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カテゴリ:★明治維新
  • ◆【幕末から学ぶ現在(いま)】東大教授・山内昌之 山尾庸三
    [ 2009-05-22 12:26 ]
  • ◆【産経抄】 (産経 2008/12/27)
    [ 2009-01-05 13:56 ]
  • ◆“豪腕”井伊大老、繊細な面も 日米修好通商条約、手続き悔やむ
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  • ◆「西郷は征韓論」を削除・鹿児島知事要請で教科書出版社 (日経 07/3/1)
    [ 2007-03-04 06:49 ]
  • ◆戊辰戦争の真実  避けられた東北での戦争 (世界日報 07/2/4)
    [ 2007-02-08 16:10 ]

2009年 05月 22日
◆【幕末から学ぶ現在(いま)】東大教授・山内昌之 山尾庸三


 (産経 2009/4/30)


英国に渡航した長州5傑の面々。右上の伊藤博文から、時計回りに山尾、井上馨、遠藤謹助、井上勝(萩博物館)


 ■政治家と「生きた器械」

 “クレオパトラの鼻が少し低かったら、世界史は変わっていたかもしれない”。パスカルの言葉は、歴史における「イフ」(もし何々だったら)という仮定への誘惑をそそってきた。彼女の鼻は手術でもしなければ低くできない。

 ◆「長州5傑」の判断こそ

 しかし、幕末に20代の「長州5傑」(長州ファイブ)がロンドンで実際と違った判断をしていたなら、明治新時代の歴史は想像もつかないほど変わっていたに違いない。鎖国の日本から英国に留学した5人の若者は、外国艦隊の長州攻撃計画を知って苦悩した。考え抜いた末、後に井上馨や伊藤博文と名乗る若者たちは、近代陸海軍の現実をこの目で見て攘夷(じょうい)の無謀さを藩に説くために急遽(きゅうきょ)、帰国の道を選ぶ。こうして2人は、政治と外交の世界で明治新政府をリードする政治家に成長する。

 しかし、自然な任務分担の形で英国に残り、学業を続けた3人の偉さについて知る現代人は多くない。山尾庸三はグラスゴーの造船所で働きながら、アンダーソン・カレッジで工学を勉強した。他方、井上勝はロンドン大学などで鉄道・鉱山技術を学び、遠藤謹助も造幣技術を習得している。

 ことに山尾は品川御殿山に建築中の英国公使館焼き打ちに加わった筋金入りの尊王攘夷派であったが、英国に渡ると、西洋の先端技術の摂取に努めた。早い話が転向したのである。

 ◆橋、鉄道、金貨…貪欲に

 5傑のこだわりのないプラグマチストぶりには驚かされるが、現実に大英帝国の繁栄を見ると、攘夷では国が滅びると実感したに相違ない。この見切りの良さが幕末の志士を明治のエリートに成長させる原動力になった。

 政治家だけで新しい国造りはできない。山尾たちは、テムズ川の堅牢(けんろう)な橋、マンチェスターの工場、ロンドン中心の鉄道網、社会生活の基礎となるポンド金貨などを近代日本国家も摂取すべき不可欠の要素と考えた。

 井上勝は帰国後、新橋・横浜間の鉄道開業に努力し、国鉄総裁に相当する職に就く。高給の外国人お雇いをやめ、大阪に工技生養成所を設けて自前の技術者育成に努めたあたりは、幕末に攘夷の風を吹かした長州人らしい。東海道線や国産車両も井上がいなければ実現できなかった。まさに“鉄道の父”なのである。

 遠藤謹助は、造幣局長など一貫して貨幣鋳造畑を歩む。英国人お雇いと衝突して辞職する気骨は幕末の気風を残していた。再び造幣局に戻った彼は毎年4月中旬に桜並木を一般公開する「桜の通り抜け」を始めた“造幣の父”だ。


 ◆工学教育研究の功労者

 山尾庸三は帰国後、工部省や工部大学校(東京大学工学部の前身)をつくり、国家経営の高級技術者を育てることに腐心した。日本繁栄の土台をつくった工学教育研究最大の功労者といってよく、“工学の父”の名にふさわしい。

 さらに、山尾の偉いのは、英国の造船所で会話が不自由な職工が日々元気で働くのに感動し、耳が聞こえず、目の不自由な身体障害者の教育に取り組み、明治13(1880)年に「楽善会訓盲院」の設立に尽力したことだ。現在の筑波大学付属聴覚特別支援学校などの前身である。

 山尾らを見た英国人は、彼らの礼儀正しさ、真面目さと勤勉ぶり、目標を目指すひたむきな努力、手の器用さを褒めたたえた。山尾らに共通するのは、武士の誇りと使命感であった。彼らは技術や教育という地味な分野で近代国家の建設に貢献したのである。

 伊藤博文や井上馨らの政治家は、有能な専門家を活用する術を知っていた。政治家は、優秀な能力をもつ人間を活殺自在に使う点で器量が試される。良い官僚まで叩くと、政治は成り立たない。山尾らの才能を見抜き、それを新生日本の「生きた器械」として活(い)かした明治の政治家の度量には改めて感心させられる。


【プロフィル】山尾庸三

 やまお・ようぞう 天保8(1837)年、周防国長州藩士、山尾忠治郎の次男として生まれ、吉田松陰らに学ぶ。幕府が開国の延期を交渉するため、文久元(1861)年、ロシアへ使節団を派遣し、随行した。翌年に帰国後、品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちにした。同3年には密航でイギリスに渡航、産業や文化を視察し、各種工業を調査研究した。明治3(1870)年に帰国し、横浜造船所の責任者となり、同13年には工部卿に就任。その後、法制局長官、有栖川宮と北白川宮の各別当の要職を務め、21年には臨時建築局総裁を兼ねた。31年の辞職後は、文墨を楽しみ、金魚を好んで飼育した。20年には子爵に任じられた。大正6(1917)年に脳出血のため、81歳で死去。




by sakura4987 | 2009-05-22 12:26 | ★明治維新
2009年 01月 05日
◆【産経抄】 (産経 2008/12/27)



 京都市内を南北に流れる鴨川の東、京都大学のすぐ近くに吉田山という丘がある。京大生たちの遊歩の場ともなっている。その南側のすそ野あたりが黒谷と呼ばれる。そこに浄土宗の大本山、金戒(こんかい)光明寺という寺院が、そびえるようにして建つ。

 その裏手に広い墓所があり、一角にかなり古い300ほどの墓が整然と並んでいる。幕末、京都守護職として金戒光明寺に本陣を構えた松平容保に従い、鳥羽伏見などで薩摩や長州などの軍と戦って斃(たお)れた会津藩士たちがいた。その藩士たちを埋葬した墓なのである。

 何年か前に訪ねたとき、墓所は手入れが行き届いていた。毎年、福島の会津若松の高校生たちが修学旅行の途中で詣でるのだと聞いた。戦の常とはいえ異郷で戦死し、故郷に帰ることなく、眠っている武士(もののふ)たちのことを思うと、胸を突かれるような気がした。

 82歳で亡くなった早乙女貢さんの『会津士魂』は、その会津藩士たちの苦闘の物語である。続編では戦いに敗れた後、薩長を中心とした明治政府から徹底して弾圧された会津の人々の悲劇を描いている。昭和45年以来30年あまりの歳月をかけて書かれた大長編だった。

 曾祖父が会津藩士だった早乙女さんのライフワークとなった。最も訴えたかった会津の人の「心」は恐らく「あとがき」の次の部分だろう。「かれらの怨みは、ひとしく、倒幕派によって、朝敵・賊軍の烙印(らくいん)を捺(お)されたことにある。戦さに敗れた恨みではない」。

 勝者によりその歴史観・価値観を押しつけられることは、敗戦そのものよりつらいのだという。会津藩だけではない。あの戦争後の日本も、勝者の歴史観を唯々諾々と受け入れ、いまだその呪縛(じゅばく)から抜けきれない人が多い。何とも異常である。




by sakura4987 | 2009-01-05 13:56 | ★明治維新
2007年 07月 14日
◆“豪腕”井伊大老、繊細な面も 日米修好通商条約、手続き悔やむ


 (産経 07/7/11)


 幕末の大老、井伊直弼が1858年に日米修好通商条約を調印した際、諸大名の承認を得ず手続きを進めたことを悔やんでいたとする史料が10日までに見つかった。

 史料を展示している彦根城博物館(滋賀県彦根市)の史料係、渡辺恒一さん(40)は「安政の大獄などから、豪腕をふるう強権的な人間像が描かれてきた直弼だが、繊細な一面もあったことがうかがえる」と話している。

 史料は全3巻、計約300ページ。彦根藩の側近が直弼の政治活動を記録した「公用方秘録」の草稿版の写本とみられる。

 史料には、側近から「諸大名の承認のない調印に批判が生じる」と指摘された直弼が「其所ヘ心付不申段ハ無念之至(その点に気付かなかったのは無念)」と後悔したとする記述があった。

 現存する草稿版には条約調印前後の記述そのものがなく、史料はこの部分が抜け落ちる前に写したものとみられる。

 一方、明治政府に提出された同秘録の清書版には、今回の史料にある“後悔”の記述はなく、直弼が「天皇の許可なく調印する全責任を負う」という趣旨の強気の発言だけが記されている。

 史料は約30年前、京都井伊美術館(京都市東山区)の井伊達夫館長(64)が、彦根市に住む井伊家家老の子孫から購入。研究中に記述に気付いた。

 井伊館長は「現存する草稿版や清書版は井伊家に都合の悪い部分を抜いたり書き直した可能性がある」としている。

 史料は20日まで彦根城博物館で公開中。



by sakura4987 | 2007-07-14 10:51 | ★明治維新
2007年 03月 04日
◆「西郷は征韓論」を削除・鹿児島知事要請で教科書出版社 (日経 07/3/1)


http://www.nikkei.co.jp/news/main/20070301STXKE074001032007.html

 西郷隆盛らの征韓論を記述した日本史教科書に、西郷が朝鮮との平和的交渉を目指したとする「遣韓論」も併記するよう鹿児島県の伊藤祐一郎知事から要請を受けた教科書出版社の一つが、「西郷は征韓論を唱えた」との記述を削除していたことが1日、分かった。伊藤知事が県議会で自民党県議の質問に答え、明らかにした。

 記述を変更したのは、第一学習社(広島市)発行の高校向け日本史教科書。「明治初期の外交政策」の項で、「西郷隆盛らは(中略)武力を用いてでも開国させようとする征韓論を唱えた」との従来の記述を削除した。

 新たに「政府は(中略)朝鮮に開国を要求したが、拒否されたため、朝鮮への非難が高まった(征韓論)」と記述。さらに「西郷隆盛らは、1873(明治6)年、西郷を使節として朝鮮に派遣することを決定した」との内容を加えた。

 「遣韓論」併記にまで踏み込んではいないが、伊藤知事は記述変更を歓迎、「今後も郷土の偉人が正しく理解されるよう努めたい」と話した。





by sakura4987 | 2007-03-04 06:49 | ★明治維新
2007年 02月 08日
◆戊辰戦争の真実  避けられた東北での戦争 (世界日報 07/2/4)


会津藩の謝罪許さず/西郷の不在で暴走

 戊辰(ぼしん)戦争は、明治時代の夜明けとなる一八六八年(戊辰の年)に始まった薩長土軍(西南軍)と旧幕府軍との戦い。

 京都近郊で起きた鳥羽・伏見の戦いに始まり、上野での彰義隊の戦い、仙台、米沢藩らの奥羽越列藩同盟から会津落城を経て、六九年、函館五稜郭の戦いで終了した。

 敗北した東北は朝敵・賊軍とされ、新政権下で冷遇される。

  ◇   ◆   ◇

松平容保が長州勢を駆逐した蛤御門の変

 十四歳のとき戊辰戦争を経験した南部藩(岩手)出身の宰相・原敬は、「戊辰戦役は政見の異同のみ、当時勝てば官軍、負くれば賊軍との俗謡あり、その真相を語るものなり」と語っている。別名東北戦争とも呼ばれたこの戦いの真相は何だったのだろうか。

 一八五三年のペリーの来航を機に、天皇の住む京都は、尊皇攘夷の思想が広がり、西国各藩の志士が朝廷に働きかけるべく集結、攘夷を実行しない幕府に業を煮やし、開国論者や安政の大獄に手を貸した者を暗殺するなど、治安は悪化の一途をたどっていった。

 幕府は六二年「京都守護職」を設け、奥州の会津藩主・松平容保(かたもり)を立てた。危険な職であったが、容保は開藩時に徳川家に恩義を受けた会津藩主として受けざるを得ず、千人の藩兵を率いて入京。拝謁を期に、孝明天皇からも厚い信任を受けるようになる。

 一方、過激な公家たちは長州藩を抱き込み、政権奪取を画策。倒幕のための勅許、容保暗殺計画などを画策した。しかし容保は八・一八の政変(六三年)や、蛤御門の変(六四年)で、長州勢と過激派の公家たちを京都から排除。

 追われた長州も、圧倒的な砲撃力の欧米の実力を知るにつけ、攘夷より開国へと思想を転換、軍事力を蓄えもっぱら倒幕に力を注ぐようになる。

 六六年十二月、公武合体派の孝明天皇が崩御し、容保は窮地に立たされる。あとを継いだ幼い明治天皇は、長州とともに勢力を盛り返した公家たちに取り囲まれ、長州は倒幕へと考えを変えた薩摩と同盟を果たし、朝廷から倒幕の勅令を引き出した。

 十五代将軍徳川慶喜は先手を打って、六七年十月大政奉還を、同年十二月王政復古を行うが、慶喜に辞官と領地返納が命ぜられる。公武合体派はこれに反発。

 会津・桑名藩を中心とする旧幕府側は、薩長の挑発もあって、翌年一月三日、鳥羽・伏見へ進撃するが敗退した。江戸に進軍する西南軍に対し慶喜は恭順し、勝海舟・西郷隆盛の会見などにより、江戸城を無血開城した。


会津戦争終結の場となった会津若松城の天守閣

 一方、会津は西南軍の振り上げた拳の落しどころとなった。長州の恨みを買っていた容保は江戸城への登城禁止となり、さらに西南軍は奥羽諸藩に非情の会津征伐を命じたのである。

 東北人同士の戦いを避けたい諸藩は、会津を助けるべく同盟し、会津助命を訴えるが聞き容れられなかった。

 新政府の奥州鎮撫総督に対し、大総督府が、松平容保は死罪にせよとの秘密指令を与えていたからだ。鎮撫軍の世良修蔵下参謀らは会津の恭順、謝罪、歎願の申し入れをことごとくはねつけた。

 大山柏著『戊辰戦争史』によれば、この指令が出されたとき、穏健派の大参謀西郷隆盛が遠く名古屋に在るなど、大総督府に重鎮が軒並み不在だった。

 大総督府指令は、留守居役を務めていた林通顕下参謀の独断で出されていたのである。

 六八年四月、日頃の横暴な態度と、無理難題を迫る世良に激昂した仙台藩士らはついに世良を斬殺。この事件を機に、奥羽越列藩同盟軍と西南軍の激突となり、婦女子を含め一万人近い戦死者を野にさらす結果となった。

 もし、西郷がいれば、これほど無益な血を流さなくてもすんだかもしれない。事実、西郷はのち、薩摩藩邸を焼き打ちした庄内藩を寛大に扱った。敗者をなおも痛めつけるのは人の道に反するとし、むしろ新しい時代の同胞としようとする考えだったからだ。

 話題の『国家の品格』(藤原正彦著)には、弱い者いじめをしないというのが武士道であり、その意味で日中戦争は最も恥ずかしい卑怯なことだったとある。

 先祖が会津藩の兵士として参戦した作家の星亮一氏は、今日のような、依然として成熟していない国家としての品格を失った日本は、そのはしりが戊辰戦争だったとし、さらに大陸半島に対する非道のはしりもそこにあったと指摘する。

  ◇   ◆   ◇

 M・V・ブラントは公正でシリアルな目で見た維新史『ドイツ公使が見た明治維新』で「明治維新とは国家的事業というよりは、むしろ薩長土連合によるいわば、北軍に対する南軍の勝利としての諸藩の妥協の結果である」と結論している。

 両軍とも、朝廷を守護し、開国するという点では同じであった。戊辰戦争は、改めて明治維新の意味を、そして国家の品格を問い直すよい材料となるのではないか。

(市原幸彦) (サンデー掲載:2月4日)



by sakura4987 | 2007-02-08 16:10 | ★明治維新