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◆【政治】青山昌史の目/戦争への道と軍部 (世界日報 06/3/20)



民主主義的政党内閣に幕 5・15

2・26 軍部大臣現役制で軍独裁へ

昭和天皇「自ら近衛師団を率いて鎮圧に」

 昭和七年の五・一五、同十一年の二・二六両事件は、暗殺横行、政治マヒの軍部テロ、クーデターの象徴として、日本が破滅へと向かう戦争へ、巨歩を進めるものであった。五・一五が、大正十年の原敬首相、昭和五年の浜口雄幸首相などのテロに続き、犬養毅首相射殺で政党内閣を終わらせ、亡国への開幕のベルを鳴らしたとすれば、二・二六は陸軍の皇道派青年将校が表に出て元老、重臣を殺傷したクーデターとして亡国劇を始めたと言ってよい。ともに主役は青年将校の、直接行動に訴えて時局を正そうという動きで、また背後には、有力な思想的指導者もいた。

 青年将校のテロ

 両事件の背景に、昭和四年、米ウォール街に発した世界恐慌、その影響をもろに受けた日本の不景気と、これを増幅した浜口内閣の金解禁による日本農村の極度の不況があったことは疑いない。軍人の将校、下士官、兵も大部分は農村出身者だった。そして農村の悲惨と、これを無視した政財界の腐敗、政争に愛想をつかせた結果が、国家改造を目指すファッショをもたらし、テロ、クーデターを誘発したのである。

 首相が官邸で撃たれた。昭和七年五月十五日午後五時半ごろ、三上卓中尉(28)ら四名の海軍青年将校と、五名の陸軍士官候補生が乱入し、犬養首相(78)の顔面を銃弾二発が貫き、同夜十一時二十六分、首相は絶命した。

 表門から入った海軍将校らは首相に面会を断られると、拳銃を取り出して首相の居間へと押し込んだ。その間に裏から入った陸軍士官候補生が合流し、犬養は「話を聞こう」と招き入れたが、将校らは「問答無用」と次々に拳銃を発射。首相官邸のほかに別動隊が警視庁や変電所、内大臣邸、政友会本部などを襲撃したが、大した被害はなし。事件に参加したのは海陸軍の急進派に、橘孝三郎を指導者とする愛郷塾生の農民決死隊、右翼血盟団の残党らであった。

 事件の中心となった青年将校たちは、前年十月の、陸軍将校による軍部政権擁立を図った事件以来、血盟団の井上日召らと結んで国家改造を計画しており、この日は東京を混乱に陥れて軍部政権樹立を図ったものだった。

 犬養は岡山県出身。一八九〇年の第一回衆院選で当選して以来、尾崎行雄らと藩閥政治打倒の先頭に立った。しかし一九二九年(昭和四年)に政友会総裁となってから親軍的傾向も示し、ロンドン海軍軍縮条約締結の際には、統帥権干犯問題を持ち出して浜口内閣を攻撃した。事件前年の十二月から首相を務め、満州事変の解決には悩んでいた。

 事件後、犬養の後継総裁である鈴木喜三郎が首相に指名されるべきなのに、そうした憲政常道論に風は吹かず、元老西園寺公望は、軍部の政党内閣反対の声に押され、重臣らとの会談を通じて元朝鮮総督で退役海軍大将の斎藤實内閣を奉請、これで大正十三年の加藤高明内閣以来八年に及んだ政党内閣は幕を閉じた。

 昭和十年八月の陸軍皇道派、相沢三郎中佐による統制派、永田鉄山軍務局長斬殺事件は、直接には皇道派、真崎甚三郎教育総監更迭を怒ってのものだが、両派対立が抜き差しならぬことを示した。この事件の責任をとって辞任した林銑十郎陸相の後任の川島義之大将は、事件で意気揚がる皇道派の青年将校に断固たる処置がとれず、二・二六事件を誘発した。

 陸軍の二大派閥

 一九三〇年代、陸軍には皇道派と統制派の二大派閥があった。皇道派は真崎や荒木貞夫元陸相らを中心とし「君側の奸」を討ち、国体明徴、天皇親政を実現するよう主張、直接行動によって国家改造をもくろむ青年将校を育成した。これに対し永田鉄山ら統制派は、皇道派のやり方に批判的で、政治、経済、思想の全面的再編による総力戦体制の確立を目指し、昭和九年の林陸相就任以降、優勢となり、二・二六事件後の粛軍によって統制派の覇権が確立した。

 昭和十一年二月二十六日未明、大雪に見舞われた東京で、超国家主義者、北一輝の影響を受けた皇道派青年将校が「昭和維新」を目指すクーデターを起こした。皇道派が、統制派に対する劣勢回復を狙ったもので、「尊皇討奸」の旗の下、統帥権干犯や真崎教育総監更迭など、国体を破壊する元凶と目した元老、重臣、統制派軍閥など君側の奸を除き、国家改造を実現すべく決起した。

 この事件は、歩兵第一・第三連隊を中心に、近衛歩兵第三連隊・野戦重砲兵第七連隊の兵を含む約千四百名の部隊が完全武装して行動した。決起軍は、岡田啓介首相(69)の暗殺には失敗したが、斎藤實内大臣(79)、高橋是清蔵相(83)、渡辺錠太郎陸軍教育総監(63)を殺害、鈴木貫太郎侍従長(70)に重傷を負わせ、その後、首相官邸、警視庁、国会議事堂、陸相官邸など永田町一帯を占拠した。

 決起軍は統制派の将軍、幕僚の一掃、さらに皇道派の真崎、荒木らの擁立に望みをかけた。しかし天皇は、内大臣らの暗殺に憤り、当初から断固鎮圧の意向を示し、統制派を中心に鎮圧に向けて軍の主導権を確保して行った。岡田首相は、義弟で秘書官の松尾伝蔵大佐が誤認されて射殺されたため、女中部屋の押し入れにこもって危うく難を免れた。鎮圧を主張する陸軍参謀本部の要求で二十七日午前三時から戒厳令が施行された。斎藤内大臣が殺され、鈴木重傷、岡田首相は身代わり射殺の報を受けた海軍は、陸戦隊を上陸させる一方、旗艦長門以下四十隻の軍艦が東京湾に集結して、艦砲射撃の姿勢を示した。

 天皇は、武官長に重ねて鎮圧を催促し「朕が最も信頼する老臣をことごとく倒すのは、真綿で朕が首を締めるに等しい行為。朕自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たらん」との決意を示し、これが事件の帰すうを決めた。二十八日午前五時、香椎戒厳司令官に反乱部隊の原隊復帰を命ずる奉勅命令が下された。香椎司令官は「今からでも遅くないから原隊へ帰れ。抵抗する者は逆賊だから射殺する。お前たちの父母兄弟は、国賊となるので、みんな泣いているぞ」とのビラをまいて帰順を呼びかけた。「兵に告ぐ」のラジオ放送も。この結果、一発の弾丸も撃たれず午後一時までに投降が終了。「昭和維新」の夢は露と消えた。

 同年七月七日の紙面は「反乱将校ら十七名死刑の判決下る(その後、次に記す北ら二名が死刑、刑死者は計十九名)。准士官以下四十七名処断」と軍法会議の厳しい判決を伝えた。

 決起将校らが唱えた国家改造は、一君万民的な天皇制国家の実現を目指す変革だった。この代表的人物が「日本改造法案大綱」を著した北一輝。北は、天皇大権の下に戒厳令を施行し、憲法を停止、議会を解散して国家改造内閣の組閣を説いた。さらに貴族院の廃止、私有財産の制限、大企業の国営化なども示し、国家社会主義による国家改造計画も述べている。北の思想は、陸軍予備役少尉の西田税によって「昭和維新」の名の下に青年将校の間に広められ、二・二六事件の思想的背景となった。事件後の裁判で北、西田は民間側の黒幕として死刑になった。

 ロボット内閣へ

 二月二十八日に岡田内閣が総辞職したため、元老西園寺(88)らを中心に後継首班の選考が進められ、最初は近衛文麿貴族院議長(46)に組閣が命じられたが、近衛が健康を理由に辞退したため、三月五日、前外相の広田弘毅(59)に大命が下った。広田の組閣に対する陸軍の介入ははなはだしく、閣僚の顔触れから基本国策に及び、これらの要望を飲んだ広田はようやく組閣にこぎつけたが、組閣後も陸軍の発言は強まる。広田内閣はほとんど軍のロボット内閣と化して、日本を大規模な軍備拡張と国際関係悪化へと導いて行く。

 両事件の結果、政財界も元老重臣もふるえ上がり、物騒な世の中はますます物騒になった。軍靴の音は高まり、戦争へと歩を進めた。二・二六の結果、軍部大臣現役制が同年五月十八日復活し、この制度で軍が首を横に振れば軍部大臣は決められず、組閣できなくなった。陸軍の主流を占めた旧統制派は、かつての皇道派の精神主義以上に、組織的計画的に着々と軍部独裁を進めた。事実、広田ロボット内閣退陣後、宇垣一成が組閣の大命を受けたが、陸軍の後輩に忌避されて陸相を得られずに流産した。代わって林元陸相が陸軍の意のままに組閣した。が、四カ月で近衛内閣へ。これに先立つ十一年十一月二十五日には英米との対立をもたらした日独防共協定が締結され、十二月十二日には中国の国共合作が成る西安事件があり、近衛内閣の下、翌十二年七月七日の盧溝橋の一発で日支事変(日中戦争)は中国全土に波及した。

 世界恐慌に対応するどころか、金解禁などの失敗で農村や零細企業労働者の窮乏は深まり、政党、財閥など特権階級の無能、腐敗への強い不満が増幅されて行った。これはマスコミや国民の共鳴をも呼び、結果的に軍部独裁をもたらすことにもなるのである。
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by sakura4987 | 2007-02-08 16:23

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