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◆炭と「握り飯」 世界を巡る製炭士の戦争 (産経 06/7/17)


【列島深化論】藤原義則

 漆黒というよりプラチナの光沢と質感を湛(たた)え、カーンと金属音が響く。和歌山県白浜町安居(あご)、「備長炭研究所」、玉井又次代表取締役(79)の焼く炭は、一部からは「世界一」とも言われ、全国の料理人が愛用する。

 清流、日置川を遡上(そじょう)するタクシーの運転手が、「昨日、ロシア人を乗せた」という。玉井さんの窯はウバメガシ一色の山の麓(ふもと)だ。「ロシアにも窯を作れちゅうて。でも寒いしよ」。間伐材を有効活用できる木炭燃料は世界中が注目する。

 玉井さんは「和歌山県紀州備長炭製炭士」の資格を持ち、台湾、フィリピン、インドネシア、タイ、中国などに招かれ、日本が誇る炭焼き技術を伝えてきた。弟子は各国に100人以上。「太平洋戦争で行った国々をまた巡るとは。運命とはわからんもんじゃ」

 家業の炭焼き暮らしが嫌で海軍に志願。特別少年兵となり、16歳で特殊任務用の海防艦で南洋へ。ティモール島では、艦船荷役のオランダ人捕虜約20人を見た。極度の空腹から大男たちがへたり込んだままだった。

 「かわいそうに。捕虜も同じ人間や。手も足もあれば、胃袋だって」。両親を早く失い、ひもじさの辛(つら)さを知り尽くす玉井さんは、こっそりご飯を握って食べさせた。捕虜のひとりは「私はドクター」と告げ、涙を流して立ち上がった。

 ニューギニア、ラバウル、フィリピンと転戦するうち、今度は逆に食糧事情も、戦況も悪化。コウモリ傘の骨を針にカツオ、シイラを釣った。「紀州独特の流し釣り、ケンケン漁の要領やった」

 自艦は空襲で沈み、左目を失う。昭和19年秋、レイテ島逆上陸作戦を展開中の艦船も撃沈された。周辺の島に泳ぎ着き、数人でジャングル暮らし。住民を避け、昆虫、爬虫(はちゅう)類と何でも食べた。

 すぐに日時が不明となった。やがて「私は真珠湾の捕虜です。日本は戦争に負けました」と放送が聞こえ、何度かビラも撒(ま)かれた。投降するきっかけをつかめないうち、フィリピン軍に夜襲され、「手錠を掛けられマニラの収容所に入れられた」。戦後1年たっていた。

 欧州戦線で戦った米軍日系士官による教育と道路工事の毎日。年が明け、マニラ城の石垣積みの最中、米軍将校とともに大きなオランダ軍人が視察にやってきた。しげしげと玉井さんの顔をのぞき込んだ末に、言った。

 「ニギリメシ」

 かつて助けたオランダ人医師がニコニコと両手を丸めながら…。望郷の訴えは即叶(かな)った。玉井さんは米軍艦に乗せてもらい、忘れもしない昭和22年1月13日、門司港に着いた。

 逃避行中、「生ものを食べた兵隊はバタバタ死んだ」が、玉井さんは、炭でちゃんと煮炊きして食べ生き延びた。またマラリアにかかった戦友を穴を掘り、消し炭を混ぜた土に埋めたら、電撃的に回復したそうだ。これが、帰国後、炭焼きに没頭するきっかけになった。

 「捕虜は、紀州の梅干しは平気だったが、ショウガだけはよう喰(く)わんかったの」

 1000度以上の窯の傍らで笑う玉井さん。こんな日本人は多くいたのではないか?
by sakura4987 | 2006-07-17 10:26

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