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◆【連載】沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防 5



 (世界日報 07/5/19)

米軍上陸を前にして玉砕覚悟/手榴弾、かま、くわで集団自決

 那覇市から高速艇で西に四、五十分走った所にある慶良間(けらま)諸島。渡嘉敷、座間味、阿嘉(あか)、慶留間(げるま)、前島、屋嘉比(やかび)、久場島など大小二十余の島々から成る。

 この中で渡嘉敷島、座間味島で起きた集団自決をめぐって裁判が起きているのである。

 日本軍は、米軍が真っすぐに沖縄本島に上陸すると予測。その米軍の背後に回って奇襲攻撃を掛けようと渡嘉敷島、座間味島などに海上特攻艇二百隻を運び、その機会をひそかに待っていた。

 「マルレ」と呼ばれる特攻艇はベニア板製で船幅一・八㍍、艇長五・六㍍、重量千二百㌔の半滑走型ボート。百二十㌔の爆雷二個を搭載し、米軍艦艇に体当たり攻撃を行う秘密兵器だった。

 乗り込んだ隊員に生還はない。海の「特攻隊」である。だが、米軍の作戦は違っていた。


 昭和二十年三月二十三日。彼らは沖縄本島攻略の足掛かりとして、数百の艦艇で慶良間列島へ砲爆撃を仕掛けてきたのである。

 渡嘉敷島で指揮をしたのは海上挺進第三戦隊長、赤松嘉次(よしつぐ)大尉。陸士五十三期卒。当時二十五歳だった。

 だが、赤松部隊は那覇の船舶団本部からの「状況有利ならざる時は、所在の艦船を撃破しつつ、那覇に転進すべし」という命令と、その時に渡嘉敷島を訪れた船舶団本部団長・大町茂大佐の「(転進は)時期尚早」という意見の狭間に立たされて、結局、特攻艇は出撃の機会を失ってしまう。敵の上陸を前にして、その艇を自沈させた。

 米軍は三月二十六日、座間味島に、二十七日には渡嘉敷島にも上陸した。

 座間味島の指揮官は海上挺進第一戦隊長、梅澤裕少佐。陸士五十二期卒。当時二十七歳だった。座間味島の島民は、初めて米兵と遭遇する日本人となった。その心理状態はどのようなものであったか。


 昭和四年から九年にかけて座間味村長を務めた宮村盛永氏(故人)は、昭和三十一年起稿の自叙伝を残しているが、そこに「戦争中の思い出」と題する章がある。

 米軍上陸時の村人の様子と、島民の覚悟が記されている。(月刊『小説新潮』昭和六十三年一月号、本田靖春「第一戦隊長の証言」より)


 三月二十三日。<座間味、渡嘉敷の山火事はだんだん燃え広がり、四面は火の海に包まれ、その火影は海面に照り渡り、海陸とも赤い毛せんを敷いたような有様であった>

 二十四日。<午前九時からグラマン機はますます猛威をふるい、日中は外に出ることは不可能であった。

 敵の上陸寸前であることに恐怖を感じながら、この調子だと家族が全滅するのも時間の問題だと考えたので、せめて部落にいる(長男の)盛秀夫婦、直(五男)、春子(三女)とともに部落の近辺で玉砕するのがましではないかと家族に相談したら、皆賛成であった。

 同日の夜、自分は座間味の壕に帰り、村の情況と家族の安否を尋ねたら、皆元気いっぱいで覚悟の活動をしていた>


 覚悟を決めていたのは、宮村氏の家族だけではない。島民は皆、身辺を整理し、晴れ着に着替えていた。


 二十五日夜。五男の直が父に「お父さん、敵は既に屋嘉比島に上陸した。明日はいよいよ座間味に上陸するから、村の近いところで軍とともに玉砕しようではないか」と持ち掛ける。

 部落に戻る夜道を急ぐ彼らの頭を敵の機銃弾がかすめてピュンピュン風を切った。だが「皆無神経のようになって何の恐怖も抱かず」駆けたと自叙伝は記している。

 米軍の座間味島上陸は二十六日午前九時ごろだが、その直後に集団自決が決行された。下谷修久氏が出した『悲劇の座間味島』(昭和四十三年)には、自決した人の名前、生年月日、自決日時と場所が記されている。その数は百七十二人だった。

 米軍は次に渡嘉敷島に上陸。島の北端の北山で三百二十九人の島民が集団自決で亡くなったと村史は記している。

 手榴弾(しゅりゅうだん)の爆破。かま、くわ、かみそりなどを持って力のある者が愛する家族を手にかけた。残った者が最後に自死した。武器も刃物も持ち合わせのない者は、縄で首を絞めたりして命を絶ったのであった。
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by sakura4987 | 2007-05-24 09:19

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