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◆西郷隆盛と西南戦争の真実 (世界日報 06/12/22)



「ラスト・サムライ」のモデル 征韓論に非ず、求めたのは道義外交

 アメリカ映画「ラスト・サムライ」(二〇〇三年)は、日本の武士道の素晴らしさを世界に紹介し話題となった。先日テレビでも放映され、感動させられた。この映画は周知のとおり西郷隆盛(一八二七~七七)をモデルとしたものだが、改めて西郷の思想を探ってみたい。

◇   ◆   ◇

 西郷が逝ったのは、明治十年九月二十四日、西南戦争で官軍の総攻撃が開始され、西郷が同志とともに迎撃に立ち上がり、銃撃を受けた時だ。少数の味方は全滅、西郷の遺体は敵方の手に落ちた。西郷を倒した者はこぞって悲しみにくれ、涙ながらに彼を葬ったという。

 それほど西郷は有能有徳な人物だった。彼は、王陽明の『伝習録』を座右にし、「敬天愛人」を人生の指針とした。キリスト者の内村鑑三が指摘するように、陽明学はキリスト教とよく似た思想内容をもつ。

 西郷の前半生は、倒幕の中心人物として見事な成功を収め、特に江戸開城では、勝海舟との絶妙なやりとりを通じて、江戸の町を戦火から救った。

 また、新政府軍に抵抗した庄内藩(現在の山形)の人々は、西郷の寛大な措置に感激し、西郷への尊敬の念から、西郷の教訓をまとめた『南洲翁遺訓』を編さんした。西郷の考えは、なおも敗者を痛めつけるのは人の道に反するものであり、むしろ庄内藩士たちを新しい時代の同胞としようとしたのである。

 しかし、新政府樹立後は征韓論に組し、それが容れられないと鹿児島に帰ってしまい、ついには不平士族に乗せられて西南戦争を起こした――というのが大方の見方だが、いささか理解できない。彼はなぜ新政府に立ち向かったのか。

 朝鮮は鎖国政策を続け、明治政府の国交要求を再三拒否した。そのため、日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬方針をもって臨むべきだとする「征韓論」が高まった。彼が征韓論者だったという説は、彼が板垣退助に宛てた次のような手紙が根拠になっている。

 「戦いに持ち込まないで、朝鮮との国交を回復するのはとても出来そうにありません。この至極もっともな論をもって朝鮮との国交を考えるのであれば、(私を派遣して万一殺害されるようなことがあれば)必ず戦う機会がころがりこんできます」

 しかし「西郷南洲遺訓」では次のように語っている。

 「本当の文明国であれば、未開の国に対しては慈愛の心をもって接し、懇ろに説き諭して文明化に導くべきである。未開蒙昧の国であればあるほど残忍な仕方で接し、己を利してきた西洋は野蛮である」

 桶谷秀明氏は『草花匂ふ国家』の中で、武力行使を前提とした征韓論者の板垣に、自らを全権大使として派遣させることを納得させるための、西郷の方便だったと指摘する。

 さらに、葦津珍彦氏は「もとより西郷は死を決している…西郷は、心中ひそかに、死力をつくしての外交によって、あるいは征韓以上の堂々たる成果をあげうるかもしれないと思っていたのではあるまいか」という。

 あたかも江戸開城と同じく、道義に基づいた外交により、朝鮮を教え諭し、開国を成し遂げられる、との自負心があった、というのだ。

 岩田温氏の『日本人の歴史哲学』によれば、西郷が朝鮮との道義ある国交を目指していたことを裏付ける証左が二つある。一つは、明治九年の江華島事件に対する西郷の激怒だ。日本が軍艦をおくり、砲艦外交によって、日朝修好条約を締結させた。

 鹿児島に下野していた西郷は怒り、和平への国際手続きを十分にふむことなく武力行使したことは「天理に恥ずべき行為」であったと書いている。

 もう一つは、太政大臣・三條實実に「朝鮮御交際の儀」と題して送った文書で、朝鮮に送る使節に護兵一大隊をつけるという方針に反対し、「朝鮮との戦争になっては、国交回復という最初の趣旨に反する。ぜひとも交誼を結ぶという趣旨を貫徹していただきたい」と主張している。

 これらの言動から、西郷はあくまで道義ある文明国同士としての国交回復を目指していた、という。そして、西郷がその先に目指していたのは、清国との提携であった。

 極東三国の道義ある同盟によって、西洋の「野蛮」な砲艦外交に対しようとしたのではないか。

 しかし朝鮮との提携という志はならなかった。西郷は失意のうちに鹿児島に戻る。そして、国政の行方を憂いつづけ、その果てに起こしたのが西南戦争だった。

◇   ◆   ◇

 江藤淳氏は『南洲残影』で、こう述べる。明治維新の目的は、無道の国から派遣された黒船を撃ち攘(はら)い、国を守ることにあったのではなかったか。

 ところが明治政府は自ら進んで国を西洋化し、(近隣国に対して)無道の国への道を歩むにいたった。これを断固として拒絶しなければならない。これが西郷の思いだった。

 西郷は自らを犠牲にし全滅してでも、本来あるべき国家を守るため、後世の国民に敢闘の記憶を残そうとした。これこそが西郷が西南戦争を引き起こした理由であったというのである。
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by sakura4987 | 2007-01-10 11:37

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