◆旧日本兵に聞いた「靖国神社」の意義 (オーマイニュース 07/5/11)
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070417/10234
鬼気迫る戦闘状態の中で兵士の心に靖国はあったのか?湯浅 秀昭
本記事は2007年3月末に掲載された記事「旧日本兵に聞いた従軍慰安婦問題」の続編である。
前回、教育者であるにも関わらず、私の師は従軍慰安婦問題について、自己の性についてまで言及し、包み隠さず答えてくれた。
戦争経験者の中には、自己の武勇伝や苦労話を話すとき、経験の大変さを伝えたいがために、後で仔細に考察してみると、つじつまの合わない誇張を含めた証言をされる方もいる。
その気持ちは十分分かるが、私の歴史資料に加えるわけにはいかない。私の師の話は、30年前に私が師から聞いた話の断片と合致する。少なくとも信頼に値する証言だと感じている。
桜が散り始め、靖国神社の春の例大祭が近づいて来たころ、再度、わが師に電話で靖国神社についてインタビューを試みた。
◇ ◇ ◇
──直接戦闘に参加した事はありますか?
師匠 私が召集された昭和16年から19年の満州は非常に安定しており、馬賊と言われたゲリラも既に活動しておらず、戦闘はなかった。
──生命の危険を感じたことはありますか?
師匠 ある。所属が工兵隊だったので、ソビエト・満州国境に戦車豪を掘る任務にあたった時、川ひと隔てた山の中腹にはソビエト軍がいた。もし攻撃を受けたらひとたまりもない場所での任務であった。
──単刀直入に聞きます、「戦死したら靖国で会おう!」と戦友と誓ったことはありますか?
師匠 ない。軍人にとって任務遂行の上で死はつねに隣にある。平時においての「死」とは意味合いが違うことを理解してほしい。戦闘において死を意識するのはむしろ恥ずかしいことである。戦闘中に考えることは自己の生死より、いかに任務を成し遂げるかである。
──それは天皇陛下のためですか?
師匠 いち将兵はそんなことは考えない。軍人として上官より命令を受けたら速やかに遂行する。それが軍人である。いち将兵が作戦の意味や意義を考えていては戦闘にならない。日々の戦術が全体的な戦略に与える影響など考えることもしない。
──緊迫した戦闘状態は別として、普段の状態において考える「死」はどのようなものでしたか?
師匠 自分の「死」というよりも、残される父母や兄弟、恋人への思いはあった。妻子のいる者は妻や子供への思いが先にきたと思う。宮崎県身の私が家族に靖国まで行って拝んでもらおうなどとは考えもしなかった。おそらく特攻隊の遺書にも靖国神社はあまり出てこないのではないか。
──あなたは靖国神社を否定するのですか?
師匠 しない。死んでいった将兵の気持ちは別として、残された家族や戦友の中には心のよりどころとしている人もいる。残されたものにとって、心のよりどころは必要である。
──自分が死ぬことによって残された家族が困ることは明白です。命を賭しての忠誠を要求する国家、ないしは軍に対して反感は感じませんでしたか?
師匠 それは当時の空気を知らない人の考えである。それは特攻隊等の遺書を見れば分かる。「お国のために」と書くのは、自分は国のために死ぬのであるから、自分の死後、国や地域社会に残された家族を頼むという意味合いである。また、国への信頼があったから命を賭して戦うことができた。
──あなたにとって軍とは何でしたか?
師匠 軍の目的は戦闘に勝つことにあった、それは現代の軍隊においても同じだと思う。私は旧日本軍の1兵に過ぎない、命令を忠実(ちゅうじつ)に遂行することに従事したにすぎない。
◇ ◇ ◇
市民記者の私は戦争が終わって19年後、昭和39年(1964年)生まれである。もちろん戦争は知らない。私が幼いころ、周りには戦争経験者がたくさんいたので、戦争についての話も数多く聞かされ、育った。
しかし、最初に述べたように、それらの話の多くは誇張があったり、あるいはその人にとって必要のない部分は割愛されていた。それは、日本人の一部にある自虐的過ぎる歴史観によって、真実を語ってしまうことで左右どちらからも非難を受ける結果につながるからなのだと思う。今回の取材も左右どちらから非難を受けても仕方のない内容となった。
ただ、22歳で終戦を迎えた取材対象も既に83歳である。私は、どんな非難を受けようとも生の声を残す責任を感じ取材に挑んでいる。
今後も、師が言う「平時においては想像し得ない当時の空気」について取材を重ねたいと思う。