◆戦死・抑留死や引責自決、ひめゆり学徒隊… 246万の英霊を合祀
今年の八月十五日は、終戦六十年の節目という思い入れもあり、
靖国神社に二十万を超す人々が参拝した。しかし、この著名な神社
の来歴や現状は、一般に必ずしも正しく知られていない。
例えばこの神社にとって八月十五日は特別の祭日ではなく、最も
重要なのは春四月と秋十月の例大祭である。それは幕末維新から今
次大戦までの「国事に殉じた英霊」すべてを対象に、勅使の参向と
来賓・遺族の参列をえて、厳粛に営まれる。
靖国神社の祭神総数は「二百四十六万余柱」といわれるが、その
数は近年でもわずかずつ増えている。もちろん、新たな戦闘で亡く
なった人が合祀(ごうし)されるのではない。
「満州事変」「支那事変」と「大東亜戦争」で「戦死または戦傷
病死」された方々は、昭和二十年十一月の「臨時大招魂祭」をはじ
め、同三十三年の「相殿(あいどの)合祀祭」まで数度にわたり、
まとめて招魂されている。
しかし、「個々の祭神名は、今後慎重調査の上、例大祭に際し逐
次本殿に合祀」することになった。そこで厚生省により、氏名と死
没の年月日、場所、遺族などを確認された戦没者が「霊璽簿(れい
じぼ)」に登載され、それを本殿に合祀する「霊璽奉安祭」が何十
回も執り行われてきた。つまり、神社への招魂、相殿から本殿への
合祀という段階を経る。
合祀された英霊の大多数は軍人・軍属だが、ほかに準軍属その他
の人々も少なくない(朝鮮・台湾の出身者も含む)。
内訳は、軍人・軍属は
(1)戦地や抑留地で戦闘死・戦病死した者
(2)戦地で受傷罹患(りかん)して帰還後に死亡した者
(3)連合国の一方的な軍事裁判で刑を受け死亡した者
(4)終戦時などに自決した者-などである。
このうち、
(4)の自決者は、阿南惟幾陸相(大将)や大西瀧治郎海軍軍令部
次長(中将)のように引責自決したり、不当な裁判に抗議自決した
方々など、合計六百名近くにものぼる。また、
(3)のいわゆる「A級戦犯」を含む刑死・獄死者は、講和独立後、
国会決議や遺族援護法の改正を受け、「法務死」と公認されてから
合祀に至った。
一方、準軍属その他は
〔1〕軍の要請で戦闘に加わり、負傷罹病のため死亡した者(満州
開拓団員、沖縄県の一般邦人ら)
〔2〕ソ連、樺太、満州、中国などに抑留され死亡した者
〔3〕国家総動員法に基づいて徴用、または協力中に死亡した者
(動員学徒、徴用工、女子挺身(ていしん)隊員、従軍看護婦ら)。
また、
〔4〕地域、職域で組織された国民義勇隊員や防空警防団員で服務中に死亡した者
〔5〕中国の関東局、朝鮮と台湾の総督府、樺太庁の職員で公務中に死亡した者
〔6〕徴用船舶および交換船の乗務員で沈没し死亡した者
〔7〕沖縄の学童疎開船で遭難し死亡した者(七百六十六人)-などがある。
このうち女性は、〔3〕の挺身隊員、従軍看護婦や〔7〕の小学生
など、合計五万七千余柱にものぼる。沖縄決戦で本土防衛に死力を
尽くした「ひめゆり学徒隊」の生徒二百四人(昭和三十年代に合祀)
や樺太の真岡郵便局で島民を死守した若い電話交換手九人(四十年
代に合祀)などについては広く知られているが、他にも感動的な悲
話が多い。
靖国神社には多様な英霊が合祀されている。軍人・軍属以外も祀
(まつ)った例は、明治初期からあり、女性祭神の第一号は戊辰の
役で官軍救護のために亡くなった秋田の山城美与さんである。
非常時に公(国家・地域)のため命を捧げた人々をカミとして祀
り感謝する風習は、わが国に古くから根強く存する。それを受けて
維新前後から各地に招魂社ができ、今なお靖国神社・護国神社が続
いている文化史的な意味は、極めて大きい。
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ところ・いさお 専攻は日本法制文化史。昭和16年、岐阜県生
まれ。名古屋大卒。昨年から靖国神社崇敬者総代。著書「靖国の祈
り遥かに」など。