◆【次代への名言】産経 2008/10月5日
■二難猶(なお)残せり。所以(いわゆる)他国侵逼(しんぴつ)の難・自界(じかい)叛逆(ほんぎゃく)の難なり(日蓮『立正安国論』)
右のことばの大意は「他国からの侵略と内乱。この2つの難が訪れるであろう」である。非常の僧、日蓮が発した警告は現実となった。『立正安国論』の成立から14年後の文永11(1274)年のきょう(旧暦)、九州・対馬沖に大船団が姿を現した。最初の蒙古襲来(元寇)となる「文永の役」のはじまりである。
有史以来の国難だった。元・高麗軍は三万数千人。対馬と壱岐はたちまち落ち、20日には博多に上陸を許した。「てつはう(炸裂(さくれつ)弾)」や毒矢など見慣れぬ武器を前に鎌倉幕府軍は善戦したが、じりじりと後退していった。
翌21日、奇跡が起きた。博多沖の大船団が姿を消していたのだ。その理由については謎が多い。従来は「神風(暴風雨)説」が有力だったが、元側の史料には「官(元)軍整わず、また矢尽きる」とある。日本側の思わぬ抵抗に内部分裂が生じ、退却した-という説や2つの要素を折衷した説もある。
「文永の役」はときの執権、北条時宗を頂点とした挙国体制をもたらした。その一方で、日蓮はその激烈な言動が「幕府批判」とみなされ、不遇の一生を送る。歴史は多く、非常の人、先覚者に過酷である。