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◆台湾の恩人 八田與一


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平成16年9月6日(月)産経新聞

◆知られ始めた日本統治時代の業績

「不毛の土地にダムを造り皆が豊かになった。自分たちの神様だ」

 「今日のことは、あまり新聞では書かないでください。最近中国からいじめられて困っているんです」

 講師の言葉に、約二百人の聴衆から笑い声があがった。

 六月十四日、「金沢市立ふるさと偉人館」を訪れた許文龍(きょ・ぶんりゅう)(七六)は、予定外の講演を頼まれて演壇に立った。柔らかく流暢(りゅうちょう)な言葉は日本人と区別がつかないほどだが、日本で人前に立って話すのは、実は初めてだった。

 許文龍はABS樹脂と液晶パネルでは世界有数の「奇美(きび)実業」オーナーだ。資産一千億円以上といわれ、台湾では立志伝中の人物で、台湾総統府資政(顧問)も務めている。

 この日の訪問は、金沢出身の技術者「八田與一(はった・よいち)」の胸像を同館に寄贈したためだった。本来は五月二十九日の除幕式に出席の予定だったが、二十日が陳水扁(ちん・すいへん)・台湾総統の就任式に当たっていた。相手陣営が選挙無効を訴えて情勢が揺れており、来日を延期したのだ。

 許文龍自身も問題を抱えていた。二十四日、「中国で利益を得ながら台湾独立を支持する緑色台商(りょくしょくたいしょう)(緑色の台湾商人)」と中国政府から名指しで非難され、三十一日には人民日報に同趣旨の記事が載った。

 緑は台湾独立のイメージカラーだ。多くの台湾企業と同様、奇美グループも中国投資を行い、生産拠点を持っている。新政権への圧力と受け取られ、奇美の株価を含めた台湾の平均株価が大幅続落する騒ぎとなった。

 金沢での講演の翌日には、奇美実業株主総会で許文龍の会長退任も決まった。対中投資継続のために妥協の姿勢を見せたといっていい。

 このような騒動の渦中にありながら、許文龍は能登半島をめぐる家族旅行の形で、ひっそりと金沢を訪れた。そして八田與一の生家にも足を運んだ。

                 ■□■

 地面に腰をおろし、片足を投げ出して静かな水面を見下ろすブロンズ像が台湾南部の山の中にある。「ただ一つ残る日本人の銅像」として八田與一の名が日本で知られ始めたのは、平成に入ってからだろう。許文龍が金沢市に贈った八田の胸像は、この銅像の胸から上の部分のレプリカである。

 昭和六(一九三一)年に設置されたこの像は十九年に取り外され、その後は灌漑(かんがい)用ダムの脇にある管理事務所のすみに人目を忍ぶように置かれてきた。五十六年になって、ようやく元の位置にもどされた。新しい台座には、「嘉南大●(かなんたいしゅう)設計者 八田與一氏像」と記されていた。

 「不毛の土地にダムを造り、おかげで皆が豊かになった。自分たちの神様は八田先生だ、と農民たちがいうのでびっくりしたんです」

 許文龍は嘉南(かなん)(台湾中部の嘉義(かぎ)から台南にかけての平野)に釣りに行ったときの会話を聴衆に紹介した。

 台南出身の許文龍は子供のころ、水が乏しい嘉南平野の農民は台湾で最も貧しいと父に聞いていた。

 だが記憶に残る昭和十年代の嘉南は豊かだった。「嘉南平野から来る人は食事も良いし、着る物も良い。田舎には豊かな家が多い。その理由がよくわからなかった」

 昭和五年に完成した「嘉南大●」のことは知っていた。香川県ほどの広さを網の目のように覆う灌漑水路で総延長は万里の長城の六倍になる。だが、それを造った技師の名を知ったのは、像が現れて後のことだった。調べるうちに、大変な偉人と分かったという。

 「いきなり愛知用水の十倍くらいの水がどーっと来る状態を想像してください。貧しい農民ならずとも涙が出ますよ。日本人は八田先生の業績を思い直し、自信をもってもらいたい」

 許文龍の目には感涙があふれ、聴衆は驚いて見入った。

                 ■□■

 戦後、「台湾は中国の一部」という国是から、台湾では独自の歴史研究は禁圧されていた。戒厳令(一九四九-八七年)が解除されて以降、台湾史を振りかえる動きが盛んになったが、なかでも日本の統治時代をどうとらえるかが研究の焦点となっている。

 李登輝(り・とうき)前総統時代に作られ、平成九(一九九七)年から使用された「認識台湾」という教科書では戦前の日本統治の貢献が積極的に評価された。その代表例に八田與一が紹介されたことで、若い世代の間でも知名度が上がっている。

 一方、李登輝や許文龍などの台湾独立志向に反対して、台湾と中国の一体性を考える側は、技術者としての八田與一を評価しつつも、「あくまでも植民地支配の一環」ととらえる構図ができているようだ。

                 ■□■

 昭和三十四年に同じ台南出身の実業家、邱永漢(きゅう・えいかん)(八〇)が「台湾の恩人 八田技師」という詳細な記事を「文芸春秋」に書いている。これが八田與一が日本で言及された最初だった。

 台湾独立運動にかかわった邱永漢は香港に亡命後、日本に渡る。その経験を描いた「香港」で昭和三十年の直木賞を受賞、後に“株の神様”と異名を取る実業家となった。近年では対中投資の旗振り役として有名だ。

 その中国寄りの立場からは、台湾総督府の技術者を顕彰する文章はそぐわない印象がある。昔の文章にはあまり触れてほしくないようにも感じられた。

 「私はいつも他人の考えより少し先を走っています。あの人たちは僕よりずっと後に気付いた、ということじゃないかな」。東京・渋谷のオフィスで邱永漢は説明した。“あの人たち”とは許文龍や李登輝などを指すようだ。

 当時、記事への反響は何もなかった。「まだ飯を食うのに精いっぱいの時代だから、一般の人はこんなことを気にかけたりしないんじゃないですか」

 確かに早過ぎる紹介だったかもしれない。八田與一が戦前の日本統治時代の象徴的人物の一人として脚光を浴びるためには、三十年以上も隠れていた像が再び姿を現すだけでなく、その業績を再発見する日本人の存在が必要だった。=敬称略  ●=土へんに川




※我が国にもいい歴史はたくさんありますし、それを知ればやはり嬉しくなります。子供たちにいやでも教えたいものです。
by sakura4987 | 2006-06-21 13:08

毎日の様々なニュースの中から「これは!」というものを保存していきます。


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