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◆鉄血勤皇師範隊 かく戦えり (世界日報 07/6/23)



元鉄血勤皇師範隊野戦築城隊員 玉城朝正氏に聞く

「身体を大事に」と牛島軍司令官

自決命令は聞かれず

摩文仁の丘に星条旗、終結悟る

玉音放送に涙、投降できず避難

きょう「慰霊の日」

 二十三日は「慰霊の日」。大戦末期の沖縄戦で、沖縄守備隊第三十二軍牛島満司令官(明治二十年七月三十一日-昭和二十年六月二十三日)と長勇参謀長(明治十八年一月十九日-昭和二十年六月二十三日)が自決した昭和二十年六月二十三日を組織的戦闘が終了した日として、同四十九年、「六月二十三日 慰霊の日」が沖縄県の条例で定められた。

 この日は、沖縄戦で尊い命をささげた軍人、軍属、民間人を追悼する式典が県内各地で行われる。沖縄戦を日本軍と共に戦い抜き、生き延びた元鉄血勤皇師範隊隊員の玉城朝正氏に沖縄戦の体験談を聞いた。

 ――鉄血勤皇師範隊に入隊したのは。

 昭和二十年三月三十一日。当時、沖縄師範学校本科一年生の時、全生徒が「鉄血勤皇師範隊員」として召集され、私は「野戦築城隊第三中隊」に配属された。

 米軍が沖縄本島に上陸する前日だ。四月一日には、「仮進級式」があった。同三日には、日本兵と共に首里城付近で垂直坑道の作業をしていると、砲弾が城壁に命中、胸のあたりまで落石で埋まり、右肩を砲弾の破片で負傷した。その時、後輩が一人戦死した。

 四月六日、夕食の後、近くの運動場で、那覇沖から中部にかけた西海岸に押し寄せていた米軍艦船を眺めている時、人の気配を感じたので振り返ると、牛島満軍司令官が立っておられた。

 直立不動で挙手の敬礼した時、「学生さん、ご苦労さんです。ほら敵艦隊をご覧なさい。これからものすごい戦闘が始まるよ。でも、身体を大事にしなさいよ」と言われ、驚いた。威厳があって優しい人の印象だった。

 戦争のために命をささげなさい、と言われるかと思ったが、そうではなかった。牛島司令官の言葉は今でも覚えている。

 その時から決して生命を粗末にしてはならないと心に決めた。入隊前に亡くなった父の言葉のように思えて仕方なかった。

 ――首里城周辺の戦況はどうだったか。

 米軍が上陸してしばらくしてから、首里城周辺は砲火の海になった。留魂壕(ごう)という壕を拠点に壕作りの作業をしたが、日中は砲弾を受けて命懸けだった。学校の先生や同僚の仲間が何人か戦死した。

 五月二十八日、首里の壕からの退却命令が出され、南部の摩文仁方面に向かうことになった。途中、壕で休息したが、兵士や避難民、死者や負傷者も放置された状態だった。南部は比較的静かだったが、米軍機の機銃掃射は容赦なかった。

 南下の途中、長勇参謀長一行に出会った。その時、「皆さん、ご苦労さん」と師範隊に声を掛けてくれた。我々を見下すような様子はなかった。

 五月三十日の夕方、摩文仁に到着。特編中隊や自活隊などの他の師範隊とともに摩文仁岳の南側の海岸近くに避難した。

 六月十日ごろ、別部隊の陣地構築を支援するよう命令を受けて具志頭村という地域に行ったが、そこはもう戦場で、陣地構築というより、まさに前線だった。

 ある時は、火炎放射器を持った米軍が約五百㍍の所まで来て、これはやられると覚悟したが、午後五時には、攻撃が中止となって助かった。米軍は攻撃の始めと終わりがはっきりしており、時間になれば攻撃をやめた。

 六月十九日に、司令部付き学徒隊に解散命令が出され、避難が始まった。その時、負傷のために敵中突破をあきらめて手榴弾(しゅりゅうだん)で自決するものもいたが、自決しないで居残る人もいた。

 六月二十五日ごろ、海岸の岩陰で敗残兵たちと一緒に休んでいたが、上陸用船艇で来た米軍に見つかり、約五十人ほどが捕虜となった。

 私は、足をけがしていたので、ダメだと手で合図すると、米軍兵士がそのまま立ち去って、その時は捕虜にならなかった。このため、ハワイに送られずに済んだと思う。

 ――牛島司令官が自決して沖縄戦が終決したのをいつ知ったのか。

 六月二十三日には、全く知らされなかった。しばらくたって、軍司令部壕のあった摩文仁の丘に米国旗が掲げられ、米軍が勝利した内容の碑文を見て、知った。

 碑文の前に、小石を並べた墓があって、牛島司令官と長参謀長の名前が記されていた。二人が亡くなったことは感じたが、戦争が終わったとは思わなかった。

 その後、九月十日ごろに投降するまで、仲間と一緒に逃避生活を送った。昼は米軍を避け、夜になって食糧探しに出回る毎日だった。

 米軍はだんだん北上し、米軍が去ったあとの壕には食べ残しの携帯食料などがあって、食糧を集めるのに、それほど苦労しなかった。

 ――八月十五日の終戦をいつ知ったのか。

 八月十五日の夜、避難中の東風平あたりで米軍基地から流れる天皇陛下の玉音放送を聞いた。日本が負けたかと思うと泣けて仕方なかった。でも、敵の謀略と思って投降する気にならなかった。

 ――投降の時の様子は。

 九月十日ごろだったか。宣撫(せんぶ)工作員がやってきて、敗戦の状況と今後の身の振り方を知らされた。

 いよいよ敗戦の実感がわいてきたが、捕虜になっても生命の保証はあるし、日本の降伏まで戦ったという自負心があった。

 その日、米軍のトラックが壕に来たので、トラックに乗り込んでテントで作られた収容所に行った。しばらくして、民間人と区別され、日本兵と共に兵士用の屋嘉収容所に送られた。

 ――沖縄戦の体験で、日本軍が沖縄県民を守らなかったと思うか。

 戦時中、いろいろな噂(うわさ)や風評があったが、日本兵が民間人を殺害したり、壕から追い出したりしたところを見たことはない。兵士も民間人も生きるのが精いっぱいだった。

 ――軍の上司から自決せよとの命令を聞いたことがあったか。

 我々鉄血勤皇隊は、防衛隊の軍隊で、戦陣訓を覚え、万一の場合は自決をする覚悟はあった。でも、牛島司令官から言われた言葉がいつも耳に残っており、最後まで生きようとした。

 上官から自決せよと命令を聞いたことはないし、牛島司令官が部下たちや民間人に対して自決せよと命令を下したとは私には考えられない。

 数多くの同僚を沖縄戦で亡くした。今日生きているのは、運が良かったと思っている。「慰霊の日」を迎えるごとに、私の平和への願いを決して忘れることはない。


 ●たまき ちょうせい 昭和2年沖縄県伊是名村生まれ。同32年法政大学経済学部卒、琉球政府に入庁、同44年琉球政府企画局調査官、同54年沖縄陸運事務所所長、同56年沖縄総合事務局総務部庶務課長、企画室長、同59年より(社)沖縄旅客船協会専務理事、陸運協力会会長などの要職を務める。
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by sakura4987 | 2007-06-30 08:52

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