◆主婦の手抜き誘うフェミニスト
<主婦不在、地域の絆弱まる>
育児、介護は立派な仕事 人に尽くす文化の復活を
「男は仕事、女は家庭」というのは、「固定的な男女の役割分担の押し付け」としてフェミニストからやり玉に挙げられている。これをどう考えるべきか、『専業主婦のススメ』を書いた篠原駿一郎・長崎大学教授に聞いた。
(聞き手・山本 彰)
――『専業主婦のススメ』の中で、「フェミニストは女性差別を発見しているというより新しい評価の仕方を提案しようとしている」と述べているが。
世の中にはいろいろな区別があり、職業もさまざまだ。区別そのものに良い悪いの価値概念はない。例えば、われわれは農業国を差別しているわけではない。日本の食糧自給率は低くて、農業国に依存しているわけで、それぞれの国の自然状況を尊重しながら経済分業していけばよい。同じように人間の体も脳を含めて男女で違い、その違いをそれぞれが尊重すればよい。違いが差別だというところに論理の飛躍がある。
――フェミニストは、女性でも能力があるのに家庭に閉じ込められている、と問題提起するが。
フェミニストは女性が家庭に閉じ込められている、という言い方で、悪いという価値判断を下している。その前提には、家庭の仕事はつまらない仕事であり、また子育ては、別に付きっきりでやる必要はないのだ、という価値観がある。家庭の仕事はつまらないという前提があるので、差別になる。農業従事者と工場労働者とどちらが偉いかというのはナンセンスというのと同じだ。
主婦の仕事がつまらないと言い出したのは、米フェミニズム運動の原点となった米国のベティ・フリーダンだと思う。一番の問題は、主婦という仕事がつまらないという発想だ。家事労働は非常に軽減化されており、そんなにかかり切りでなくて良いが大事なのは子供だ。子供の教育がそこで手抜きされていると思う。
――今の時代に専業主婦というと、夫の稼ぎが十分で、優雅に暮らしているイメージがあるが。
会社の仕事は時間が拘束されており、やるべき仕事がある。主婦の仕事は掃除は毎日してもよいし、一週間に一度でも病気にはならない。主婦次第であり、夫や家族、子供のために良い家庭をつくろうとする主婦は多忙だ。食材一つ選ぶにも相当な知識が要る。
私が子供のころのことを思い出すと、まず学校から帰ってきて、お母さんの顔を見る。その時、いないとすごく寂しい気持ちになる。いつも近くに居るということが重要なのだ。それだけで、子供が安らぎ情操的に落ち着く。子供たちが罪を犯したり、精神的に不安定なのは、女性が家庭を重要視しなくなったからだろう。
――今は第一次産業のウエートが低く核家族が大半となり、子供が帰ってきたときの出迎え方も昔と違う。
昔の大家族が重要だと思う。保育園に行けば同じ年代の子供ばかりだ。家族の原点は世代の違う人間が一緒に住むということだ。世代の違う人間が住めば、いろいろな助け合いができる。核家族となった上に、主婦が居なくなって地域社会の繋(つな)がりも弱くなっている。
――イギリスなどで専業主婦回帰の現象が起きているようだが、核家族の問題はどう解決しているのか。
ある程度、貧しくても仕方がないということだ。われわれの豊かさというのは、相対的なものであり、日本の社会では一定の豊かさに達している。夫しか働いていないで、子供が何人かいれば、生活は切り詰めないといけないだろうが、今時お腹をすかしている人はいないし、肥満の方が心配な社会だ。
英国では、地域にフルタイム・マザーズというグループをつくり、お互いに知恵を出し合いながら、地域社会的なものをつくって交流している。女性がもっと家庭にいれば、地域社会が活性化するだろう。
――老人介護に見られるように、公的なサービスが強化される中で、家族間の愛情を仲立ちにした活動に対する支援体制の方は、どんどん衰退してきている。
お金に換算できない仕事は価値がないという考え方が蔓延(まんえん)している。ヘルパーとしてよその老人を助けたらお金になる、という発想だ。教育費が掛かるからお金を稼がなければいけないという理屈だが、昔は塾などはほとんど行かなかった。しかし、今、塾に行かなければ競争に勝てない。お互いに首を締め合っているようなものだ。
――乳幼児の育児は三、四年で終わるが、介護の方は何年続くか分からない。そういう中に、主に介護に当たる女性を束縛してしまうのは人権問題であるという発想があり、家族の絆(きずな)よりも人権尊重の方が強くなっている。
人権とは何かということだ。確かに個人ができるだけ好きなことをやって人に束縛されないということを人権だと考えれば、子育ても人権侵害かもしれない。五年で死ぬか十年で死ぬか分からない老人を毎日、毎日見続けるというのも人権侵害と捉(とら)える向きもあるだろう。
しかし、われわれは、必ずしも自由気ままなことを求めているのではなくて、やはり人に奉仕するとか人の犠牲になるという文化を持っていた。目先の気安さに魅力があるので、大変なことは避けたいと思うが、実際は必ずしもそれで幸せが得られるわけではない。
長崎大学の教育学部付属に養護学校がある。そこには、ダウン症とか、さまざまに障害を持った子供もいて、そういう人たちを育てるお母さんたちは大変だ。毎日、学校に通わせ帰ってからも付きっきりだ。ところが、そういう人たちは皆、そういう子供たちを持って幸せだというのだ。
自由は何か人間を寂しくさせたり、逆に幸せでなくする面がある。人は楽なことを求めながらも、実際には苦しんだり、義務を果たしたり、あの人にこれをやってあげなければいけないということに実は喜びを感じる。
――戦前、特に男性はお国のため、戦後は会社のために働いてきたが、今は家事をきちんとやるべきだとなってきた。
家事はできる人はやったらよいと思うが、子供、老人、家族をどうするか、地域社会をどうするかという問題がある。保守的なようだが、そのためには主婦による活動を復活する以外に無いのではないか。
主婦が子育てをしたり、介護をする仕事は立派な仕事だと評価すればよい。男性はそれを評価していたと思うのだが、フェミニストが虐げられていたと喧伝(けんでん)している。
昔は男性も朝から晩まで働きずくめで大変だった。戦時中は赤紙一枚で召集され、簡単に殺されていった。男と女はいつも一緒に生きてきたのであり、女だけ虐げられたというのはフェミニストのPRだ。そういうように歴史を読み変えたいのだ。女が大変だった時代は男も大変だったのである。
――このままだと、二十一世紀はどのような社会になると予想されるか。
結婚というのは、愛情もさることながら、お互いに相手にないものを相補い合う中で、絆が強くなる。男も女も自立して何でもやれるということになれば、孤立化して結び付きが弱くなる。
実際、今の若い女性は、身の回りのこともでき経済力もある一方、性と生殖とがかなり分離してきているため、性的な関係についてのタブーが無くなっている。性的欲求も満たされるとなれば、結婚の必然性がなくなる。一夫一婦制とか離婚を難しくするというのは、自由を制限するシステムであり、だんだん壊れていきかねない。
――そうなると、少子化以前に家庭的枠組みが崩壊していきそうだが。
北欧で、女性の就業率が上がるとともに、保育所を増やすという形で少子化に歯止めが掛かるとフェミニストは言っているが抜本的解決にはならない。抜本的解決のためには、女性が子育てや子供を持つことの重要性や意義、それを厭(いと)わないという、本来持っていた気持ちを取り戻すことだ。
それをすべての女性に強制することは必要ない。基本的に自由な社会は重要だと思っているから、仕事が好きな人はすればよいが、子育てが好きな女性もたくさんいると思う。そういう女性たちを国はサポートしてやればよい。
――女性に母性本能は本当にあるのかとか、これまで問いかけもしないことを、フェミニストは問題提起している。
本能は一定の刺激がなければ生まれてこない。ほかの人たちが子育てをしているのを見て、刺激を受けて女性が母親らしくなっていく。
大日向雅美さんは「子育てをしたくない女性がいるではないか」というが、適切な刺激を与えられなければ本能は生まれてこない。
たとえば、子供は人が二本足で歩いているのを見て立とうとするが、狼(おおかみ)に育てられたら二本足で歩かない。本能とはそういうものだ。女性は、子供をこうやって子供を産んで育てるのだということを直接・間接に教育を受けることで、自(おの)ずから母親になっていく。
しのはら・しゅんいちろう 昭和19年(1944年)、福岡県生まれ。九州大学卒。ロンドン大学大学院留学。長崎大学教育学部教授。専攻は哲学、倫理学、論理学。フェミニズム問題で他大学でも集中講義を行っている。著書・論文に『専業主婦のススメ』『生と死の倫理学』など多数。
※まだまだ世間では、ジェンダーフリーや男女共同参画の陰謀の恐ろしさがわかっていないようだ。HPにしても反対派のサイトが意外に少ない事に憂いは深まる。突き詰めると、神の領域に入っての議論になるため、避ける人も多いのかもしれない。日本には、哲学学者はいるが、哲学者が存在せず、この議論がなかなか深まっていかないが、その中にあって小数の学者や医師の勇気ある発言には敬意を表したいと思う。しかし、現在すでに内閣府を通して全行政に入り込んだこの悪魔の思想に対し、マスコミはただ垂れ流すだけだし、政治家も無関心で、行政も考える材料を持たないため、歯止めが利かなくなっている。社会に出てからの、日頃の学びの重要性が身に染みてわかってくるが、これを阻止できるものは、日本人の良心を持った人たちのマスコミ力以外にないのではないだろうか。