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◆沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防 8 (世界日報 07/5/22)



「軍命裏付ける証言得られず」/曽野氏、疑問抱き丹念に関係者取材

 昭和四十年前後、ジャーナリストや文化人が書いた沖縄戦史、また村が作成した村史を通じて、渡嘉敷島、座間味島で起きた集団自決が軍命令によるもの、という見方が通説となり、半ば「常識」となりつつある時、これに疑問を抱き、丹念に再検証を行う取材をした一人の作家がいた。

 『或る神話の背景』(昭和四十八年、文藝春秋)を公刊した曽野綾子氏である。曽野氏は、平成十二年十月十六日、司法制度改革審議会委員として同審議会で、陪審制度の問題点について論じている。

 その中で、「言語を楽しみ、言語と苦闘してきた私たちからみると、言語ほど難しいものはなく、それはあたかも流れる川の中で生きた魚を掴(つか)むのに似た難しさを感じさせる」と述べて、この渡嘉敷島・集団自決を取材した経緯などを語っているので、紹介したい。

 曽野氏は、沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』、渡嘉敷島遺族会編纂(へんさん)『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』、岩波書店『沖縄問題二十年』(中野好夫、新崎盛暉著)、岩波書店『沖縄ノート』(大江健三郎著)、平凡社『悲劇の沖縄戦』など九冊を取り上げ、こう語った。

 「これらの著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を『人非人』『人面獣心』などと書き、大江健三郎氏は『あまりにも巨きい罪の巨塊』と表現しています。私が赤松事件に興味を持ったのは、これほどの悪人と書かれている人がもし実在するなら、作家として会ってみておきたいという無責任な興味からでした。私は赤松氏と知己でもなく、いかなる姻戚(いんせき)関係にもなかったので、気楽にそう思えたのです」

 「もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。(略)渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました」

 曽野氏の取材は昭和四十五、六年だったが、当時まだ集団自決の状況を知る村の関係者や赤松元隊長をはじめ隊の関係者が多く生存していた。その一人ひとりに直接会い、取材をした結果、

 「赤松氏が集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られなかった」と語る。

 その根拠の第一として、常に赤松氏の側にいた副官の知念朝睦氏が、明確に軍命令を否定。

 また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したが、その駐在巡査は、曽野氏の直接の質問に対して「赤松氏は自決命令など全く出していない」と明確に証言したからという。

 那覇市から車で四十分余り北に走らせた宜野湾市に、知念氏の自宅はある。記者(鴨野)が訪れた二月の下旬、庭の梅の木にメジロが止まり、さえずっていた。

 『鉄の暴風』に同氏が登場する場面がある。

 <地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭(どうこく)し、軍籍にある身を痛嘆した>(36)

 知念氏にこの記述を確認すると、笑いながら「渡嘉敷島に、将校会議を開く地下壕(ごう)は存在しませんでしたね。作り話ですよ。沖縄タイムスは嘘(うそ)ばかり書くから、私は読んでいませんよ。それに比べて曽野先生は偉かったな。もんぺ姿で渡嘉敷島で何日間も取材をされたのですから」。

 自決命令を聞いた知念氏が<悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した>と『鉄の暴風』にある。だが彼は沖縄タイムスから、戦時中の様子を取材されたことが一度もない。ならばなぜ、彼が慟哭し、痛嘆したと彼の胸中を推し量る記事を書いたのだろうか。

 「私が赤松隊でただ一人の沖縄出身者ということで、きっと同情心から、想像して書いたのでしょうね」と知念氏。

 沖縄タイムスは、赤松氏本人にも元隊員への取材もせず、軍命令があったと書いた。記者が取材した、知念氏をはじめとする三人の元赤松隊の隊員は、赤松氏の軍命を真っ向から否定した。
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by sakura4987 | 2007-05-24 09:17

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