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◆水俣病50年 終わりの見えない苦海

【朝日社説】2006年04月30日(日曜日)付

 熊本県の水俣湾に面した静かな漁村で、5歳と2歳の姉妹が相次いで突然、大声で叫び、けいれんを繰り返した。

 診察した医師はその異様な姿に衝撃を受けて、保健所に「原因不明の中枢神経疾患が発生している」と届けた。

 1956年5月1日のことだ。これがのちに水俣病の公式確認の日といわれる。あの日から50年になる。

 原因は地元の有力企業であるチッソが海に垂れ流した有機水銀だった。汚染された魚を食べた人だけでなく、母の胎内で有機水銀に侵された子どもたちが、もだえ苦しみながら死んでいった。


●手をこまぬいた国と県

 「水俣病は終わった」。その言葉をこれまで何度も聞かされた。

 しかし、現実には今もなお、重い病気に苦しむ患者がたくさんいる。それどころか、患者として認めてほしい、と新たに認定を申請する人たちが絶えない。有機水銀の被害はいったいどこまで広がっているのか。それさえもわからない。水俣病はいまだに終わりが見えない。

 この50年を振り返ると、国と熊本県がいかに手をこまぬき、被害を広げてしまったかを痛感する。

 国が水俣病の原因を「チッソの工場から排出された有機水銀」として公害病に認定したのは68年だ。保健所が「原因不明の中枢神経疾患」と届け出を受けてから12年もたっていた。その間、有機水銀は流され続け、被害は拡大した。

 被害がわかった段階で、何をすべきだったのか。

 水俣病は汚染魚による集団食中毒事件だ。食品衛生法で食中毒として処理すべきだった。そう主張するのは岡山大大学院教授で環境医学の津田敏秀さんだ。

 仕出しの弁当を食べて食中毒になれば、原因がわからなくても、保健所がただちに会社を営業停止にする。

 原因が水俣湾の魚や貝にあるのなら、食品衛生法を適用しなければならなかった。ただちに漁獲や食べることを禁じていれば、被害ははるかに小さくてすんだはずだ。

 実際に、公式確認から半年後には、熊本大学の調査で、水俣湾の魚による食中毒の疑いが出ていた。熊本県は1年余り後、食品衛生法に基づき、魚の漁獲や販売を禁じることを決めた。食品衛生法を適用する権限は県にもあった。ところが、熊本県はわざわざ厚生省に適用できるか問い合わせて、適用を見送った。

 40年間にわたって水俣病を研究している宮澤信雄さんは「チッソが補償をかぶることになるのを気遣った」と指摘する。法に基づいて漁獲などを禁じれば、魚の汚染の原因を突き止めなければならず、それはいずれチッソの責任追及につながることを心配したというのだ。

●認定基準を厳しくした

 危険なことを指摘されていたのに、それをないがしろにして規制を先延ばしにする。その結果、住民に取りかえしのつかない犠牲を生んでしまう。

 そうした高度成長のゆがみが噴き出し、水俣病をはじめ、四日市ぜんそく、イタイイタイ病、新潟水俣病などの公害が次々に表面化していった。

 なかでも水俣病が悲劇だったのは、患者が水俣病に認定してほしいと訴えても、次々にはねつけられたことだ。

 政府は当初、「疑わしきは救済する」との方針で幅広く患者と認めていた。ところが、認定患者が増え続け、どこまで広がるかわからなくなった。チッソが補償金を払えなくなるのではないか。それを恐れた政府は認定の基準を厳しくした。チッソの支払い能力に合わせて、患者を絞り込んだのだ。

 その結果、認定された患者は2千人余りにすぎない。95年の政治決着で、約1万人の未認定患者がやむなく「解決金」を受け取り、引き下がった。

 これで決着かと思われたところに、04年、最高裁が認定基準を広げる判決を出した。患者を絞ることに使われてきた認定基準の矛盾があらわになった。

●メディアの責任も重い

 世界に目を向けると、水俣病と同じ有機水銀による中毒被害が発展途上国を中心にいまも起こっている。たとえば、ブラジルのアマゾン川流域で金鉱下流に住む漁民の水銀中毒が深刻だ。こうした対策への協力が日本に求められている。

 水俣病50年にあたって、国会は「このような悲惨な公害を決して繰り返さない」と決議した。その中で「水俣病の教訓を世界に発信していく」と述べた。

 しかし、水俣病を狭くとらえ、患者を次々に切り捨てている限り、教訓を世界に発信できるはずがない。

 メディアの責任にも触れておきたい。朝日新聞の水俣病キャンペーンは68年、政府が公害病に認定する準備をしていたころに始まった。だが、その前に長い空白がある。ほかの新聞も大差はない。

 「水俣病ではマスコミは長い間、動かなかった。多面体のマスコミが鋭敏な目を、どうかこれからも水俣病に向けていただきたいのです」。水俣病の現実を描いた「苦海浄土」などの作家、石牟礼道子さんの言葉である。心したい。

 50年は一つの節目でしかない。水俣病の全体像を解き、すべての患者を救済する。それはこれからも続く。
by sakura4987 | 2006-05-06 08:54

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