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◆悪魔の掌で踊るフェミニストたち

~私はなぜここまで、この問題に噛み付くのか~

 2年以上前から、男女共同参画社会に警鐘を鳴らしてきたが、最近になって各地で様々な問題が起きていることは、皆様もご存知だろう。

身近な九州でも、
◆都城市での同性愛を認める条例における混乱
◆八女市の条例案の中にも同性愛を認める文言が入りそうになった件
◆筑後市から出された条例案に対して、議会の修正案が出され、それに対して市の方が条例案を取り下げるという前代未聞の件
◆久留米市での「ジェンダーフリー」という用語を教育の副読本から除外すると教育長が方針を示した件
◆各地で行われている性教育問題などなど、この種の問題点は、現在無数に存在する。

 そこで本日は原点に戻って、この男女共同参画社会についての考え方を再確認したいと思う。

①「自分らしく生きる」とは 

 男女共同参画社会の中では、よく「男らしく」「女らしく」ではなく、「自分らしく」生きましょうと謳われている。私には、この「自分らしく生きる」という言葉は、努力を否定した現状維持の肯定に聞こえる。

 確かに、傷ついた人や苦悩の中にある人にとってはそれも必要だが、やはり人間、努力する事が必要だろう。他人と比べずにオンリー・ワンの人生を歩む事だという意味もあろうが、これもやはり弱者を対象とする甘い言葉であり、「自分さえ良ければいい」というわがままを肯定しかねない考えだ。また「他者への関心」を阻害するいかがわしい言い分である。「愛の反対は無関心である」という言葉があるが、まさに愛と努力の放棄を奨励することになっている。

 人は他人がいるからこそ様々な学びがあり、発展出来るのであって、他人を無視したところに、人生の意義はない。「他人への感謝」があってこその人生である。参画推進者が言うこの「自分らしさ」は真理の非常に小さな一面ではあるが、ごく少数の人間への対処療法であって、全てではない事を確認しておきたいと思うし、多くの人間に対しては、原則、発展・繁栄へのいざないの言葉の方が大事だ。

 それから言うと、もう少し別の言い方、例えば、自分の長所を生かし、短所を矯めて努力向上しようなどとするべきだろうし、「男らしさ」「女らしさ」という、自分なりの精神的目標を持って向上する考え方の方が健全である。

 お釈迦様もお亡くなりになる最後の言葉として、弟子たちに対して「諸々の事象は過ぎ去っていくものだ。怠ることなく修行を完成させなさい」と言っておられる。これこそを、人は人生の目標にしなければならないと思う。

 そもそもこの様な曖昧な言葉は、行政ではあまり使わない方がいい。

 それと「自分らしく」と言うが、「自分」とは何かが分かって言っているのだろうか?「自分らしく」というのは、非常に哲学的で、宗教的な言葉であり、我々凡人ではなかなか答えが出せない言葉なのだ。

 そもそも「自分とは何か」とは、宗(仏)教や哲学の永遠の課題であり、あなたが思っている自分というのはないとまで言い切る人もいる。お釈迦様も諸行無常と言ってるように、これこそが自分だと言い切れないのが本当だろう。諸行無常の中には、「心」も入っていることを知るべきだ。心もまた変転して止まないことは、一念三千論や十界互具説をみればよくわかってくる。

 ゆえに行政としては、この様な曖昧模糊とした言葉を軽率に使うべきではないし、また推進者の現状維持の幻惑言葉に惑わされてはならないことを肝に銘じて欲しい。


②根底に流れる、哲学思想 

 実は、この男女共同参画の流れの根底には、いろいろな哲学がある。「ラディカルに語れば」(平凡社)という本があるが、この本は、東京大学の教授で、男女共同参画推進派の巨頭の一人である、上野千鶴子氏が『「フェニミズムの現在』を語るのに各分野で今日のぞみうる最高の対話者』(P5)を相手に対談した本であるが、ここにはマルクスやフーコーなどやバトラー、バタンテール、その他、知らない哲学者が多数出てくる。
 ここで語られる中で男女共同参画を象徴する、上野千鶴子氏の究極の言葉をご紹介しよう。

 「テロス(目的)を捨てられないのはマルクス主義の自縄自縛ではないでしょうか。(笑)・・・私がフーコーから学んだのは、このテロスの放棄ということですよ。・・・私は、ここでは、ポスト構造主義者になります。フーコーの『系譜学』から学んだのは、歴史に起源と目的を求めない、という態度です」(P305)と彼女は言っている。

 要するに、歴史には起源もないんだ、神仏もないんだ。そして向かっていく目標もないんだ。いわゆるこの「マルクス主義の自縄自縛」というのは、マルクス主義はユートピアというものを目指す面もあるので、そのユートピアというのを目指すわけじゃないんだと。もうある意味、やりたいようにやればいいんだというのが、この言葉の意味だろうと私は思う。マルクス主義を超えた究極の唯物論哲学なのであろう。

 人権団体からの批判を恐れずに言うとするならば、極端に言うと、獣の世界で結構だということだろう。

 このフーコーという人間は、中川八洋氏によると、「マルクスとニーチェとハイデッカーをブレンドして、その上にルソーを振りかけたもの」と評価されるような哲学者だ。

 精神病院を解体して狂人を解放せよとか、刑務所を解体して犯罪者を解放すべきだとかと主張し、本人自身も重度の精神分裂症でしかも同性愛者だ。そして、狂人が支配し正常者が支配される社会をもって「正しい社会」だと主張した、『性の歴史-知への意思』という本の著者だ。

 この本のなかでフーコーは、「国家が人口を必要としたから家族と生殖に直結するような男女間性愛を正常とみる考え方が「権力」によって「知」とされたに過ぎない」と言う。つまり、生殖否定の性的欲望こそが正しいとして、ゲイやレズこそを正常だと言うのだ。

 つまりフーコーが理想とする人間とは、「性器をもった(男でもなく女でもない)無性人間」となり、そこには、男女間の愛も夫婦間の精神的絆も親子の情愛も何一つない。むろん、男女が区別されたことで洗練されてきた、文明社会としての倫理も道徳も、全くないということになるが、この様な考えが根底にある事を知れば、推進論者から出てきている様々な事がよく理解できる。


③悪魔に操られる、フェミニストたち

 「男女共同参画基本法」(ぎょうせい)の中で推進派の両巨頭の一人である東大教授の大沢真理氏は『10年以上にわたる不況と雇用不安のもと、中高年男性を中心に自殺が3年連続で3万件を超えた。1990年代の日本経済は、第2波経済敗戦に打ちひしがれた。脅威の正体が見えず、おそれ、いら立つ人々は、内向きの「伝統」や「家族」にいやしを見出す例は日本に限らない。だが、それはいやしになるどころか、妻子の扶養責任や住宅ローンを背負う中高年男性たちを押しつぶしているのではないか。不況と不安の悪循環を脱し、持続可能な経済社会を構築するかぎはジェンダーフリーにあることは一層明らかである。」(P2)と言っている。

 外で傷ついた男性が家族にいやしを求め、家族と仲よくしようとすれば、妻子の扶養責任や住宅ローンを背負うことになるので止めておけと言うのだ。家族を放って置いて、夜の街に出よと言うのだろうか、それともホームレスを勧めているのだろうか。愛の気持ちとは、他の人びとに与えようとする心であり、何か自分にできることがあればやろうという心だということが、全く理解できず、砂漠の様な人生を歩んでいる人なのだろう。

 この人は「人間は自分のほしいと思うものを求めて世間を歩き回り、そして家庭に戻ったときにそれを見出す。」 (G・ムーア)というこの言葉や「愛は家庭から始まります。まず家庭の中で不幸な人を救いなさい。両者が愛し合い、母親が家庭の中心となりなさい。平和とうるおいの家庭が築けたら、隣人を愛しなさい。自分が、自分の家庭が、愛に満たされなければ隣人を愛せません」と言った、マザーテレサの言葉をどう解するのだろうか。

 この人には、この世界は人間同士が支え合って運行されているという世界観が欠如し、家族での支え合いがどれほど人を勇気づけ、明日への希望を持たせるかが全く分かっていない、人間以下の思考しかない人なのだろう。

 これでは、先の大戦での特攻隊の方の崇高な精神など分かるはずもなかろうし、家族を守るとか、妻や子供を守るという、人としての当然の愛情も道徳心のかけらもない人間なのだろう。

 人は結びつき合ってこそ、力を発揮出ることを知らず、逆に人と人をばらばらにしたがっているのだから、この様な考え方を「悪魔の思想」と呼ばずして何と言ったらいいのだろう。

 この世には善と悪があるが、これを一言で言うと、「人と人とを結び付ける事は善。人と人とを引き離すのが悪」という事になる。

 そして、この悪なる行為を指導的立場に立って積極的に行い、人の不幸を喜ぶ人間を「悪魔」というのだと思う。この悪魔の特徴は自我我欲のままに、「自分さえよければ、人はどうなってもいい」という思いで生き、「自分のために生きることの、いったいどこが悪いのか」というところにあることも知っておかなければならない。

 今、この「悪魔」に操られた狂人たちが、行政に入り込み、日本国中に「悪魔の思想」をばら撒き、その事を知らない無思想の役人や、ただ流行だけを求めてはしゃぎまわる女性たちを、意のままに動かして、獣の社会を作り出そうとしている。

 ゆめゆめ騙されて、「悪魔の手先」になって狂人の仲間入りをしないよう忠告しておきたい。これは決して過剰反応でも、脅しでもない。本来人間が持っている高貴な精神を腐らせる思想なのだ。これを守るために人類は命を懸けて戦ってきたのだ。


④最後に官僚に対して 

 中国の司馬遷の『史記』に拠れば、中国では古代、なるほどそれ自体は法治として正しいのであるが、法の条文どおりに行動する官僚のことを【酷吏(こくり)】と言い、一方、「職を奉じて理に循(したが)う」すなわち法に基づいて勤務するものの、それよりも大いなる道理に循う官僚のことを【循吏(じゅんり)】と言ったそうだ。

 裏でどんな圧力があっているかは不明だが、今の官僚のほとんどがこの「酷吏」であり、ほとんど自分の理性に照らして判断しようとしていないように思える。明治維新の際の勝海舟などが、この「循吏」の典型かもしれないが、やはり、法律以上の道理というものに照らして判断することも大切ではないかと思う。

 「法律にないものは宗教に聞け」という言葉があるが、特にこのような問題に関しては、よく宗教の教えを知ってやっていただきたいと思うし、宗教に沿えばこの様なことを許せるはずがないと思う。

 どうか、日本の文化を伝統をそして子供たちを守っていただきたい。日本の未来は子供たちにかかっている。我々の先人が如何にすべきかということを確実に言葉として、生きざまとして残している。もう一度よく先人たちの思いや、真理とは何であるのかという事をよく考え、今後の判断材料としていただきたいと念願する。
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by sakura4987 | 2006-06-23 11:27

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