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◆【正論】文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司



 (産経 2008/7/25)


今日に必要な「理想人間像」


 ≪■「人間の教師」の喪失≫

 大分県の教員採用試験をめぐる汚職事件は「教育」という人間の精神の根幹に関わる仕事にまで腐敗が広がっていることを見せつけるような醜態である。

 今日の日本の腐敗状況は、どんなことがあってももはや驚くことがないほどの進行ぶりだが、今回の「教育」の堕落は、日本人の精神の転落が、何かもう歯止めがきかない段階にいたったのではないかと思わせる。

 この汚職報道の中に、佐伯市の教育委員会の名が出てきたとき、注意をひかれた。というのは、佐伯という地名は、私にとって深い感慨をもたらすものだったからである。そこは、明治の詩人・小説家、国木田独歩が、明治26年9月から翌27年7月までの間、滞在した場所なのである。

 独歩を愛読してきた私は、若き独歩が鶴谷学館の教頭として赴き、英語・数学を教えた、この佐伯という土地にぜひ一度は行ってみたいと思いながら、まだ果たせないでいる。

 佐伯滞在中はワーズワース詩集を持って頻繁に近郊を散歩して、その詩情を大いに養った。そして、結局真の意味の「教師」となり、「人生の批評」を事業とすることを決心し、「人間の教師」たる実践の道具として文学を選び、詩人・小説家の道を歩んでいく。この、真の意味の「教師」あるいは「人間の教師」という内実が、今日の「教師」という職業からは失われていっていることを今回の汚職事件は、はっきり示した。

 ≪■「非凡なる凡人」の矜持≫

 福田恆存は、「神と理想人間像となくして、個人の確立もその超克もありえぬ」といった。教育においても「理想人間像」がなくてはならないであろう。今日の教育の堕落、あるいは空洞化は、「理想人間像」の欠如に由来している。「理想人間像」なくして、何を教えるのであろう。知識を教えるにすぎない。となれば、塾の先生の方がよほどうまいに違いない。

 国木田独歩に「非凡なる凡人」という明治36年の作品がある。桂正作という青年が「非凡なる凡人」として描かれている。「非凡人ではない。けれども凡人でもない。さりとて偏物でもなく、奇人でもない。非凡なる凡人というが最も適評かと僕は思っている」とある。

 桂正作は、少年のとき、『西国立志編』を愛読した。「活ける『西国立志編』」と呼ばれている。

 『西国立志編』は、19世紀のスコットランドの著述家、サミュエル・スマイルズの著『Self-Help』を中村正直が翻訳したものである。この『自助論』ともいわれる本は、「天ハ自ラ助クルモノヲ助ク」というモットーにあらわれているように、勤勉、自律、倹約などの倫理を、具体的な人物を数多く取りあげて奨励したものである。

 明治3年に刊行され、福沢諭吉の『学問のすすめ』と並ぶベストセラーとなった。多くの桂少年が、愛読したに違いない。

 桂少年は、『西国立志編』を自ら実践し、ついに電気の技手として身を立てる。この作品の最後に、独歩は、器械の狂いを修繕している桂正作について次のように書いている。「桂の顔、桂の様子! 彼は無人の地にいて、我を忘れ世界を忘れ、身も魂も、今その為しつつある仕事に打ち込んでいる。僕は桂の容貌(ようぼう)、かくまでに真面目(まじめ)なるを見たことがない。見ている中に、僕は一種の荘厳に打たれた」

 ≪■明治にみる「自治」の人≫

 「非凡なる凡人」に、「一種の荘厳」を感じる感覚こそ、独歩にとって、あるいは明治の青年にとって、「非凡なる凡人」が一つの「理想人間像」であったことを示している。

 最近、再評価の気運の高い後藤新平も、若き日に『西国立志編』を熟読した人であった。この台湾総督府民政局長、初代満鉄総裁、さらには東京市長などとして大きな仕事をした人の精神の根底を作ったのが、実は『西国立志編』だったのである。

 後藤新平の有名な「自治三訣」(人のおせわにならぬやう 人の御世話をするやう そしてむくいをもとめぬやう)は、まさに『西国立志編』が説いた道徳に他ならない。

 今日の日本人がとりもどさなくてはならないのは、独歩の「非凡なる凡人」や後藤新平の精神の基盤を作った「自治」の精神である。「理想人間像」は、「自ラ助クルモノ」に置かれなければならない。「人の御世話をする」気はなく、「むくい」は必ずもとめ、その上「人のおせわに」なるのを当然と考える人間ではなく、「自治」の人こそ、今日必要な「理想人間像」である。
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by sakura4987 | 2008-07-28 11:09

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