」とコメントをしている。(99頁)
by sakura4987 | 2006-03-04 14:41

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