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◆熱い心なく共同体を語るなかれ

地域統合論が決定的に欠く視点 大阪大学名誉教授、同志社大学フェロー 加地伸行

平成17年1月8日(土)産経新聞

《あまりに違う東北と東南》

 近ごろ、「東アジア(経済)共同体」なるものを作ろうとする動きがある。

 その内容は東アジアの経済統合のために共同体を実現しようとするものであり、もちろん、政治がその背後にあって推進しようとしている。これは欧州連合(EU)をモデルとするもののようである。

 しかし、私は大きな疑問を抱く。

 その発想が現代の政治・経済の観念、いわば〈近代的〉知識に基づいているからであり、政治・経済を動かす文化、ひいては宗教の観点、いわば〈前近代的〉感覚が欠落しているからである。

 それを「東アジア」ならびに「共同体」の二点に分けて述べたい。

 まず東アジアについてであるが、それは形式的な呼称にすぎず、内容的には、東北アジア(「北東アジア」は外務省の粗訳)と東南アジア(外務省は北東アジアと称しながら、なぜ南東アジアと称さないのか)とであり、両者は、別の文化・宗教地域なのである。

 すなわち、東北アジアは祖先を祭祀(さいし)する地域であり、東南アジアは祖先を祭祀しない地域なのである。

 その結果、東北アジアは時間(歴史)を重んじるが、東南アジアにはそれがない。もし東南アジアにおいて祖先を祭祀する家族があれば、そのルーツはほとんど東北アジア系である。

 このように正反対の性格の両地域が、精神的につながる共同体をどのようにして作りうるのであろうか。ヨーロッパは、解釈の相違こそあれ、少なくともキリスト教によって精神的にはつながっているのである。

《家族のみが共同体の現実》

 次に共同体について。共同体論者の主張を読むかぎり、共同体を数量的・形式的・無機的にとらえ、〈仲良く効率的に協力する組織〉といった程度の、「共同」ということばの表面的語義に基づいて論じている。

 そこには「同」の内実がない。それなら共同体ではなくて、協力体にすぎず、なにもこと新しく共同体と言わずとも現行の諸協力関係ですむ話ではないか。

 共同体とは、核としてまさに〈同〉感覚が存在するものなのである。

 すなわち共同体を支える最大のものは、数量や形式など無機的なものではない。前近代の共同体のメンバーは、無償の愛、信頼、まごころ…といった、いわば熱い心で結ばれていたのである。

 しかし、この前近代の各社会に存在していた共同体を近代は次々と破壊しつくし、熱い心に代って、冷たい法が律する世界に変えていったのである。そして熱い心に代る潤滑油となったものは金銭である。

 辛うじて、熱い心が存在し、今も共同体を構成しているのは家族である。もっとも、家族でさえも今や崩壊への道を歩みはじめているのかもしれないが。

 家族以外の組織において、共同体、共同体とことばを軽やかに費やしたとて、その実感は現代人において失われている。

 自国の人々の間においてもそうなのに、まして他国の人々との間で熱い心で結ばれる共同体を構成することができようか。

《現代人に失われた価値観》

 江戸時代の大儒、新井白石は、自叙伝『折たく柴の記』の冒頭にこう記している。

 合戦で祖父が、「よき首とりて」大将のところに参上したとき、大将はそれを褒め、食事中だった自分の膳(ぜん)を押し出して与えた。

 そのとき、大将が使っていた箸(はし)もともに与えた。それは名誉であったので、祖父はその箸を大切にし、「今も身をはなし給(たま)はぬ也(なり)」と白石に父が語ったと。

 箸とか着ている羽織(はおり)という、上司の身体に近いものを与えられることを名誉と思うのが共同体のメンバーの感情なのである。金銭的価値とまったく異なるこのような価値観を現代人は持っていない。

 すなわち、家族以外の社会において共同体を支える熱い心はもはや消えたのである。

 にもかかわらず、この現代において外国とともに共同体を構想するなど、妄想である。共同体ということばのあやに頼って、なぜそのようなできもしないことを、言いだすのか。

 昨年の七月、本欄で私は中学生や高校生の一カ月合宿を勧めた。それはかつての共同体の疑似訓練でもあった。

 共同体を言うならば、少なくとも、まずそういうところから始めよ。そういう基礎なくして、国家規模の共同体成立など不可能である。




※確かに仰る通りだが、その家族自体が共同体ではなくなってきているのかもしれない。それもこれも西洋から無批判に取り入れてしまった、個人主義が大きな原因だろうし、夫婦別姓を仕掛けるサヨクのプロパガンダによって、ますます加速していると言える。

何でもそうだが、脚下照顧して足元から固めていかないと、いつかその反動は来るように思う。家族という共同体だけは、必死に守るべきで、この意識がなくなると、我が国は空中分解し、完全にどこかの国の植民地なりになってしまうと思う。

ところが、先日の参議院の予算委員会であった、山谷えりこさんの質疑について、産経新聞(平成17年3月6日)にこの様な事が書かれていた。

《家庭科教科書》
 山谷氏 家庭科じゃなくて家庭崩壊科だ。「例えば祖母は孫を家族と考えていても、孫は祖母を家族と考えない場合もあるだろう…犬や猫のペットを大切な家族の一員と考える人もある」というふうに書いている(「やだな」「どうなってるんだよ」とのヤジ)。シングルマザーを奨める記述もある。このような家庭科教科書を首相はご存じか。

 小泉首相 知らなかった。初めて知った。こういう教育のあり方こそ中教審で議論してもらいたい。

 中山文科相 検定の範囲内だが「ちょっとどうかな」というものもある。お父さん、お母さんは子供たちの教科書がどうなっているか見ていただき、ご意見を文科省に寄せていただきたい。


そして、あくる日の産経抄では、 

 「例えば祖母は孫を家族と考えていても、孫は祖母を家族と考えない場合もあるだろう…犬や猫のペットを大切な家族の一員と考える人もある」。こんな記述が、高校の家庭科教科書に出てくるのだという。先週の参院予算委員会で質問に立った山谷えり子氏が紹介している。
 一読し、寒々しさにやりきれなくなった。家族の形はさまざまだ。これが「正しい」という手本はない。核家族化で離れて暮らす祖母より、愛犬のほうを身近に感じる子供がいるのかもしれない。しかし、「祖母を家族と思わない孫」を認めていいのか。

 電車の中で、高校生らしい男の子の会話が耳に入った。「大学とか、どうする? 金かかるよな」「うちは、おばあちゃんが用意してくれてるみたいなんだ」「いいなぁ」。年ごろらしく、「おばあちゃん」という発音が恥ずかしげだったが、感謝がにじんで好感が持てた。

 遠く離れて、孫の成長を楽しみにしているのだろうか。それとも、ときには口げんかしながら、一つ屋根の下で暮らしているのだろうか。私の祖父母は四人とも他界している。思えば親孝行より、祖父母への恩返しの時間は短い。

 「振り込め詐欺」が問題になり始めたころ、ほとんど連絡がなかった“孫”からの電話に、「だまされてもいいの」と、制止する銀行員を困らせる女性もいたと読んだ記憶がある。孫への思いは、どこか一方通行になる宿命かもしれない。それを自覚すると、なおさらありがたさがわく。

 祖父母の存在は、自分がこの世に生まれ出た不思議や、命の連続の深遠さ、そして自分の国の歴史を考える初めの一歩だ。「祖母よりペット」という浅薄な家族観や教科書からは、命の重みの教育など、とうてい生まれてこない。


と書かれていた。もう、土台から崩されてしまっている感じがする。

さて、この共同体については、支那の同化政策の一環で、日本乗っ取りの橋頭堡にするのだろう。こんな事が今の役人には全く分からないらしい。あんな国とどうして仲良く慣れるのか。かの国と仲良くする方法は、ひとえにゴマをすり、言われるがままにしていることではないか。馬鹿じゃないか。

聞いた話では、日本の農家は最近、JAの世話で支那人や韓国人のお嫁さんをもらうことが増えたらしい。背に腹は変えられないという事だろうが、その内に妻は子供を残して離婚することが多いらしい。もうあっちもこっちも虫食い状態のスポンジ状況で、危険水域を通り越しているのかもしれない。

そもそも、今回の人権擁護法案にしても、こんなでたらめな法律を作ろうと考え付き、成立出来るかもしれないと思われること自体が、異常な状況であって、保守側は防戦一方だ。

攻撃は最大の防御なのだが、さて皆さんならどのような攻撃を考えられるだろうか。保守側は、何か一つに的を絞って、革命的なことを成し遂げなければ、早晩、我が国は大変な事態を迎える事になると思っている。さて、どうしたものか・・・・・。
by sakura4987 | 2006-06-20 14:44

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