人気ブログランキング | 話題のタグを見る

★★★ 日本再生ネットワーク 厳選ニュース ★★★

sakura4987.exblog.jp
ブログトップ

◆住民を巻き込んだ沖縄戦 疎開の経緯も明かに

 /社会部編集委員 石川水穂
[1996年07月26日 東京夕刊]

 軍民合わせて十八万八千人が戦死した沖縄戦(昭和二十年四-六月)。
住民を巻き込んだ悲劇的な地上戦だったが、米軍上陸前、県民の総人
口(約六十万人)の四分の一にあたる十六万人が九州や台湾、沖縄本
島北部などに疎開・避難し、悲劇を免れた経緯が防衛研究所戦史部、
原剛氏の研究で明らかにされた。

 原氏が依拠したのは
(1)大本営陸軍部第一部長、真田穣一郎少将の日記
(2)陸軍省医事課長、大塚文郎大佐の備忘録
(3)泉守紀・沖縄県知事の日記
(4)文部省学童疎開関係綴-などの一次資料。

 原氏の研究によれば、軍が沖縄県民の疎開を考え始めたのは、米軍
がサイパン島に上陸し、「絶対国防圏」の一角が崩れ始めた昭和十九
年六月下旬。

 真田少将日記や大塚大佐の備忘録によると、同月二十八日の陸軍省
局長会報で富永恭次陸軍次官は

「小笠原ト硫黄島・沖縄・大東島・先島ノ石垣島土民ヲ引キアゲル様
ニシテ居ル。問題ガアルカラ外ヘ漏レヌ様ニ」

と述べ、真田第一部長は、間もなく沖縄の第三十二軍参謀長に着任す
る長勇少将に「球ノ非戦闘員ノ引揚」の研究を指示している。

              ▽…▽…▽

 サイパンが陥落した七月七日の陸軍省課長会報で軍務課長は

「沖縄軍司令官ヨリ国民引揚ゲノ意見具申アリ、本日ノ閣議デ認可ス
ルナラン」

と報告、翌八日の陸軍省局長会報では、軍務局長が

「球兵団地区ノ住民ハ、希望ニ依リ地区毎ニ、引揚ヲ世話スル事ニナル」

と述べている。

 沖縄県、陸軍省、内務省などの間で疎開計画を協議した結果、疎開
人数は県内の六十歳以上と十五歳未満の人口(約二十九万人)の三分
の一にあたる十万人、疎開先は宮崎、大分、熊本、佐賀の九州四県と
台湾に決まった。

 疎開船「対馬丸」の遭難(十九年八月二十二日)もあったが、同年
十月十日の那覇空襲によって疎開機運は高まり、昭和二十年三月上旬
までに、延べ百八十七隻の疎開船で、沖縄本島の約六万人が九州、宮
古・八重山の約二万人が台湾に疎開した。

 米軍の沖縄上陸の可能性が高くなった十九年十二月以降は、現地の
三十二軍と県、警察、学校の間で、残った住民の県内避難計画が検討
され、三月中旬までに、沖縄本島中南部の住民約三万人が北部の国頭
郡に避難。三月二十四日、米軍の艦砲射撃が始まった後も、上陸した
米軍が沖縄本島を南北に分断、避難の道が閉ざされた四月三日までの
間、県北部へ向けて殺到した中南部の住民約五万人が県北部へ無事、
避難した。

 原氏によれば、本格的な地上戦が始まる前、県外疎開・県内避難し
た沖縄県民は十六万人。当初は軍中央部の要請で政府が県外疎開を決
定し、十九年末からは、主として現地の三十二軍と沖縄県の間で県内
避難が検討された。

 だが、来春から全国の中学校で使われる社会科教科書(全七冊)で
は、この疎開・避難の実態に触れた記述は少ない。

              ▽…▽…▽

 「大規模な地上戦が行われた沖縄本島の南部はほとんど焼きつくさ
れた。この戦争での沖縄県民の犠牲者は、県出身の兵士もふくめて、
当時の沖縄県の人口のおよそ4分の1に当たる12万人以上にもなる
と推定されている。(注)沖縄戦では、一般の住民や、中等学校の男
女生徒までもが、弾薬の運搬、負傷者の手当てなどに協力した。それ
にもかかわらず、住民のなかで、スパイの疑いとの理由で日本軍に殺
害されたり、集団自決をする人々があったなど、悲惨な事態が各地に
おこった」(東京書籍)

 「日本軍は沖縄を本土防衛の捨て石として、中学生まで動員して戦
いました。県民のなかにはスパイの疑いで日本軍に殺されたり、集団
自決をせまられたりした人々があり、42万人の県民のうち12万2
000人が死亡しました」(大阪書籍)

 「沖縄戦では、住民約45万人のうち12万人以上が犠牲となった
(注)本島がはげしい戦場となり、県民の犠牲者のなかには、味方で
ある日本軍によって殺されたり、強制されて集団自決した者もあった」
(清水書院)

 日本軍がスパイ容疑で沖縄県民を殺したり集団自決を強要したりし
たことだけが強調されている。当時の県民の総数を「42万人」「4
5万人」とし、本土から派遣された兵士の犠牲者数(約六万人)を記
さないのも、公正とは言えない。

 唯一、疎開の事実に触れているのは帝国書院の教科書だけだ。

 「沖縄で疎開がはじまったのは、1944(昭和19)年の夏以後
のことです。日本本土や台湾へ、子供・女性・老人がつぎつぎと疎開
していきました。それは、沖縄が日本軍とアメリカ軍の戦場になるお
それがあったからです。ところが、同年8月、学童800人をふくむ
疎開者1700人をのせた対馬丸が、アメリカの潜水艦によってしず
められました。こののち、沖縄の県民は疎開することに強い不安をい
だき、戦場となる沖縄には多くの人が残りました」

 私たち産経新聞の教科書問題取材班は今夏、将来の日本を支える子
供たちのためにはならないと思える歴史教科書の自虐的な記述を徹底
検証する。

 (いしかわ・みずほ)

―――――――――――――――――――――――――――――――――――


◆沖縄戦 来春使用の中学校歴史教科書 「自決強制」を強調
[2001年06月23日 東京朝刊]

 沖縄は二十三日、先の大戦末期の悲惨な沖縄戦で犠牲になった人
たちを追悼する「慰霊の日」を迎える。沖縄戦は軍民一体となった
祖国防衛の戦いだったが、来春から使われる中学校歴史教科書には、
日本軍による住民への「集団自決の強制」「スパイ容疑での殺害」
を強調し、軍民を対立的に描く記述が目立っている。(2面に「主張」)

 ◆「スパイ容疑」「方言で迫害」、軍民、対立的に描く

 平成十四年度版の中学校歴史教科書の沖縄戦に関する主な記述は
表の通り。

 日本書籍、大阪書籍、教育出版、清水書院の四社が「集団自決の
強制」を明記。

 「スパイ容疑」「沖縄方言の使用」などで日本軍が住民を殺害した
と書いているのは日本書籍、大阪書籍、教育出版、清水書院、帝国書
院の五社だ。

 鉄血勤皇隊の中学生やひめゆり学徒隊の女学生については、扶桑社
が「勇敢に戦って」としているほかは、軍とともに戦ったのではなく、
“強制された被害者”のイメージを強調する記述が多い。

 このほか、沖縄戦の前後の記述を含めると、特攻隊について記述し
ているのは日本書籍と扶桑社。戦艦大和の名前があるのは扶桑社だけ。
米軍に撃沈された学童疎開船「対馬丸」に触れているのは帝国書院だ
けだ。

 戦後の沖縄の記述では、大阪書籍が本土復帰の項目で「しかし、沖
縄には広大なアメリカ軍の基地が残されたうえ、自衛隊も配備される
ことになって、住民の不安や不満は残されました」と、自衛隊の駐屯
が沖縄に不安や不満をもたらしたと主張。

 公民教科書では、日本書籍が「県の総面積の10%をしめる基地用
地が、経済の発展をさまたげているという指摘もある」とし、米軍の
駐留による経済効果よりマイナス面の方が大きいとの説を紹介してい
る。

                ◇

 《集団自決の真相・亡き母の手記出版》

 ◆軍の命令ではなかった

 沖縄戦で住民が集団自決した沖縄県・座間味島で生まれ育った那覇
市職員、宮城晴美さん(五一)は、亡き母親との約束を十年ぶりに果
たし、自決の真相に迫る著作「母の遺したもの」を出版した。集団自
決は日本軍の命令ではなかったとする母の手記と自らの調査が丹念に
つづられ、反響を呼んでいる。

 「いずれ機会をみて発表して」。母親の初枝さん=当時(六九)=
は平成二年、戦争体験を書いたノートを晴美さんに手渡し、半年後が
んで亡くなった。

 沖縄戦では島の住民約六百人のうち百三十五人が集団自決した。当
時二十四歳の初枝さんも手りゅう弾で自決を図ったが不発。座間味村
の助役が軍に住民を「玉砕させる」と申し出たのを目撃した、ただ一
人の生存者となった。

 だが、島の長老は初枝さんに「自決は軍の命令」と偽証するよう要
求。「遺族が国の補償を受けるため」と説得されて証言し、軍命令説
が定着していった。

 戦後、沖縄戦の語り部となった初枝さんは、事実を明らかにできず
に悩み続け、真相を書き留めたノートを娘に託した。

 晴美さんは母の死後、調査を開始。「アメリカに捕まるよりは」と
家族を絞め殺した男性、「父ちゃんも必ずおいでね」と殺されていっ
た子供ら…。よみがえる凄惨(せいさん)な記憶に泣きだす人も多か
ったが、「軍命令」を直接聞いた人はいなかった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――


◆【主張】慰霊の日 「沖縄」を深く把握したい
[2001年06月23日 東京朝刊]

 きょう二十三日は沖縄慰霊の日。沖縄戦で戦死した民間人や軍人の
霊を素直な気持ちで悼む日としたい。

 戦争末期(昭和二十年四-六月)に行われた沖縄戦は住民を巻き込
んだ悲劇的な地上戦となり、軍民合わせて十八万八千人が死亡した。
このうち沖縄県民(当時六十万人)の犠牲者は十二万人を超える。

 戦後日本の教育現場では、この沖縄戦の実相が必ずしも正確には伝
えられていない。多くの歴史教科書では、日本軍が住民に集団自決を
強要したり、スパイ容疑で殺害したりしたことだけが、ことさら強調
されている。まるで、日本軍と沖縄県民が敵対していたかのような書
き方だ。これでは、日本軍とともに苦しい戦闘を戦い抜いた沖縄県民
の貴い勇気が伝わってこない。

 日本本土と沖縄県民の対立をあおるような教育はもうやめるべきだ。
沖縄戦では、日本本土も沖縄も、軍人も民間人も、総力を挙げて圧倒
的な米軍と戦ったのである。歴史の授業では、こうした沖縄戦の全体
像をバランスよく教える必要があるだろう。

 慰霊の日には、小泉純一郎首相も沖縄入りし、戦死者の名を刻んだ
「平和の礎」を訪れる。一部マスコミは、靖国神社参拝を決めている
首相の訪問が沖縄県民の思いを複雑にさせるかのように報じているが、
あえて複雑にしているのはマスコミではないか。慰霊は素直な気持ち
で行うものである。

 戦後、基地問題をめぐって、沖縄革新県政と国との対立が続いてき
たが、最近、沖縄県民の意識が変わりつつある。不毛な対立を避け、
現実的な打開策を目指そうとする変化である。平成十年二月の名護市
長選、同年十一月の県知事選、昨年十一月の那覇市長選で、次々と保
守系首長が誕生した。これに伴い、懸案の米軍普天間飛行場や那覇港
湾施設の移転問題が解決に向けて動き出した。

 先月、内閣府が発表した沖縄県民の意識調査では、米軍基地を容認
する意見(45・7%)が初めて否定する意見(44・4%)を上回
った。しかし、沖縄が本土復帰から二十九年目の今も、在日米軍基地
などの75%を抱え、重い負担を強いられている現実に変わりはない。
同じ日本国民として、痛みを分かち合う努力が求められる。
by sakura4987 | 2006-03-06 16:54

毎日の様々なニュースの中から「これは!」というものを保存していきます。


by sakura4987