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◆生涯忘れぬミットの教訓 

【わたしの失敗】 野球監督・野村克也さん(1) 平成17年4月26日(火)産経新聞

 高校一年の京都府予選初戦。プレーボール直後に投じられた初球だった。

 ミットに収まったはずのボールが、どこにもない。周囲のざわつきが耳に入ってきた。野村克也(69)は、マスクを取ってきょろきょろとあたりを見回した。

 ボールは、バックネット方向に転々としていた。ミットの網の穴からすり抜けていたのだ。革ひもがゆるんでいた。使い古したミットだった。

 「田舎の学校だったので、代わりのミットなんてなかった。相手チームに借りるわけにもいかず、ベンチで革ひもを締めなおす応急処置をして、試合に戻った」

 みっともなかった。試合は大差をつけられて負けた。野村の“痛恨の失敗”初体験である。

 プロになり「生涯一捕手」を貫いた野村は試合前、必ずミットを見つめ、ひもが緩んでいないか確認した。このとき学んだ教訓だった。

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 「私の人生は小さな失敗の繰り返し、プロになってからは恥の連続だ。苦しいことやつらいことは避けて通りたかったけど、いつも避けられなかった」

 そう語る今の野村から感じられるのはしかし、逆境にもまれ続けながら自分を大きくしてきた男が放つ、豪胆でもあり繊細でもある魅力だ。

 少年時代から、苦労を重ねた。故郷の京都・網野町で、実家は食料品店を営んでいた。人並みの暮らしだったが、野村が三歳のとき父親が日中戦争で戦死してからは、六畳一間での貧しい暮らしが始まった。しかも母親は病弱だった。

 「小学校から帰ると、遊びに行くこともできず、隣家の子守を手伝った。その家で晩ご飯を食べさせてもらうと、母は『助かるなあ』と喜んでくれた」

 家計を助けるため、小学時代から、兄と一緒に新聞配達にも精を出した。

 野球は小三のころ始めた。経済的な余裕はなかったが、兄が野球の素質をいち早く見抜いた。「高校に行って野球を続けろ。お金のことはおれが何とかする」。弟の進学を勧めてくれた。

 いろんな思いが込められた、京都府立峰山高校での野球生活だった。

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 今でこそ峰山高校は甲子園初出場を果たし(平成十一年春)、名を知られた。しかし野村がいた昭和二十年代後半は無名。野球部にはコーチも監督もいなかった。自分たちで練習方法を考えた。

 野球の名門高校に通う友達にどんな練習をしているのか聞いて、チームに採り入れようとしたこともあった。「しかし体格がまるで違う。どんな練習をしても対等に戦えるわけがなかった」。試合に出ては負け続けた。

 それでも、野村はふんばった。あまりに野球部が弱いので、教職員の間に廃部の動きがあった。野球だけが取りえだった野村は「お願いだから野球部をつぶさないでくれ」と学校中で訴えた。野球の面白さを知ってもらおうと教師を自校の試合に連れて行き、ようやく廃部を免れた。

 結局、三年間で対外試合に勝ったのは数えるほど。屈辱続きの高校時代だった。しかし野村は、コンプレックスを反骨心に変えた。

 高校卒業後、テスト生としてプロの門をたたいた。


◆【わたしの失敗】野球監督・野村克也さん(2) 1年でクビ宣告

 三球三振。しかも一度もバットを振れないまま、棒立ちで。

 昭和二十九年六月十七日、南海ホークスのルーキー、野村克也(69)のプロ初打席の記録である。敗戦が濃厚な対西鉄戦の最終回に、代打の形で初打席は巡ってきた。鋭く落ちる変化球に、背番号60はまったくついていけなかった。

 「あの時初めて、プロのボールのすごさを知ったんだ。頭の中は真っ白。まるで宇宙遊泳をしているような気分だった。長嶋(茂雄)のデビューも三振だったけど、私とは技術のレベルが違う。当時の私は、プロの域に達していなかった」

 京都府立峰山高校を出て南海にテスト生として入団した野村。契約金はゼロだった。南海を選んだのはワケがあった。

 「他球団ではとても一軍の試合に出場できない。戦力を球団別に比較してみて、南海は捕手層に厚みがなく、自分にも必ずチャンスが巡ってくると信じた」

 野村の読みはとりあえず当たり、一年目から一軍に帯同できた。しかし厳しさを思い知らされた。当時、「野村」と名前で呼ばれることはなかった。先輩からはこう言われた。「おい、そこの壁」。投手が投げたボールを返すだけのブルペン捕手だったことが、「壁」の由来だった。

 屈辱的なプロ生活。練習後、一人居残って黙々と素振りをしながら、「今に見ていろ」と心の中で誓った。故郷の京都・網野町がまぶたに浮かんだ。家族のもとに帰りたかったが、町をあげて「初のプロ野球選手誕生」を盛大に祝福してもらった手前、帰郷も許されなかった。そして、さんざんのデビュー。

 結局、一年目は九試合に出場して十一打数ノーヒット。シーズンを終えると、クビを宣告された。予感はしていたが、のむわけにはいかない。「もう一年やらせてください」と何度も球団に頭を下げた。「おまえみたいなヤツは初めてだよ」。しぶしぶ契約延長に応じてくれた。

 「粘ってみるもんだよ。あの時、フロントに食い下がらなかったら、私の野球人生はあそこで終わっていた。選手の能力を、主観や第一印象で判断してはいけないということだよ」


◆【わたしの失敗】野球監督・野村克也さん(3) 恥を知り自分を戒める

 人生のいろんな局面で、悔やまれる判断はだれしもある。あのときこうしておけばよかった、と。野球なら一つの試合で、そんな局面がいくつかある。

 野村克也(69)が、記憶に刻まれた「失敗」として挙げるのが、南海ホークス時代の昭和四十一年八月十六日、対西鉄ライオンズ戦だ。

 九回裏、スコアは2-2。投手は杉浦忠。打席にはかつて「怪童」と呼ばれた中西太が代打で登場した。野村はカーブを要求。中西が弾き返した打球は弧を描いた。サヨナラ本塁打。

 単にリードミスといって片付けるには、野村にとって野球は人生そのものでありすぎた。宿舎に戻っても茫然自失。ユニホームを着たまま、口もきかないでうなだれていた。杉浦がそばにやって来て、「最後の一球はサイン通りでよかった」と慰めたほどだ。

 「打たれたピッチャーよりもキャッチャーが落ち込んでいる光景は信じられないだろうけれど、私は終わった試合にこだわった。自信を持って変化球のサインを出したのに、待ってましたと打たれた。『サインが盗まれているんじゃないのか』と疑心暗鬼になった」

 野村はどんな投手と組んでも、まずは「完全試合」を思い描いた。試合中盤までにはたいてい夢と消える。今度はノーヒットノーラン。それも途絶えると完封にかけた。杉浦は一番完全試合に近い投手だと思っていた。ショックは大きかった。

 神ならぬ人間に判断ミスは、ある。「恥をかくことが多いのも捕手の宿命だろう」と野村はいう。投手なら交替もあるが、捕手はよほどでないとそうはいかない。

 失敗にさらされ、恥をかきながらも、野村は「生涯一捕手」としてミットを構え続けた。

 打者として史上二人目の三冠王(昭和四十年)など数々の大記録を残した野村だが、捕手として特筆すべき記録はほとんどない。夢だった完全試合とは生涯、縁がなかった。しかし「配球を決めているのはおれだ」という自負を忘れなかった。

 阪神などの監督時代「恥を知れ」と選手に言い続けた。恥を知れば、次は恥をかかないように自分を戒める。野村の人生そのものでもあった。

※人の人生から教訓を得るという事は大事な事だ。これが出来ない人間は、愚か者と言われても仕方がない。その意味から言っても、偉人伝を子供たちに学ばせる事は大事な事だが、今の教育では積極的にこれをやらない。

多分、平等という観点から文句をつける集団があるのだろうと推測している。愚かである。

上記の記事だけでも、学ぶ点は多数ある。自分の失敗を教訓として学ぶという事。人に頼らず、自分で出来る事をやること。その観点から言うと、現在中学校などでは、指導者がいないからと言って、クラブ活動が激減しているそうだが、これも「甘い」と言う事になる。

道を開くためには、諦めずに、粘り強く説得する事も大事という事も学べる。戦略的に人生を考える事。失敗を他のせいにするのではなく、自分の責任として捕らえ、試行錯誤をしていく事。

そして、「恥を知ること」が大事だと言う。この恥を知るという、日本人にとって最も大事な観点が、現在の社会から消え去ろうとしている事は、痛恨の極みでもある。

他人に対して、また自分に対して「恥ずかしい」と思えることが、動物と人間を分けていると言ってもいいくらいに、大事な感情なのだが、これが麻痺してきたという事は、自分の良心が見えなくなってしまったという事になるのだろう。

人の人生から学ぶ事は多い。その為には、「素直な心」を取り戻す事だ。何に対して素直になるのか・・・・。それは自分の良心に対して素直になることを言うのだ。良く心を静めて、内なる声に耳を澄ましてみると、今の自分が分かってくる。

この事を「自灯明」と言うのだ。
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by sakura4987 | 2006-03-21 13:09

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