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◆「心」伝える国語教育を

評論家・金美齢 平成17年5月16日(月) 産経新聞

 教師を長年やってきたこともあって、昔から結婚式に招かれることが多い。そんなとき大抵一人や二人はお見掛けするのが、片手の原稿に落ち着かぬ視線をちらちらと落としながら、読むとも話すともつかぬ口調で祝辞を述べるタイプ。律義な感じの年配の男性が多いように思われるが、このタイプの原型のようなぎこちない若い男の子を見掛けることも結構あって、このままでは先行き問題なのではないかと気になる。

 祝辞などで原稿を読み上げると、どうしても取って付けたような表現の羅列になりやすく、人柄からにじみ出るような自然な表情の流露というようにはならない。少なくとも聞いている人の耳には決してそのようには伝わらない。ましてや、政府のお偉方の場合などによくあるように、部下に書かせた原稿を棒読みするだけでは、代筆者の文章の措辞修辞とご本人の音声の強弱抑揚の整合がちぐはぐになっても致し方なく、しばしば聞く人の耳に実のこもらない、空々しい感じを与える。こんなスピーチならしない方がよっぽどましだと思わせるほどひどい場合もある。

 そもそも祝辞にしろあいさつにしろ、広い意味でのコミュニケーションの一つの形態である。この英語はラテン語のcommunis(=common)を語源としており「何かを共通のものにすること」が本来の含意である。従って、単に話者の音声情報が聴者が情報の意味を知覚し、その結果として話者と共通の認識、共通の感覚、共通の価値などが生じてこそ、そこに初めてコミュニケーションというものが成立するのである。

 こうしてみると、祝辞やあいさつのスピーチにおいて部下に書かせた原稿を棒読みするという行為は、最初から聴衆とのコミュニケーションなど想定も期待もしていないのだといえよう。お偉方にごあいさついただいて箔を付けたいとの主催者の思惑と、人前に顔を出したいお偉方の打算がうまく絡み合って、あのような形が儀式化したのであろう。

 詳細なデータや数字を正確に読み上げることが必要な場合はいろいろあろうが、もちろん私はそんなことを問題にしているのではない。日本では多くの人が祝辞やあいさつという自己表現の絶好のチャンスを活用する意識に乏しく、これをいたずらに退屈無益な「儀式」に堕さしめているのが残念なのだ。

 大分前の話になるが、英国の名優ローレンス・オリビエがアカデミー賞受賞のあいさつをする場面をテレビで見たことがある。しわぶきの声一つない会場は、簡潔なスピーチが終わったとたん万雷の拍手。米国の若手俳優ジョン・ボイトが感極まった面持ちで「あれは芸術の極致だ」と叫んでいたのが印象的だった。

 こんな文章を書くのは、実はJR脱線事故の直後、JR西日本の社長が原稿に目を落としながら謝罪会見するシーンを見たからだ。スピーチが芸術になる文化と、「男は黙って〇〇ビール」の文化の落差。小学校の英語教育以前に日本語について考えるべきことは山ほどあるだろう。

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 きん・びれい 評論家、JET日本語学校理事長。早稲田大で平成8年まで20年以上英語講師を務める。近著に『日本が子どもたちに教えなかったこと』(PHP研究所)
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by sakura4987 | 2006-03-21 12:24

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