◆【産経抄】1998年12月8日 鈴木貫太郎
七日の明け方近くふと目ざめて枕元のラジオをつけると、NHK深夜便で“外交秘話”を語っているひとがいた。話は途中からだったが、大東亜戦争も末期になり、いよいよ敗色濃厚となった時期である
昭和二十(一九四五)年四月初めに小磯国昭内閣が総辞職して鈴木貫太郎内閣が成立するが、その直後の十二日、アメリカのルーズベルト大統領が六十三歳で急死した。そこで興味ぶかい事態がおきた。仇敵(きゆうてき)の親玉が死んだのだから普通なら拍手喝采(かつさい)する
しかしたとえ戦火を交えている仲とはいえ、国と国との間には礼節というものがある。それが国際的常識である。しかもその時は秘密裏に戦争を終結させ和平をさぐるための交渉もしていた。そこで、このひとはアメリカ国民に弔意を表すことを進言したという
それに東郷茂徳外相も同意し、鈴木首相の名をもってアメリカ国民に大統領逝去をいたむ弔電を打った。何しろお互いに相手を“鬼畜”呼ばわりし、憎悪をむき出しにして戦っていた最中である。それがアメリカを大いに驚かせた
その時ドイツの作家トーマス・マンはアメリカに在住し、週一度ラジオ放送を受け持っていた。「日本はやはりサムライの国である。見上げたものだ。それに引きかえわが祖国は万歳、万歳と喜んだ。恥ずかしいことである」、マンはラジオでそう述懐したというのである
午前五時になって、話の主は外交評論家の加瀬俊一氏だったことがわかった。かの地の詩人ホイットマンは『草の葉』のなかで「毅然たる武士」を称賛したが、かつては戦争のさなかにも花は咲き、礼は存していたと考えたら目がさえてしまった。きょうは開戦の日。