◆天皇と憲法を考える 国民と伝統に寄り添って
「日本国憲法および皇室典範の定めるところにより、ここに、皇位を継承しました」。元号が昭和から平成に変わって2日後、天皇陛下は即位後の儀式で、こう述べた。服装は列席の各界代表と同じようにモーニングコートだった。
昭和が始まるときの儀式はどうだったか。昭和天皇は陸海軍を統帥する大元帥の礼服に勲章を帯び、「朕(ちん)、皇祖皇宗の威霊に頼り万世一系の皇位を継承し」で始まる勅語を読んだ。
こうして二つの儀式を比べると、戦前と戦後の天皇の違いがよくわかる。
明治憲法では、天皇の地位は神代からの神聖なものとされた。日本国憲法は「主権の存する国民の総意に基づく」と定めている。天皇の役割も「統治権の総攬(そうらん)者」から、国政に関する権能を持たない「象徴」へと変わった。
●御真影から記者会見へ
そんなことを思い浮かべたのは、昨年来、皇位継承の問題をきっかけに、天皇制のあり方や憲法との関係などが論議されるようになったからだ。
天皇と皇室は長い歴史と伝統を持つ。連綿と続く血統がある。しかし、それだけで、一般の国民と違う特別な地位を与えられているわけではあるまい。
近代になって、明治憲法が歴史と伝統を踏まえたうえで、その時代にふさわしいように天皇制を位置づけた。さらに敗戦後、日本国憲法によって、天皇の位置づけは大きく変わった。天皇の権威が無謀な戦争に利用された苦い経験からだ。
天皇制はどう変わってきたのか。憲法はどんな役割を果たしているのか。そうしたことを、この機会に考えたい。
戦後、国民が最も驚いたのは、天皇の姿や肉声がよく伝わるようになったことだろう。
「新憲法きょうから施行」。大きな見出しを掲げた47年5月3日の朝日新聞に、もうひとつ「天皇陛下、記者と初の会見」の大きな見出しがある。
昭和天皇が皇居内で、奉仕作業を見ていた記者たちのところへやってきた。記者たちは天皇を囲み、地方視察の感想や研究のことなどを質問した。その一問一答がくわしく掲載されている。
「復興には石炭が大事だから、機会があれば炭鉱にも行きたい」「私の生物学も、趣味でやっているから、なかなかものにならなくてね」
戦前の天皇は「現人神(あらひとがみ)」だった。天皇と皇后の写真は御真影と呼ばれ、全国の学校につくられた奉安殿や奉安庫の奥深くにしまわれた。その前を通る時は必ず最敬礼しなければならなかった。
●国民ときずなを強めた
記者会見やお出かけなどが報道されるようになって、国民と皇室の垣根が低くなった。その垣根をいっそう低くしたのが、59年の皇太子ご成婚である。
市民の家庭に生まれた美智子さまと恋愛の末に結ばれたことは、皇室ブームを巻き起こした。子育てや手料理など、日常生活にまで大きな関心が集まった。
おふたりは、天皇、皇后になってからも福祉施設を訪ね、被災地の住民を励まし、戦地の慰霊の旅を重ねてきた。
朝日新聞の世論調査は、78年から象徴天皇制について断続的に聞いてきたが、支持率は常に80%を超えている。
多くの国民と同じような家庭をつくり、平和の大切さを説き、恵まれない人たちに手を差しのべる。そうした皇室のあり方が共感を呼び、国民とのきずなを強めていると思う。そのような行動は、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という憲法の精神に沿おうという天皇の意思の表れでもあるだろう。
いや、天皇が敬愛され、皇室がいまなお続いているのは、そんなことからではない。千数百年も男系で受け継いできた伝統こそが天皇制の核心である。皇位継承をめぐり、そう主張する人もいる。
●時代に合わせてこそ
もちろん、伝統を抜きにしては天皇制は語れない。だが、伝統とは何だろう。
男系での継承は、確かに重い意味を持ってきた。しかし、それを支えたもののひとつに、側室制度があった。これを復活させることはできまい。だからといって、戦後すぐに皇籍を離れた人たちをいまになって復帰させても、国民の気持ちをつかめるだろうか。紀子さまの出産しだいで、当面、男系を維持できるかもしれない。しかし、長い目で見れば、男系にこだわることが、かえって皇室の存続を危うくすることになりかねない。
そもそも長い歴史の中で、天皇は剣を帯びる武人から、文化的、宗教的な権威に変わってきた。
古来の伝統も変化してきた。即位後の大嘗祭(だいじょうさい)は皇位継承に伴う重要な儀式だが、長く断絶した時期があった。明治になって加えられた皇室祭祀(さいし)もある。
伝統のどれを残し、どれを変えるか。皇室は時代に合わせて柔軟に動いたからこそ、長い歴史を保ってきた。戦後も新たな伝統が積み重ねられている。
古来の伝統や文化を大切にして継承する。同時に、国民の意識や考え方に寄り添っていく。それが国民の求める皇室像ではないか。それはまた、天皇を「日本国と日本国民統合の象徴」と定める憲法の精神にもかなうことだろう。