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◆金日成、李承晩等による抵抗運動で日帝を打破したと言われたら

(【諸君】平成18年4月号)


現代コリア研究所所長 玉城素

 北朝鮮では、金日成将軍がひきいた「朝鮮人民軍」の抗日武装闘争が日本軍をうちやぶり、ついに一九四五年八月に朝鮮を解放して祖国に凱旋したというストーリーが正史としてまかり通っている。(104頁)

 金日成(本名・金聖柱、最初「一星」と号したが、いつしか同音イルソンの「日成」と名乗る)は、三二年四月に、ごく少数の青少年仲間をひきつれて、王徳林救国軍傘下で吉林省安図県に駐留した呉義成部隊干司令の配下に入り「別動隊」となった。

 当時、金日成は中国共産党員(三一年入党)だったから、中国青年共産同盟東満特委の指令に従ったものだ。これを金日成の「朝鮮人民軍」創建にすりかえたのだ。

 その後、一九三四年に中国共産党の指導により、共産派遊撃隊は「東北人民革命軍」に編成される。金日成は、その第二軍第三団政治委員として登場した。

 さらに一九三六年になると、コミンテルンの統一戦線戦術を受けて、東北人民革命軍は救国軍、山林隊などの包摂をはかる「東北抗日連軍」に再編された。…

 ここで金日成は、抗日連軍第一路軍の「六師長」となる。「帥」とは師団ではなく、一〇〇人前後の小武装集団だった。…

 一方、満州国は、三四年三月に薄儀を皇帝とする帝政国家体制を整え、…抗日部隊を窮地に追いつめた。(105頁)

 そこでついに四三年一二月、満州の中共党幹部がソ連極東のハバロフスクで会合し、抗日連軍の越境ソ連入りを決定した。

 金日成は少数の部下を連れて、早くも同年一〇月末にソ連に入り、不審者としてソ連内務部収容所で審査をうけていたが、中国人幹部の身元保証により釈放された。…

 金日成はソ連極東軍(第八八偵察旅団)大尉として正規四大隊中の第一大隊長に収まる。

 …一九四五年八月八日、ソ連赤軍は対日宣戦とともに大挙満州・北朝鮮になだれ込んだが、どういうわけかこの旅団は同行を許されない。ようやく旅団主力三五〇名が抗日連軍の本拠だった満州に入ったのは、日本降伏から二〇日もたった九月五日である。

 旅団内で「朝鮮工作団」を結成して備えていた金日成グループは、さらに二週間遅れの九月一九日に、ソ連軍輸送船で東海岸元山港に海路到着したのである。

 四〇年末以降、日本軍とは一回も銃火を交えず、ソ連占領軍が整えた舞台の上に乗せられたわけだ。凱旋どころでなく、金日成は元山到着後は金東煥(または英煥)など別名を名乗り、お忍びで平壌に入り赤軍大尉の軍服のまま占領行政に従事していた。

 彼がソ連占領軍のお眼鏡にかない、「抗日戦の英雄・金日成」として公式にデビューさせられたのは一カ月後の一〇月一四日「ソ連軍歓迎平壌市群衆大会」の席上であった。

 他方、韓国では戦前中国で亡命韓国人幹部らが「大韓民国臨時政府」(略称「臨政」)を設立した。そこで、この臨政が、実際にはどれほどの実力を備え、役割を発揮してきたのかを検証する必要がある。

 それは、北朝鮮の金日成抗日軍ほど虚像化、神話化が進められているわけではないが、その実態、功績が過大に伝えられていることに変わりはない。

 一九一〇年の日韓併合のころから、多くの独立運動の志士たちが朝鮮から国外に亡命した。…中でも有力指導者がもっとも多く集まったのが中国の国際都市・上海だった。(106頁)

 中国戦線自体では、中国国府軍は日本軍に勝利を収めたわけではなく、絶えず守勢に立たされていた。追いつめられた末に重慶にこもった臨政の国軍たる光復軍も、日本軍とほとんど戦火を交えることなく終戦を迎えた。…

 つまり、上海臨政は対日戦にはほとんど功績がなかった、といってよい。一九四五年の解放後、亡命先から帰国した旧臨政幹部たちが政局の主導権を握った。…日本との戦いよりも内紛に熱心だった上海臨政が、現韓国の母体になったのである。(108頁)
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by sakura4987 | 2006-05-06 10:49

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