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◆【青山昌史の目】太平洋戦争と朝日新聞 (世界日報 06/11/27)


「三国同盟は新秩序建設」と軍部に迎合

重大な反軍から賛美への変節

 新聞といえば「言論の自由」を掲げ、時の政府、権力といえども批判すべきは批判する存在でなければならぬ。

 しかし大正、昭和から太平洋(大東亜)戦争にかけて朝日はじめ批判精神を発揮した時もあるが、多くは弾圧に屈し、むしろ迎合、協力した歴史がある。今、自由で民主政治の時代、新聞は二度とこうした轍を踏むべきではない。

 支那事変から太平洋戦争の戦前、戦中、朝日の責任者だった緒方竹虎(編集局長、主筆、副社長)、美土路昌一(編集局長、戦後は社長)両氏は遺稿、回顧談で次のように反省している。

当初は反主戦論

 「朝日は戦前、多少の新聞的良心を捨てなかったが、昭和十三年に国家総動員法が布かれてから手も足も出なくなった。新聞記者が筆を曲げてまでも言うべきことを言わずに過ごすほど苦痛はない。いわゆる新体制運動、とりわけ日支事変、日独伊三国同盟、大東亜戦争に対し、朝日にもし幾分かの弁疏があるとすれば、それは一番遅れて賛成したという以外に何もない。腹に反対を懐きながら筆に反対を唱えなかったのは、主筆であっただけに自分を責めねばならぬ」(緒方談)

 「往時を振り返ると、もとより軍ファッショが国を誤ったことを痛嘆するが、非常の時に全新聞記者が言論自由ののろしを自ら放棄して恥じず、ますます彼らを誤らせたその無気力、生きんがための売節の罪を見逃してはならぬ。自らも首脳の一人として何の働きもできず、今徒に軍の横暴のみを責めている自分に対し、自責の念に堪えない」(美土路談)

 その言や良し。だが後の祭りである。でも両先人の痛恨の言葉を改めてかみしめねばならない。

 緒方は十一年の二・二六事件で自由主義的と見られた朝日が、陸軍皇道派青年将校に襲われて銃口の前に立ち、社員を冷静に社外に導いた。高橋是清蔵相を殺した、その足で襲った指揮官の「国賊朝日をやっつけろ」の怒声にも緒方は落ち着いていた。その前、昭和三年、田中義一内閣時代には編集局長として軍事費が過大だと主張、これに怒った陸軍青年将校が決闘を申し入れたのに対し、決闘は法律で禁じられているから応じないが、闇討ちはご随意にと答えている。東条内閣の時、中野正剛自決の原因となった「戦時宰相論」を昭和十八年元旦に書かせたのは事実上、緒方で、葬儀委員長まで務めた。中野は福岡の修猷館中、早稲田、朝日を通じて緒方の先輩で、政界では東条から終始、危険人物視されたが、緒方は中野に礼を尽くした。

際立つ論調転換

 緒方は昭和五年のロンドン海軍軍縮会議あたりまで「統帥権よりも国民負担軽減と国際協調」を唱え、野党や右翼親軍派から自由主義、米英追随、アカの手先とまで言われながら、六年の満州事変、翌年の満州建国くらいから新聞販売の事情と称して紙面で妥協し、時の政府や軍の満州政策支持へ向かっている。

 満州を独立させたわが国に対し、国際連盟はリットン報告書で「満州国は、自発的な独立運動から生まれたものとは考えられない」と満州国を認めず、同年の連盟理事会で松岡洋右全権の下、日本は連盟を脱退した。朝日は「これは意見の相違で、この一事をもって連盟全体を否認することはできない。短慮、即断は事を誤る」と脱退を一応、戒めたが、満州独立という「この一事」は認め、結局既成事実は仕方ないと「帝国、遂に国連脱退へ」と報じる。

 「満蒙は生命線」とする陸軍に対し、「軍人の横車に引きずられるのはどうか」と一応、反論するが、右翼団体や在郷軍人会による大阪朝日(東朝より強硬)不買運動が起こり、連動してライバルの大阪毎日による「朝日は反軍的、売国的」との宣伝攻勢が激化する。「朝日は満州放棄論だ」との声も強まり「日露戦争で多くの血を流した満州を放棄せよとは何事か」との批判も集中する。

 朝日が「満州緩衝国論」を提起し「蒋介石の国民政府が、現実を無視して三民主義の理想を満州にまで実現すべく試み、日本の持つ権益を一掃しようとすれば、日本との衝突を免れぬ。この一事を考えても東北三省(満州)の住民は進んでこうした紛争を防ぐ手段を講じねばならない。これが満州緩衝国設置の必要な所以だ」――これは軍部を先頭とする時流への事実上の大きな妥協であった。

 満州事変を認知した朝日は、在満将士慰問金募集などで事変支持を、より積極化する。軍部の圧力と、これに同調する不買運動に堪えかねて節を屈したと言える。

 十二年六月、近衛内閣成立の際、緒方主筆は「新聞が批判を失ってはならないが、ただ批判だけでなく、なるべく内閣を助け、仕事をさせたい」といささか甘い期待感を述べた。新聞が戦争支持から賛美へと急傾斜したのは、同年七月七日の盧溝橋の一発から日中全面戦争へと進んでからであり、七月九日の東朝一面には「北京郊外で日支両軍衝突。不法射撃に我軍反撃」との開戦報道が載った。

 かくして新聞代表は近衛首相から全面協力を要請され「挙国一致の結束成る。政府の方針遂行に協力」との記事が全紙一斉に出る。内務省警保局から「時局に関する記事取扱い」で首根っこを押さえられた新聞は、ここで完全に政府権力のしもべとなる。

 近衛は三次にわたり挙国一致内閣を作るが、この白面(最初の組閣時四十五歳)の改革派?首相は期待外れで、強者、陸軍への追随が目立った。当時の朝日は近衛に期待し、十五年七月の第二次内閣成立時など社会面で「遂に山(軽井沢)を降りた近衛公」と題し、美文調で「古き政治体制に別れを告げる日が軽井沢から東京へ。坦々たる大道を“新しき道”に革新の車は爽涼の夜気を載せて飛ぶ。キリッと口を結んで新体制へのばく進だ」とはやした。

 朝日は、米英との対立を招くとしてかねて批判的だった日独伊三国同盟にもやがて同調し、歓迎へと転換する。三国同盟は十五年九月に調印された。朝日は「三国同盟成立は東亜と欧州における新秩序建設で欣快に堪えない」と、その意義を強調する。

 第二次近衛内閣の十五年十月、大政翼賛会が結成され、政党は解消。この時、朝日は「これを新日本建設のための歴史的発足たらしめねばならぬ」と大歓迎。朝日は近衛を買いかぶり、とんだ見込み違いをした。強硬陸軍と松岡外交の前に行き詰まった近衛は三次内閣に改めるが、これも三カ月で東条開戦内閣へ。

 十六年十二月、太平洋戦開戦の頃の朝日は、もはや戦争協力は既定の国策、社論とし「太平洋の危機は米国の独善的態度固執で重大な段階に至った」といった論調。朝日の場合、満州事変に至るまで陸軍の横暴を批判し、国際協調と国民負担の軽減を強調してきただけに一転しての転換が一層際立つ。とりわけ毎日と並ぶ最有力紙だっただけに転換の遅速よりも「軍部への妥協、迎合→転換→支持→賛美」に至る過程こそ重大である。

 太平洋戦争にエスカレートした時点で新聞のことごとくが大本営監修新聞になってしまう。新聞は迎合的態度をとり続け、批判精神など失ってしまう。しかし東条の憲兵政治による独裁も、米国との戦争遂行能力の格差は覆うべくもなく、相次ぐ敗北から、重臣や皇族、閣内からの批判も出て遂に倒れ、十九年七月には小磯国昭内閣となる。朝日の緒方副社長は新聞代表として小磯内閣に情報局総裁、国務相として入閣する。緒方は蒋介石の重慶政府に働きかけて戦局を打開しようと重慶に通じる繆斌(みょうひん)を東京に呼んで和平工作をするが失敗、焦った政府による新聞統制はかえって強化される一方であった。

政界転身の緒方

 戦後の緒方は追放解除後、政界に入る。二十九年一月、時の吉田茂首相は造船疑獄で佐藤栄作自由党幹事長が逮捕されようとした時、犬養健法相に指揮権を発動させた。このあと吉田は衆院解散による政権維持を考えるが、緒方は政治道義にもとると反対。吉田内閣は結局、総辞職し、自由党は緒方総裁となる。翌三十年十一月、鳩山民主党と緒方自由党が保守合同、緒方は鳩山後の首相を約束されるが、三十一年一月二十八日、心臓衰弱で急死。六十七歳。

 この時、朝日は天声人語で「緒方には無冠の帝王の面影があり、二・二六事件では腹のすわった国士の風趣もあった。政界では憲政の常道を正そうと深く心に潜め、吉田首相の解散論を排して総辞職させたことも、その志は政治の民主的ルールの確立にあった。思う存分、国政を宰理させたかったが、巨星地に墜ちた」――この辺は緒方の戦前、戦時の錯誤、変節はさておき、これらを大いに悔い改め、特に戦後の緒方は民主政治家として大をなそうとしたということなのだろうか。でもこうしてリベラルな民主政治家に生まれ変わろうとしていた緒方と、今の朝日とはかなり違うのではなかろうか。
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by sakura4987 | 2006-11-27 12:55

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