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◆【日本を探す】西郷のいる風景(1)130年前の大きな分かれ道



 (産経 07/2/1)

 「明治10年の戦(ゆっ)さのときは、鎮台の兵隊さんが、ずんばい(たくさん)道を通って鹿児島の方へ坂を登っていった。道端のやぶから見ちょった。恐ろしくて恐ろしくてなぁ。田んぼに鉄砲を立てて休んじょったたっど(休んでいたんだよ)」

 これは明治4年生まれ、昭和29年に亡くなった私の曾祖父が、昭和6年生まれの孫娘、つまり私の母に語り聞かせていた西南戦争当時の思い出話。

 太政官政府の参議を辞して故郷の鹿児島に帰った西郷隆盛が兵を挙げてから7カ月、九州各地を転戦の末、鹿児島城下の城山に西郷軍がたてこもっていたころだ。

 城山から西に10キロほど離れた曾祖父の村にも、西郷軍に向けて間断なく撃ち出す政府軍の大砲の音が、遠雷のように聞こえていただろう。

 西郷が亡くなって今年の秋で130年。西南戦争当時、数え7歳の曾祖父が見た話を囲炉裏端で聞いていた幼い母は今年、数え77歳の喜寿を迎えた。130年とはそういう歳月だ。

 日本の近現代史には国の命運を決定づけた分かれ道がいくつかあったが、なかでも130年前の西郷の死は、とりわけ大きな分かれ道であったのではないか。

 西郷は自らの思想を書き残していない。かつて西郷がいた風景を手掛かりに、この間、日本人が失ってきたものを探してみたい。

                   ◇

 「西郷は征韓論=外征を唱え、非征韓論=国内政治優先を唱えた岩倉具視、大久保利通らと対立したといわれるが、これは全くの誤解。西郷は決して“征韓論”唱えていなかったのです」

 こう話すのは鹿児島市立西郷南洲顕彰館館長の高柳毅さん。

 いわゆる征韓論争は、明治6年、李氏朝鮮が日本の国書の受け取りを拒否したことに端を発する。朝鮮への出兵を主張する板垣退助に対して、西郷は非武装の使節として朝鮮に渡り交渉することを主張、岩倉、大久保ら欧米視察中の政府高官が帰国してからの西郷派遣が決定された。

 しかし帰国した岩倉らはこれを覆し派遣の無期限延期を決定。反発した西郷、板垣らは参議を辞職した。これが「明治6年の政変」といわれるものだ。

 西郷派遣が実質的に中止されたことを高柳さんは「岩倉が西郷の真意を誤解していた」と見る。

 当時は不平士族を中心に征韓論が沸騰しており、岩倉は板垣らこれを背景にした出兵論者と西郷は同類と見なし、決定を覆し実質的な派遣中止に追い込んだというのだ。

 これを裏付けるのが翌7年に岩倉が大久保にあてた書簡で、「氏(西郷)ニハ初めより決して征韓之(こ)レなく…行違(ゆきちが)い不可言者(いうべからざるもの)ニ候」とあり、岩倉は西郷が征韓を主張していると考えたのは誤解だったと認めている。

 また6年、辞職する直前に西郷が政府高官に回覧するために書いた「朝鮮使節派遣決定覚書」も礼儀を尽くして平和的交渉をすべきとの趣旨が書かれており、文書から見る限り西郷は征韓論を唱えてはいない。

 自らの死を覚悟したかのような西郷の板垣あて書簡を根拠に「西郷は交渉決裂して現地で殺され、その結果、戦争の大義名分が立つことを望んで自らの使節派遣を主張した。西郷の本音は征韓論」との説はなお根強い。

 だが政府で改革を主導している西郷が、自ら殺されることを前提に対外交渉を行うだろうか。もしそうなら政治家としてあまりに無責任ではないか。

                   ◇

 “非征韓派”とされる岩倉らが主導する明治政府は、西郷が野に下ったわずか2年後に軍艦を派遣、武力を背景にした江華島事件を起こし、かつて欧米が日本にしたように、朝鮮との間に領事裁判権を含む不平等条約を結び、開国させた。

 これは平和的に開国を求めた西郷の「王道」に対して、当時の政府が弱肉強食の「覇道」を歩み始めたことを意味するのではないか。

 19世紀後半の国際社会で、それ以外の選択肢はなかったと言いきってしまうことはたやすい。

 事実、昭和20年の敗戦という破局寸前の事態もあったが、日本は外国の植民地にされることなく繁栄を手に入れた。

 しかし相次ぐ企業不祥事、公共の場でのマナー崩壊、教育現場の荒廃…。倫理の底が抜けた日本の現状にため息をつくとき、道義を捨て去った代償もまた大きかったことを思い知らされるのだ。(栫井千春)

                   ◇

【プロフィル】西郷隆盛

 さいごう・たかもり 文政10(1827)年~明治10(1877)年。通称吉之助、号は南洲。薩摩・鹿児島城下に下級武士の長男として生まれ、島津斉彬に見いだされ志士として活動。

 最初は公武合体、のち倒幕をめざし、戊辰戦争では新政府軍の実質的な司令官として江戸無血開城を果たす。

 明治維新後は参議、近衛都督、陸軍大将の要職に就くが、朝鮮への特使派遣をめぐる政変の結果、職を辞して鹿児島に帰郷。私学校生徒に担がれる形で西南戦争を起こし、敗れて城山で戦死した。
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by sakura4987 | 2007-02-02 17:27

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