★★★ 日本再生ネットワーク 厳選ニュース ★★★

sakura4987.exblog.jp
ブログトップ

◆子供乗船「知らなかった」 対馬丸攻撃の米潜水艦乗員が証言


 「(子どもが乗っていることを)知っていたら(魚雷を)撃たなかった」。60年前の1944年8月22日、戦争を避けて沖縄から九州へ疎開する国民学校学童826人を乗せた陸軍徴用貨物船「対馬丸」(6、754トン)を攻撃、沈没させた米潜水艦ボーフィン(1、525トン)の乗組員の1人で魚雷発射任務に就いていた元米海軍准尉が、琉球新報の取材に対し攻撃当時の模様を語った。元准尉は「罪のない子どもたちが巻き込まれたことはかわいそうだ」と現在の心情を吐露し、「どんな戦争でも最も大きな代償を払うのは民間人だ」と続けた。
 
 証言したのはアーサー・カーター氏(84)=米カリフォルニア州サンディエゴ在。米海軍下士官(2等兵曹)としてボーフィンに乗り組み、魚雷を発射するコンピューターの管理任務に就いていた。

 軍艦ではなく民間船舶である対馬丸を攻撃したことについてカーター氏は、「米海軍の総司令官は米大統領と米議会の同意の下、日本、ドイツ、イタリアに対し、潜水艦による無制限の戦いを命じた」と述べ、命令に基づいた行動だったことを強調した。

 さらに「日本の艦船を沈めるのが私たちの任務だった。商船のようにみせかけて軍艦かもしれないし、(商船が)燃料など軍事物資を積んでいることもある」と説明。

 対馬丸に国民学校学童(6-15歳)を含む民間人が乗船していた点については、「戦後35年ほどたって、誰かが書いた本で知った」という。その上で「もし(子どもが乗っていることを)知っていたら(魚雷を)撃たなかったと思う」と述べた。

 カーター氏は、1942年12月にボーフィンが進水してから46年に退役するまで乗り組んだ。太平洋戦争中は南西諸島近海などで哨戒活動に当たり、日本船舶の撃沈作戦に参加。第6次哨戒活動(1944年7月16日-9月13日)中に対馬丸を撃沈した。64年に准尉で除隊した。

◇ボーフィン号元乗員証言/無制限の戦い命じる

 米潜水艦ボーフィンの元乗組員、アーサー・カーター氏の証言は次の通り。

 -ボーフィン艦内でどんな任務に就いたのか。

 「1942年9月、ボーフィンを建造しているときから46年4月に(ボーフィンが)退役するまで乗り組み、9回の哨戒活動に参加した。(対馬丸を攻撃した)44年8月は海軍2等兵曹として、魚雷を発射するコンピューター管理の任務を担った」

 -対馬丸をどうやって発見したのか。

 「船の航路として知られる哨戒地域で煙やエンジン音などから発見した。一緒にいた船団も同じようにして発見。その後、船団の前に出るまでレーダーで追跡した。追跡班は展望塔、レーダー、魚雷データのコンピューターなどに人員を配置。見つからないように船を捕捉し続けることが大切だった。これらの手順を何度も繰り返した」

 -攻撃したときのことを覚えているか。

 「覚えている。3隻の商船と2隻の護衛艦がいたと思う。攻撃は夜間で、やるべき作業がたくさんあった。われわれは魚雷を発射し、(日本の)護衛艦が攻撃してきた」

 -どのような命令を受けていたのか。

 「日本の艦船を沈めるのが私たちの任務だった。商船のように見せ掛けて軍艦かもしれないし、(商船が)燃料など軍事物資を積んでいることもある。真珠湾攻撃の後、米海軍の総司令官は米大統領と米議会の同意の下、日本、ドイツ、イタリアに対し、潜水艦による無制限の戦いを命じた。太平洋や大西洋、そのほかの指定された戦闘地域を航海しているこれら3カ国の船であれば、種類を問わず撃沈させるという意味だ。軍需物資や原料の輸送を防ぐためだった」

 -ボーフィンが参加した狼群(ウルフパック)作戦とはどんな内容か。

 「通常、3隻以上の潜水艦が一緒に船舶の捜索や攻撃を行っていた。そのうちの1隻の艦長が指揮を執り、必要とあれば、グループとして、または単独で攻撃することができた。ボーフィンは44年8月、単独で任務を遂行していた」

 -対馬丸に子どもたちが乗船していたことを知っていたか。

 「戦後35年ほどたってから、誰かが書いた本で知った。罪のない子どもたちが巻き込まれたことは、かわいそうなことだと思う」

 -知っていたらどうしたか。

 「答えるのがとても難しい質問だ。潜水艦の命令を出せるのは、たった1人の人間(艦長)で、彼の責任は重大かつストレスが重くのしかかっている。普通の人間であれば、戦争中であれ、無実の人々を殺そうと思う人はいない。私には何とも言い難い。もし、私が知っていたなら、(魚雷を)撃たなかったと思う」

◇攻撃潜水艦ボーフィン
 1942年12月進水。全長93メートル、1525トン、最高速度20ノット。43年9月から南シナ海やパラオ海域、真珠湾などで5次にわたり哨戒活動。44年7月16日から9月13日までは南西諸島海域で第6次哨戒活動に従事した。対馬丸を撃沈した際には、魚雷2発の命中を確認した。航海日誌では「駆逐艦2隻も撃沈した」と誇大に報告している。現在はハワイ真珠湾に浮かび記念館となっている。異名は「真珠湾の復しゅう者」。

(琉球新報) - 8月21日10時36分更新
[PR]
by sakura4987 | 2006-06-20 13:29

毎日の様々なニュースの中から「これは!」というものを保存していきます。


by sakura4987