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◆【持論時論】知れば日本が好きになる (世界日報 07/5/19)




見直される江戸時代/徳川宗家第18代当主 徳川恒孝氏に聞く

何百年も文化を継続/分散された富と権力、権威

参勤交代で情報発信/近代国民国家の基礎つくる

 日本郵船で海外経験が豊富な徳川恒孝さんの近著『江戸の遺伝子』には、現代に続く文化や社会の基になりながら意外と知られていない江戸時代のことが、当時の世界と比較しながら、分かりやすく書かれている。

 近年、さまざまな分野において見直されつつある江戸のすごさ、魅力について伺った。


 ■――本書を書かれた動機は?

 高校生に講演をした後、届けられた感想文の中に「私は日本はつまらない国だと思っていましたが、話を聞いてそうではないことが分かり、これからは日本が好きになると思います」というのがあり、それが本を書く一つのきっかけになりました。

 世界と比較すると日本文化のユニークさが分かり、日本史も面白くなります。特に若い人たちに読んでもらいたいですね。


 ■――徳川宗家のお生まれですか?

 私は会津松平家の生まれで、昭和二十九年、中学二年の時に徳川宗家の養子になりました。先代の十七代家正(いえまさ)には息子が一人、娘が三人いましたが、息子が二十五歳で亡くなったのです。私は長女の二男で、松平家を継ぐ必要もありませんでしたから。


 ■――「ならぬことは、ならぬものです」という会津教育は?

 東京住まいなので特にありませんでしたが、昭和二十年代ごろは、旧大名の華族の家にはお国のお手伝いさんや書生さんが大勢住んでいました。わが家にもたくさんいて、いわばスモール会津。一緒に遊ぶのは書生たちですから自然に会津弁になりました。学習院に入るとクラスに徳川や毛利、伊達などがいて皆仲良くしていました。


 ■――宗家が代々続いているのは海外では驚かれるのでは?

 パキスタンで講演した時、江戸時代から数えて徳川家十八代当主だと言うと、びっくりしていました。

 徳川二百六十年はムガール王朝と時代的にほぼ同じですが、後者は国土がどんどんイギリスの植民地になって、デリーにわずかな領地を持つだけの傀儡(かいらい)政権となり、王家の末裔(まつえい)は今はどこかで靴屋さんをしておられるらしい。

 日本ではどうして長く続いているのか、政府から金が出ているのかなどと聞かれ、戦前までは華族制度があったが、戦後は何もないと答えると、不思議がられました。

 ヨーロッパの王朝やアジアの専制王朝には、富と権力のすべてが集中していました。集中すると腐敗します。民は堪(たま)らなくなって革命を起こす。

 そこで生まれた新しい王朝は、当初は輝いていても、また富と権力が集中するので腐敗してしまう。世界中、その繰り返しのようなところがあります。

 日本の場合は富と権力、権威が分散していました。

 公家は権威の序列が高く、武士は権力を持っていて、町人はそのどちらもないが富を持っている。

 それぞれ自分が納得するものが与えられて、全体がきちんと収まっていた仕組みがとても巧みで面白い。

 当時の人口の八割以上は農民で、農業生産力は当時の世界と比較して非常に高かったのですが、水田の水を管理するには大規模な土木工事が必要でした。

 その中で生まれてきたのが、親子代々で田畑を継承していくという、家に対する確信のようなものですね。

 百年先もこの田を自分の子孫が耕していると思い、子孫は先祖伝来の土地を守ろうとする。これほど継続を重んじる国は世界に例がありません。

 日本では皇室が連綿と続いていることが心棒になっていて、古来の文化から外来の儒教や仏教、万葉仮名による和歌など、優れたものをそのまま継続してきました。

 一月の宮中歌会始で司会に当たる読師(どくじ)の役を頂いて感じたのは、歌会始は勅撰和歌集を陛下がお命じになった伝統が今も脈々と生きているということです。

 陛下の元に出された御題で、世界中から数万の和歌が寄せられ、そこから優れた歌を選び、披講するのは勅撰和歌集を作るのと全く同じ。宮中の文化を継承する力のすごさを感じましたね。

 宮中雅楽は唐の宮廷音楽・オペラを受容して以来、そのまま継承しています。当の中国ではとっくの昔に消えたものです。

 和歌の形の始まりは万葉集で、それが大和ことばの歌として古今集から今日まで続いています。

 俳句は芭蕉の発句からとしても四百年以上の歴史があります。

 茶の湯にしても千利休が始めたものが五百年、能も室町時代の世阿弥に始まり、今の形式になったのは四百年以上前です。

 日本にいると分かりませんが、外国から見ると、そんなに長く文化を継続させているのは奇跡に見えます。


 ■――その要因の一つが家の力ですが、日本の家は必ずしも血族にこだわらない。

 中国人をはじめ韓国人、インド人など東洋の家はあくまで血族ですが、日本は武家の三割は養子です。商家には伝統的に女系で続いている家もありました。

 男子は金持ちの家に生まれるとろくな者にならないので、家付きの娘に最も能力の高い番頭か手代を婿に迎え、家を継がせる。武家でも出来の悪い息子は僧にしたりして、外から出来のいいのを取る。

 これは家を中心とした能力主義で、同じ家族主義でも日本は柔軟です。

 一方、家を出た息子たちの中からは、画家の伊藤若冲(じゃくちゅう)などのように洗練された芸術家が出たりしました。


 ■――戦後の日本社会は個人が単位です。

 古い家族制度が失われて六十年になるので、これからの日本は変わるでしょう。

 まだ私たちの意識には「家」が残っていて、彼岸や命日には先祖の墓参りに行ったりしますが、先祖から子孫へと続いていく流れの真ん中に自分がいるという観念は、若者にはなくなりつつあります。

 家族制度は個人を束縛する側面もあり、今の価値観とは合わないでしょうが、日本人の優れた伝統は見直したいものです。


 ■――家康公は儒教を武士の教養の基本にしますが、ブレーンは天海や金地院崇伝など仏教僧でした。

 家康公は儒教を宗教だとは思わず、社会の道徳律の基本だと考えていました。

 家康公自身は熱心な浄土宗で、亡くなる前の手紙には、日に何万遍も南無阿弥陀仏を唱えていると書いたほどです。

 宮中では釈奠(せきてん)という孔子の祭りがあり、平安時代に各地にできた大学も儒教を教える所で、日本の儒教教育は千年以上続いています。

 それを実地に生かしたのが戦国武将です。戦国武将はよく儒教を勉強していて、子供たちへの手紙に孟子を読めと書いた人もいます。

 江戸時代になると、儒教や仏教を基に鈴木正三や石田梅岩らによって地方(じかた)の思想が生み出され、二宮尊徳の報恩思想に結実する。儒教が二百年かけて農民哲学になったのです。

 中国、韓国の科挙は世界を千年先取りしたような素晴らしい役人登用制度でしたが、儒教が試験問題になったのが問題です。

 古典を暗記して一字一句間違えずに書く、朱子学の解釈で答えることが第一になり、三十すぎまで暗記の勉強ばかりするので、ほかの能力が育たない。

 科挙の教材になったことで、儒教が思想の輝きを失ったと思いますね。日本が儒教を取り入れながら科挙を排除したのは幸運でした。


 ■――仏教は江戸時代の寺檀制度でだめになったという見方が長かったのですが、最近ではむしろ信仰心を高めたとして近世仏教が見直されています。

 燃えるような熱烈さは失われましたが、宗教が人々の生活に密着して、社会と同体になったのが江戸時代です。加えて、家と結び付いた宗教になりました。

 家に仏壇があり、そこにご先祖様がいて、命日やお彼岸には墓参りをする。死んでいく方も、自分はこの仏壇に入り、子供や孫、ひ孫たちが祭ってくれるというので心の安らぎになる。

 仏教では亡くなると遠い西方浄土に行くのですが、日本人はその辺にいて、自分たちを見守っていると思っている。

 それが、先祖と一体化して生きるという感性を育て、道徳性を高めました。宗教学的にはプリミティブなのかもしれませんが、そういう感覚が非常にいいですね。


 ■――大名の参勤交代が日本は一つの国という意識を醸成したそうですね。

 道中で見聞を広めただけでなく、江戸育ちの殿様が領地と往復することで、江戸に情報が集積し、同時に江戸から発信されました。

 それぞれお国自慢をするので、負けずにわが藩も発展させようと、蘭学の町ができたり、博物学が地方で栄えたりしました。明治に近代国民国家が形成される基礎は江戸時代につくられたのです。


 ■――来年は島津家から十三代将軍家定公の正室になった天璋院篤姫(あつひめ)が大河ドラマになります。

 天璋院様の文書でまだ読み下していないものがたくさんあるので、大急ぎで読んでいるところです。

 江戸時代には知識や教育が庶民に広く普及し、女性を含めて国の隅々までほぼ行きわりました。教養の高い女性が多く現れ、自由に旅をし、活躍したのも同時代のヨーロッパと違う点です。


 とくがわ・つねなり 昭和15(1940)年東京生まれ。38年より徳川宗家第18代当主。学習院大学政経学部政治学科卒業。日本郵船副社長を経て現在顧問。財団法人”川記念財団理事長。社団法人横浜港振興協会会長。WWF世界自然保護基金ジャパン常任理事。著書は『江戸の遺伝子』。
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by sakura4987 | 2007-05-23 15:36

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