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◆【保守再考】西部邁(5)「安全と生存」以上のもの

(産経 06・5・8)

 山口県光市で起こった陰惨きわまる母子殺害事件で、人権派にして死刑廃止論者である弁護士が最高裁法廷への出席をドタキャンした、つまり正当な理由なしに突如として欠席した。

 それにたいし、かつて「加害者の人権に配慮するような判決を下すくらいなら無罪放免にしてもらいたい、自分はその加害者の後をつけて復讐を果たす」と語った被害者の夫(父)が激しく抗議している。

 その抗議に共感する者は少なくないであろうが、その理由はとなると、被害者およびその家族への同情論の域を出ないようである。ましてや、「国家による殺人」としての死刑はいかなる理由で正当とされるか、ということについての議論は何ら深まりをみせていない。

                 ◆◇◆ 

 戦後、罪刑の軽重を決めるに当たって教育刑の考え方が流布されている。つまり、重い(軽い)被害を与えた犯罪者には、その更生のための教育期間として、長い(短い)刑期を与えるというのである。

 死刑についても、いわば社会全体にたいする教育効果を狙って、最重犯の再発を予防するためという理由付けがとられている。

 しかし、教育刑という思想は頷(うなず)きうるものではない。心からの反省をしない重犯者がたくさんいるし、死刑囚を増やしても最重犯者が減るとはかぎらないからである。

 逆にいうと、犯罪者にしてもし教育効果が顕著ならば、その囚人への罪刑を目立って軽減すべきなのか、という難問が生じてしまう。

 罪刑決定の中心には、「眼には眼を」という古来からの思想にもとづいて、因果応報説を据えるべきであろう。もっというと、人間関係を安定化させる究極の原理は応報説なのだ。なぜなら、その原理が最も「公正」だからである。

 そうなのだと知らせるのが個人および社会にたいする最大の教育効果だといってもよい。犯罪のことにかぎらず人間活動のすべてにおいて、「公正」への接近が目的であって、身体・生命の「安全と生存」は手段にすぎない、とわきまえるべきではないのか。

                 ◆◇◆ 

 ところが、個人のことについてはそうわきまえて、死刑制度にも賛成しておきながら、事が国家の問題に及ぶと、にわかに「安全と生存」を第一義とする(自称)保守派の人々が少なくない。

 彼らはいわば国家の身体・生命に固執して、強国のなす不義の戦争に加担することにより、自国の「自立と自尊」を放棄してかかる。

 そんな国家で成育する子孫たちにあって、やがて他者の自立と自尊を平気で犯す犯罪者が増えるであろう。

 また、ちょっとした被害にたいして過剰に報復して公正基準を侵犯する者も増えるに違いない。そんなことも洞察できないのでは保守の名が廃るというものではないのか。

 「生命の尊重のみで魂は死んでもよいのか、魂とは日本のことだ」と三島由紀夫は叫んだ。ここで私がいいたいのは、日本の魂といえるほどのものの根底には、公正の感覚があるしあらねばならないということである。(にしべ・すすむ=評論家、秀明大学学頭)
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by sakura4987 | 2006-05-08 11:50

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