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◆日本の貝殻とユダヤ人



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イギリスに、下層階級の上くらいに属する生活をしていた、ユダヤ人の一家があった。彼らは、東ヨーロッパのポグロム(ユダヤ人迫害)を逃れて移住してきた。

家族のうち、子どもが11人。その10番目の息子は、大変頭がよく活力に満ちあふれていた。しかし、学校では成績が非常に悪く、学校で悪い点ばかりとっていた。

この息子が高校を卒業したとき、父親は彼に、極東へ行く船の三等船室の片道切符を一枚、お祝いとして贈った。1871年、18歳でロンドンから一人で船に乗り、インド、シャム、シンガポールを通って、極東に向かった。

彼は途中、どこにも降りず、船の終点である横浜まで、まっすぐやってきた。


彼は、5ポンド以外には、何も持っていなかった。5ポンドといえば、およそ今日の5万円くらい。日本には、知人もいないし、住む家もなかった。また、この時代には、日本にいる外国人は、横浜、東京あたりで数百人にすぎなかった。

彼は湘南の海岸に行き、つぶれそうな無人の小屋に住み、初めの数日を過ごした。

そこで彼が不思議に思ったのは、毎日、日本の漁師たちがやってきて、波打ち際で砂を掘っている姿だった。よく観察していると、彼らは砂の中から貝を集めていた。手に取ってみるとその貝は大変美しかった。

彼は、こうした貝をいろいろに細工したり加工すれば、ボタンやタバコのケースなど、美しい商品ができるのではないかと考えた。

そして、貝を拾い始め、加工して父親のもとに送った。父親は手押し車に乗せて、ロンドンの町を売り歩いた。当時のロンドンでは、これは大変珍しがられ、飛ぶように売れた。

やがて父親は手押し車の引き売りをやめて、小さな一軒の商店を開くことができた。

ロンドンの下町であるイーストエンドにあった店舗を、ウエストエンドへ移すなど、この貝がらをもとにした商売は、どんどん発展していった。

そのあいだにも日本にいた彼の息子は、かなりのカネをためることができた。この青年の名前はマーカス・サミュエル(1853-1927)、ヘブライ語の名前がモルデカイであった。

※1833年(天宝4年)に同名のマーカス・サミュエル(父)がロンドンに東洋の貝殻を用いた骨董・装飾品店を開店しています。手押し車というのは、創業前の逸話の部類でしょう。※


サミュエルは1876年(23歳の時)に、横浜で「マーカス・サミュエル商会」を創業し、日本の雑貨類をイギリスへ輸出した。

輸出だけでなく、日本に工業製品を輸入したり、日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手にして、商売を大きく広げていった。

また、インドネシアで使用されない資源であった、石油の売り先を必要としていた。そこで彼は、「ライジング・サン石油株式会社」をつくって、日本に石油を売り込み始めた。

この商売もまた非常に成功した。

石油をインドネシアから日本までの運送方法は問題だった。初めのうちは2ガロン缶で運んでいたが、原油を運ぶと船を汚すために、後で洗うのが大変だった。それに火も出やすいということで、船会社が運ぶのをいやり、運賃が高くなった。


サミュエルは造船の専門家を招いて、世界で初めてのタンカー船をデザインした。そして彼は、世界初の「タンカー王」となった。サミュエルの新造タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河を通過し、シンガポールに航路をとったのは、1892年8月23日のことであった。
(ミュレックス:アッキ貝)

彼は自分のタンカーの一隻一隻に、日本の海岸で自分が拾った貝の名前をつけた。彼自身、このことについては、次のように書き残している。

「自分は貧しいユダヤ人少年として、日本の海岸で一人貝を拾っていた過去を、けっして忘れない。あのおかげで、今日億万長者になることができた」

 

1894年に「日清戦争」が勃発すると、サミュエルは日本軍に、食糧や、石油や、兵器や、軍需物質を供給して助けた。

そして戦後、日本が清国から台湾を割譲されて、台湾を領有するようになると、日本政府の求めに応じて、台湾の樟脳の開発を引き受けるかたわら、「アヘン公社」の経営に携わった。

日本が領有した台湾には、中国本土と同じように、アヘン中毒者が多かった。

日本の総督府はアヘンを吸うことをすぐに禁じても、かえって密売市場が栄えて、治安が乱れると判断して、アヘンを販売する公社をつくって、徐々に中毒患者を減らすという現実的な施策をとった。

サミュエルは、これらの大きな功績によって、明治天皇から「勲一等旭日大綬章」という勲章を授けられている。

一方、彼の石油の仕事が成功すればするほど、イギリス人の間から、ユダヤ人が石油業界で君臨していることに対して反発が強まり、ついにこの会社を売らなければならなくなった。

当時イギリスは大海軍を擁していたが、その艦隊に、サミュエル(ユダヤ人)が石油を供給していたからだ。

サミュエルは、会社を売らなければならなくなったとき、いくつかの条件を出した。

その一つは少数株主たりといえども、必ず彼の血をひいた者が、役員として会社に入ること。さらに、この会社が続く限り、貝を商標とすることであった。

この貝のマークをつけた石油会社こそ、今日、日本の津々浦々でもよく見られる「シェル石油」である。


1897年、サミュエルは「シェル運輸交易会社」を設立し、本社を横浜の元町に置いた。彼は湘南海岸で自ら「貝(シェル)」を拾った日々の原点に戻って、「シェル」と称したのだった。こうして横浜が「シェル石油会社」の発祥の地となった。

1907年、オランダの「ロイヤル・ダッチ石油会社」とイギリス資本の「シェル石油会社」が合併して、「ロイヤル・ダッチ・シェル」が誕生した。


ちなみに、このイギリス=オランダ連合の「ロイヤル・ダッチ・シェル」の子会社的存在が、イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」(英国石油:略称BP)である。


サミュエルは、イギリスに戻ると名士となった。そして1902年に、ロンドン市長になった。ユダヤ人として、5人目のロンドン市長である。

彼は就任式に、日本の林董(Tadasu,Hayashi)駐英公使を招いて、パレードの馬車に同乗させた。

1902年1月に「日英同盟条約」が結ばれたとはいえ、外国の外交官をたった一人だけ同乗させたのは、実に異例なことだった。この事実は、彼がいかに親日家だったかを示している。続く、2台目の馬車には、サミュエルのファニー夫人と、林公使夫人が乗った。


サミュエルは1921年に男爵の爵位を授けられて、貴族に列した。その4年後には、子爵になった。

サミュエルは「どうして、それほどまでに、日本が好きなのか?」という質問に対して、次のように答えている。


「中国人には表裏があるが、日本人は正直だ。日本は安定しているが、中国は腐りきっている。日本人は約束を必ず守る。中国人はいつも変節を繰り返している。したがって日本には未来があるが、中国にはない。」
by sakura4987 | 2006-05-26 14:02

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