2006年 08月 07日
【解答乱麻】品川女子学院校長・漆紫穂子 外交問題、日本語の乱れ等々、教育現場から世の中の動きを見ていると、次世代の日本を迷走させないため、日本人としてのアイデンティティーを確立する教育を行うことが急務と感じる。 明治期、押し寄せる西洋文化の中、内村鑑三はキリスト教を受容する一方、日本の長所を世界に知らせるため『代表的日本人』を著した。この「異文化を受容する柔軟性」と「日本人としての軸」の両方を伝えること、それが真の国際教育ではないか。 あるときこんな苦情を頂いた。「電車内で生徒に注意をしたら、『日本人っていやね、イギリスでは…』と友人にささやいているのが耳に入った。どういう教育しているのか」という内容だった。顔から火が出る思いだった。 10年以上前の話である。国際教育がブームで、多くの学校で国際科が設置され、校名まで○○国際と変更されるような時代だった。本校も将来の「国際人」を育てるべく、英語教育に力を入れ、海外研修を充実させ、それが軌道に乗ったころだった。「インターナショナル」の前に「ナショナル」のない教育ではだめだと強く感じた。 現在、私たちの学校では「日本を知る」を教育の1つの柱にし、茶道、華道など日本の伝統文化の授業を行っている。華道では素材と素材が生かし合う和の精神に触れ、茶道では所作に込められた思いやりの心を学んでいる。 6月に着付けの授業を行ったとき、「暑い暑い」と言う生徒たちに、80代の講師が「夏の着物は暑いもの。大切なのは周りの人があなたを見て涼しいと感じること。着物の約束事はすべて周りへの心遣いからできている」と教えると、教室がスーッと静かになった。 日本古来の衣食住を体験しようと、5月には田植え、7月には新潟県上越市で民泊を行った。都会暮らしの子供たちは、わらじを編みつつ、稲の茎一本無駄にしない昔の人の知恵に目を丸くしていた。 京都に光華女子学園という伝統文化教育で有名な学校があると聞き訪問した。そこの中学生の文章が心に残った。 「他国のことを理解する前に自国のことを理解し、そこから大きな世界へと視野を広げられたらどれだけすばらしいことだろうか。私もまず、この国を見つめ直し、この国の文化を自分のものにして、その上で広い視野を持った人になりたい」 帰り道、たまたま開いた本のページから「日本人」という小見出しが目に飛び込んできた。「平成」の元号の名付け親とされる安岡正篤の言葉だった。 要約すると、「ナショナリズムが排他的民族主義になるのはいけないが、ナショナリティは大事。これがないと世界性、国際性、宇宙性が出てこない。日本人は日本の個性がある。どこまでも日本人でなければ世界市民になれない」というものだった。 英語の前に日本語、異文化の前に日本文化。優先順位を見誤ってはいけない。人としての基礎を築く年代に、自分の生まれ育った国について深く学び、将来誇りを持って日本を語り、この国を支えていく。そんな人を育てたい。 ◇ 【プロフィル】漆紫穂子 うるし・しほこ 東京都内の私立中から父が理事長を務める品川女子学院中高に移り、国語教諭、副校長を経て4月から現職。文部科学省新教育システム開発プログラム委員。 2006年 08月 01日
【正論】京都大学教授・佐伯啓思 論理だからこそ教えるべきもの ≪押しつけか自然の感情か≫ 先の国会での教育基本法の改正問題は、結局、尻すぼみに終わったが、焦点であった「愛国心教育」の問題はいずれまた再燃するであろう。世論は、賛否相半ばといった様相に見えるが、この問題をどのように論じるのかは、それほど容易ではない。 賛成派は「国を愛する心を持つのは自然な感情だから、それを教育で教えるのも当然だ」と言う。一方、反対派の多くは「愛国心をもつのは当然だが、国が特定の価値や信条を国民に押し付けるのは間違っている」と言う。 しかし、どちらも説得力にかける。前者に対しては次のような疑問が出されよう。 まず、自分の国を愛する気持ちは、ただ「自然」で「自明」というわけではない。今日、日本人にとって自明の感情はといえば、むしろ利己心である。本当は「自然な感情」ではないからこそ教育の対象にもなりうるのであるし、もし「自然な感情」だから教育の対象となるのなら、利己心や戦闘本能さえ教育の対象になってしまう。 一方、反対派の論拠も説得力はない。たとえば反対派は、戦後憲法は平和主義や基本的人権といった理想的価値を高唱したものだ-と述べてきた。だが、それでは憲法は、国家が国民に一定の価値を押し付けたことになってしまうだろう。 現行の教育基本法も、憲法とアメリカの占領政策が打ち出した価値を国民に押し付けたものといわねばならない。 では、「愛国心」をどのような形で論議したらよいのだろうか。 反対派の議論は、それなりに思想史的な意味を含んで、一見、説得力がある。それは近代国家はあくまで個人の生命、財産の安全確保を目的とするのみで、価値や信条という個人の「内面」には関与すべきではないし、価値中立的であるべきだ-というリベラルな国家観である。 ≪曲解されたホッブズ思想≫ この中立的国家観を導き出した最初の思想家は、17世紀イギリスのホッブズだった。彼は、国家は人々の生命、財産の安全確保を目的として、人々の自発的な契約によって生み出された-と論じた。 ホッブズの契約とは、人々は他人を傷つける力の行使をすべて放棄し、それを主権者(国家)に譲り渡す-というものである。その結果、国家だけが絶対的な権力を手にし、人々の自由な活動の舞台である市民社会は国家によって安全と平和を確保され、人々は私的利益の追求にいそしむことができる。 ところが後年の政治思想家は、ここから次のような論理を導き出す。ホッブズの論理では国家は絶対的権力をもつので、たえず市民社会の自由を侵す可能性がでてくる。 そこで、国家権力から市民社会を守るために、人々の生命、財産のみならず、思想、信条、私的利益を守る必要がある。基本的人権思想もそこからでてくる。この論理を突き詰めると、国家権力と市民社会の自由はあくまで対立する-とみなされるのである。 政治思想の流れの中では、この種の考えが圧倒的に主流となってしまった。いうまでもなく、これは左翼の進歩的歴史観であり、この考えからすると、個人の信条にかかわる「愛国心」を国家権力が強制するのは自由の侵害だ-ということになる。しかし、これはホッブズの近代国家のロジックを意図的に狭く理解した結果である。 ≪国家と市民社会の相補性≫ ホッブズの議論の中心は、あくまで、市民社会の平和が担保され、人々の自由が保障されるには、国家への絶対的な権力の委譲という自発的な契約が不可欠だ-という点にあった。したがって、仮にホッブズの契約論をもって最初の近代的国家論(中立的でリベラルな国家観)だとするなら、人々の私的な自由が確保される前提としての国家への忠誠義務こそが注目されなければならない。 国家への一定の範囲での忠誠義務が自発的になされて、はじめて市民社会が成立するのである。つまり、ホッブズの論理は一方で、確かに国家と市民社会(個人の自由)の対立という面を持つと同時に、他方では国家と市民社会の相補性という構造を持っているのである。 私には、「愛国心」とは、この国家への根底的な自発的な忠誠義務を言い直したものと思われる。だが、それは決して自明で自然の感情ではない。むしろ、上のような近代国家の論理を踏まえて、ようやく理解できる「論理的なもの」ではなかろうか。しかしだからこそ、それは国家の意味とともに「教えられ」なければならないのである。(さえき けいし) 2006年 07月 17日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-07-15/2006071502_03_0.html 政府・与党が秋の臨時国会で教育基本法改悪法案の成立を狙うなか、民主党が審議再開に向けた動きを強めています。 十一日には党内に鳩山由紀夫幹事長を本部長とする「教育再生本部」を設置。「閉会中の九月下旬までが絶好の機会」(鳩山氏)と位置付け、先の通常国会で政府案とともに継続審議になった民主党案(日本国教育基本法案)をアピールする対話集会を全国各地で開催し、教育基本法改定の流れをつくりだそうとしています。 「それぞれの選挙区、都道府県で行動をおこしてほしい」。鳩山氏は十一日の教育再生本部総会で、衆参国会議員に対話集会を通じた民主党案の徹底を呼びかけました。民主党案についての解説パンフレットの作製・普及も指示する念の入れようです。 民主党案は政府案への「対案」という形をとっていますが、「あまり大きな違和感がない」(安倍晋三官房長官)と政府・与党側に受けとめられる内容です。右翼改憲団体の「日本会議」は、「与党案より良い」と評価しています。 前文で「日本を愛する心を涵養(かんよう)する」と明記。教育行政の条項で現行法一〇条にある「教育は、不当な支配に服することなく」の文言を削り、教育内容に対する国家的介入を無制限にしています。 また宗教教育については「宗教的感性の涵養」を盛り込むなど、政府案以上に踏み込んでいます。 「日本会議」は、政府案の「修正点」として(1)「愛国心」の明記(2)「宗教的情操」の涵養の明記(3)「不当な支配に服することなく」の削除――を求めており、民主党案はこの要望すべてを満たすものです。 先の通常国会で自民党は、政府案の「修正」も視野に入れ、自民、民主、公明三党による協議の場を設けるよう民主党に提案しましたが、民主党は拒否しました。 教育再生本部設置を契機にした今回の民主党の動きについて、同党関係者は「これまではただ政府案にぶつけていくという位置付けだったが、今度は民主党案の(内容の)実現そのものに流れが変わってきているのではないか」との見方を示しています。 民主党は全国各地で開く対話集会の先駆けとして二十四日に東京都内で「『教育再生』シンポジウム」を開く予定です。 2006年 07月 06日
「すべての教育法令の根本」(文部科学省)であり、「教育の憲法」とされる教育基本法。連合国軍総司令部(GHQ)占領下の昭和22年に施行されたが、新たな研究成果によって「マッカーサー憲法と同じように米国製だ」(西鋭夫・日大大学院教授)との見方が近年、強まっている。 さきの通常国会で継続審議となった政府の改正案をめぐる論議を含め、「詳説・戦後」第1回は、教育基本法を検証する。 ◆◇◆ ≪生い立ち…GHQ深く関与≫ ■「伝統を尊重」削除 教育基本法の制定に連合国軍総司令部(GHQ)が深く関与していたことが、近年の研究で明るみに出つつある。 「(教育基本法をつくった)教育刷新委員会も、民間情報教育局(CIE)の指導のもとで、お墨つきをもらいながら原案を書いていったという経過があることが次第に明らかになってきている。占領軍の影響下にあったことは、もう否めない事実だ」 5月30日の衆院教育基本法特別委員会。参考人として出席した中央教育審議会の鳥居泰彦会長はこう述べた。 特別委では、自民党だけでなく、民主党からも「屈辱的な歴史的背景」(大畠章宏氏)、「憲法と同じく一方的に押し付けられたもの」(牧義夫氏)といった指摘が相次いだ。 高橋史朗明星大教授がCIEのトレイナー教育課長補佐に行ったインタビューなどによると、CIEは日本側がつくった基本法原案を大幅に修正・削除していた。 大きな修正点は、(1)前文案にあった「伝統を尊重し」を削除(2)「宗教的情操の涵養」を削除(3)「女子教育」の条項を男女共学の積極的規定に修正-など。 GHQは昭和21年2月発令の「教科書検閲の基準」の中で、「愛国心につながる用語」を禁止しており、最初から「愛国心」を基本法に書き込める状況ではなかった。 教育刷新委員会は、CIE、文部省との3者でつくる連絡委員会「ステアリング・コミッティー(かじ取り委員会)」を通さなければ何も決められなかった。 「かじ取り委員会」の詳しい議事録は見つかっていなかったが、日本会議専任研究員の江崎道朗氏はこのほど、野間教育研究所(東京都文京区)に「教刷委連絡委員会記録(ステアリング・コミッティー)全1冊」という記録文書が残されているのを“発掘”した。 資料には、日本側が教育基本法案を国会に提出する準備をしていると報告したところ、CIEのトレイナー教育課長補佐が「教育基本法は今、われわれも一緒に検討中でいまだ確定していないと思うが」と疑義をはさむ場面が出てくる(22年1月23日付)。 また、日本側から基本法案の国会上程の報告を受けたオア教育課長が、「文部省のお骨折りに感謝する」と述べたことが記されている(同年3月13日付)。 このほか同文書には、オア教育課長が「大学法案に対する刷新委員会の意見は目下CIEで検討中である」と言い放つ場面もある(23年12月2日付)。教育刷新委の基本方針をCIEが決めていたことがうかがえる。 自民党の下村博文元文科政務官は5月、文科省に教育基本法制定へのGHQの関与について質問状を出したが、回答は「よく分からない」だけだったという。 ◇ 【用語解説】GHQ民間情報教育局(CIE) 連合国軍最高司令官の下に置かれ、新聞、ラジオ、映画などメディアを検閲した情報部、教育改革を担った教育部、宗教部などに分かれる。 日本人に戦争への贖罪(しょくざい)意識を植え付けるための宣伝計画「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」はCIEが主体となって実施した。 文部省が昭和56年にまとめた「学制百年史」には「CIEの助言・指導なくして教育関係法案はもちろん、実施の方法も決定できなかった」とある。 ◇ 【用語解説】教育刷新委員会 首相直轄で昭和21年8月に設置された教育改革に関する審議機関。南原繁・元東大総長らが委員長を務めた。教育基本法をはじめ義務教育「6・3制」など戦後教育の基本となった諸施策を検討した。 委員の多くは、同年3月にGHQの要請で来日した米国教育使節団を受け入れるため設置された「日本教育家の委員会」から選ばれ、CIEの強い影響下にあった。 ◆◇◆ ≪教育勅語…昭和23年6月失効≫ ■GHQ 自主的廃止を口頭命令 明治23年10月、明治天皇が日本人にとって大切な心がけ、必要な徳目として国民に示した教育勅語は、昭和23年6月に失効した。 つまり、教育基本法施行から約1年3カ月間は教育基本法と教育勅語は「補完並存関係にあった」(明星大の高橋史朗教授)。 教育基本法が徳育や家族の重要性にほとんど触れていないことから、「教育勅語があったために一種のバランスがとれていたと当時の人は考えた」(ジャーナリストの櫻井よしこ氏)との見方もある。 しかし、GHQは、教育勅語が軍国主義の復活に結びつくことを懸念。衆参両院の文教委員長に、自主的に教育勅語を廃止するよう「口頭命令」したとされる。 これを受け、衆参両院は、「新憲法の精神普及の妨げになる」などとして教育勅語失効に関する決議を採択した。 ◇ 【教育勅語】 朕惟(オモ)フニ 我ガ皇祖皇宗 國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ 徳ヲ樹(タ)ツルコト深厚ナリ 我ガ臣民 克(ヨ)ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ 世世厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルニハ 此レ我ガ國體(コクタイ)ノ精華ニシテ 教育ノ淵源 亦(マタ)實(ジツ)ニ此ニ存ス 爾(ナンジ)臣民 父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ 夫婦相和シ 朋友相信ジ 恭儉(キヨウケン)己レヲ持シ 博愛衆ニ及ボシ 學ヲ修メ 業ヲ習ヒ 以テ智能ヲ啓發シ 徳噐ヲ成就シ 進ンデ公益ヲ廣メ 世務ヲ開キ 常ニ國憲ヲ重ジ 國法ニ遵ヒ 一旦緩急アレバ 義勇公ニ奉ジ 以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スべシ 是ノ如キハ 獨リ朕ガ忠良ノ臣民タルノミナラズ 又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン 斯ノ道ハ 實ニ我ガ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶(トモ)ニ遵守スべキ所 之ヲ古今ニ通ジテ謬(アヤマ)ラズ 之ヲ中外ニ施シテ悖(モト)ラズ 朕 爾臣民ト倶ニ 拳拳服膺シテ咸(ミナ)其ノ徳ヲ一ニセンコトヲ庶(コイ)幾(ネガ)フ ◆◇◆ ≪どうなる…改正案不成立≫ ■首相 関心なく…臨時国会でも? 教育基本法改正は、自民党の文教関係議員の“悲願”だ。改正案は、自民、公明両党間の3年近く70回に及ぶ協議の末に生まれた。 改正案審議のためさきの国会で設置された特別委員会委員には、森喜朗元首相ら歴代文相経験者が顔をそろえた。だが、政府案が成立しなかったのはなぜか。 第一は、小泉純一郎首相の「関心の薄さ」(自民党幹部)といえる。首相は5年前の就任時には、将来を見据えて教育を重視する「コメ百俵の精神」を唱えた。 しかし、任期中に首相が陣頭指揮を執って取り組んだのは郵政民営化や道路公団民営化だった。 「もともと首相は、外交、安保、教育には興味がなかった。思想がかった話も嫌い」(公明党幹部)と語る与党幹部も多い。 首相は国会審議で、民主党案について「なかなかよくできている」「(政府案と)それほど大きな違いがあるとは思えない」と評価するなど、政府案を通そうという熱意は見えなかった。 また、首相が「引いた」背景の一つには、改正案審議をめぐって、創価学会を支持母体とする公明党と、他の宗教団体をバックにつけた民主党との駆け引きが激化したこともあるとされる。 与党協議をもとにした政府案は、公明党の要求を受け入れ、神社本庁、仏所護念会など長年自民党を支持してきた宗教団体の多くが求めていた「宗教的情操の涵養」を外している。 一方の民主党案は、宗教教育に関して伝統仏教の主要58宗派(全国寺院の約9割)で組織し、創価学会は加盟していない「全日本仏教会」が自民、民主両党に要望した改正試案に沿った内容。 自民党の保守系議員には民主党案の方が好ましいとみる者も少なくなく、今後、民主党との修正協議を求める声が高まる可能性もある。 このため政府・与党が、秋に予定される臨時国会で教育基本法改正案を成立させられるかどうかも流動的だ。防衛庁「省」昇格法案、国民投票法案など「ポスト小泉」政権に積み残された重要法案が多く、新首相の判断で、先送りされる可能性もある。 ─────────────────────────────────── ◆【詳説・戦後】第1回 教育基本法(2-2) (産経 06/7/5) ≪変わる…教育現場≫ ■道徳、正規教科へ 教育基本法改正をめぐっては、当初は与党からも「改正したからといって、教育現場の問題が解決するものではない」(公明党の神崎武法代表)などと効果を疑問視する声が出ていたが、実際には学校現場では大きな変化が起きることが予想される。 基本法が改正されれば、具体的な教育施策を方向付ける教育基本計画が整備され、日常の時間割の根拠となる学習指導要領も見直される。 まずは小中学校で、道徳の授業を正規の教科とすることが検討される。 小坂憲次文部科学相は5月31日の衆院教育基本法特別委員会で、「学習指導要領の改定論議の中で、重要な課題として検討を進めていきたい」と述べている。 現在、卒業式などでの国旗掲揚や国歌斉唱に批判的な教職員による妨害やサボタージュが後を絶たないが、「国を愛する態度を養う」ことが教育活動の目標として基本法に明記されることで、正常化に向かうことが期待される。 「国を愛する態度」を養うため、教科書に登場する歴史人物の人選にも影響しそうだ。 改正案では、家庭や地域の教育力を向上させるよう、新たに家庭教育が条文として書き込まれたほか、幼児教育の重要性も盛り込まれた。 現在では小学校に入学した児童が授業中に騒ぐ「小1問題」がクローズアップされている。就学前児童を対象にした幼児教育も盛り込むことで、子供の「しつけ」や「情操教育」の充実も期待される。 また、「宗教に関する一般的な教養」との一文が入ったことにより、宗教をタブー視しがちな公立校でも「教養としての宗教」を教えることができる可能性が高い。学校給食で「いただきます」とあいさつして手を合わせることが、「宗教的だ」と批判される場面も少なくなりそうだ。 ◆◇◆ ■世界は愛国心をどう教えるのか 日本の教育基本法に当たる法律で「愛国心」を規定している主な国には中国、タイ、ロシア、シンガポールなどがある。 「一番極端な例」(鳥居泰彦・中央教育審議会会長)とされるのが中国だ。愛国教育を推進した江沢民時代の1995年に制定した教育法は、次のようにうたっている。 「国家は教育を受けるものに対し、愛国主義、集団主義、社会主義の教育を実施し、理想、道徳、規律、法律、国防および民族団結の教育を実施しなければならない」 「教育活動は国家および社会の公共の利益に沿うものでなければならない」 「教育は中華民族の優秀な歴史的文化的伝統を継承、発展させ、人類文明が生んだすべての優れた成果を吸収しなければならない」 ロシアも1992年制定の連邦教育法で、初等中等教育の目標として「自然、祖国、家族に対する愛情の育成」を明記。この祖国(ロジーナ)には「郷里」の意味合いもある。愛国教育の一方、ソ連時代の社会主義的な思想教育は表向き消えている。 韓国、スウェーデン、フランス、スペイン、マレーシアなどでは、教育関係法に「愛国心」に関する記述はない。 また、米国、ドイツなどは連邦制をとっており、教育に関する法律は州の専管事項。日本の教育基本法に当たる法律はなく、州憲法などで個々に規定している。逆にオランダでは、最高法規の憲法で教育理念を定めている。 ◆◇◆ □元神奈川県教職員組合委員長・小林正氏 ■議連案がベスト 教育基本法改正論議で国民に示されている選択肢は、政府案、民主党案、超党派の議員連盟「教育基本法改正促進委員会」案の3つがある。個人的には、愛国心について「わが国と郷土を愛する態度を養う」とした政府案はあくまで“グッド”という位置づけだ。 「日本を愛する心を涵養」とする民主党案が“ベター”。「愛国心の涵養」や「宗教的情操の涵養」を明記した議連案が“ベスト”だといえる。 議連案を最も高く評価するのは「愛国心」を明快に示しているからだ。政府案は自民党が公明党に配慮したものだし、民主党案は「国を愛する」とせずに「日本を愛する」と回りくどい。どれも党内事情を反映していて、愛国心を素直に表現していない。 現行の教育基本法は個人の尊厳を前面に押し出しているだけで、あまりにもひどい。この3案をもとに秋の臨時国会で修正協議が行われ、より愛国心を明確にした改正案が成立することを望んでいる。(談) ◇ 【用語解説】教育基本法改正促進委員会 超党派の国会議員でつくる議員連盟で、委員長は国民新党の亀井郁夫参院議員。自民、民主両党を中心に約380人が参加している。3月には改正内容の方向付けを狙って、「愛国心の涵養」を明記した独自案をまとめた。 ◇ 【教育基本法をめぐる主な動き】 昭和 20年 9月 文部省が戦後の新しい教育の根本方針として「新日本建設ノ教育方針」を発表 10月 連合国軍総司令部(GHQ)が「日本教育制度ニ対スル管理政策」を指令 21年 3月 米国教育使節団が来日 8月 教育に関する重要事項を調査審議するため教育刷新委員会を設置 22年 3月 教育基本法施行 31年 2月 清瀬一郎文相が国会で「教育基本法は日本の伝統を維持し、立派な日本人をつくるに足りない。改正したい」と答弁 62年 8月 臨時教育審議会が「教育基本法の精神を教育土壌に根付かせ、21世紀に向け発展させ実践的に具体化する必要がある」と答申 平成 12年12月 小渕恵三首相の私的諮問機関、教育改革国民会議が教育基本法見直しの必要性を提言(提言時は森政権) 13年11月 遠山敦子文部科学相が教育基本法のあり方の取りまとめを中央教育審議会に諮問 15年 3月 中教審で愛国心や公共の精神の涵養の理念を盛り込んだ教育基本法改正を提言 5月 自民、公明、保守新の与党3党が「教育基本法に関する協議会」設置 16年 1月 与党協議会の名称を「教育基本法改正に関する協議会」に変更 18年 4月 与党協議会の検討を経て、政府が愛国心の表現として「国と郷土を愛する」を入れた教育基本法改正案を閣議決定、国会に提出 5月 民主党が対案、日本国教育基本法案提出 6月 教育基本法改正案が継続審議に ◇ 「詳説・戦後」は、戦後61年を経過しても解決しない問題や、GHQの占領政策に端を発する課題について詳しく検証していきます。 第1回は阿比留瑠比、比護義則、安藤慶太が担当しました。 2006年 06月 29日
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060628ic24.htm 「愛国心」の理念を盛り込んだ長崎県佐世保市の「子ども育成条例」が、28日開かれた市議会本会議で、自民、民主、公明党系の各会派の賛成多数で可決された。 文部科学省によると「他の自治体で同様の条例があるかどうかは把握していない」としている。 条例は17条で構成され、15歳未満の子ども育成に、地域などが果たすべき役割などを明記。 第3条の「子どもの育成の基本理念」では、「子どもが優しさやたくましさを身につけ、人を愛し、郷土や国を愛し、世界の平和を願い、自然を大切にする心、世界に通じる広い視野などを持てるよう、支援する」と愛国心を明確に規定している。 条例は、2004年6月に同市で起きた小6女児殺害事件などを受け、市が昨年12月議会で提案し、継続審議となっていた。市の当初案には「国を愛し」などの文言はなかったが、自民、民主、公明党系の各会派が共同提案した修正案で盛り込まれた。 2006年 06月 21日
基本法の改正論議に欠けるもの 評論家・作家・麗澤大学教授 松本健一 平成17年4月21日(木) 産経新聞 ≪見出せぬ公私のバランス≫ 教育基本法の改正が政治日程に上ってきた。「米百俵」のエピソードを首相一期目の施政方針に引用した小泉内閣であってみれば、市場原理主義に固執するだけの郵政民営化よりも、「米百俵」の本義である教育改革こそまず第一に目指すべきことだろう。 その意味でも、教育基本法の改正は手掛けて当然である。ただこれは、本来的には、憲法の改正と連動して論じられるべき問題である。 なぜなら、憲法は国のかたちを原理的、外形的に規定するものであり、教育基本法はその国を根底において支える人間のかたちを精神的、内面的に方向づけるものだからだ。現行の教育基本法がその前文において、わざわざ「われらは、さきに、日本国憲法を確定し…」と述べているのは、憲法と教育基本法が国家の外形と内面の“両輪”を形づくっている事実を物語っていよう。 では、敗戦直後の日本国憲法と連動してつくられた教育基本法のどこが一番問題なのか。それは、戦後教育の根幹が、この基本法の「個人の尊厳を重んじ…」という個所におかれたからである。この戦後的な理念には、二つの重大な問題点が含まれていた。 一つは、この「個人の尊厳」の文言は、戦前の教育の基本原理であった「国体の尊厳」に対する否定、もしくは対抗概念に過ぎなかった点である。二つは、そのことにも関係するが、「個人」とは日本語で抽象的な「一個の人間」という意味であり、実体としては「私の尊厳」である。つまり、「私の生命」や「私の権利」や「私の利益」を絶対的な価値として考える精神である。 そこに、「私の尊厳」を絶対的な理念として掲げた戦後教育の腐敗、すなわち道徳的頽廃も生じたのである。要するに、現行の教育基本法には、「私」と「公」とのバランスがどこにも感じられない。その結果、この改正にあたっては「愛国心」を謳(うた)い込まねばならない、という声高な主張も出てくるわけだ。 ≪愛国心より祖国愛の精神≫ 「私」とは、肱(ひじ)を「ム(わたくし)」状に張り、他人と「禾(か)」つまり収穫物を争って独り占めにする、という意味である。それゆえ、日本文化の中での「私」は、私心を抱くとか、私腹を肥やすとか、私利私欲に走るとか、私闘を演ずるとか、ほとんどマイナス・イメージで使われてきた。 そういった独り占め状態を外に、そうして社会に「八」つまり開いてゆくのが「公」という文字の意味であった。その「公」が、現行の教育基本法では家族にも社会にも国家にも介在されずに、一気に、「世界の平和と人類の福祉」に結びつけられてゆく。 それゆえ、教育基本法の改正では、その「私」の尊厳が「公」の尊重とのバランスを取り戻す必要があるだろう。現在の論議にあっては、義務的な学校教育において「愛国心」を教えるべきだ、という主張もなされているが、わたしの考えでは、「公」を一義的に国家としてしまったことが戦前の“滅私奉公”教育の最大の過ちであった。 かくして、わたしの考える教育基本法改正の方向は「愛国心」を謳うというナショナリズムの強化ではなく、むしろ「公」の回復を促すパトリオティズムの再構築である。パトリオティズムは、日本語とすれば郷土愛=祖国愛である。共産主義革命に絶望したエセーニンの詩にある「天国はいらない、ふるさとがほしい」の精神といってもいい。 ≪大切なのは先人を敬う心≫ 教育基本法の改正に際して、「国を愛する心」を一元化して謳い込むことに、わたしはあまり賛成できない。あえてするなら、郷土と祖国を二義的に含む「くに」を愛する心、とすべきだろう。学校教育の実際においては、その郷土=祖国を愛する心を、郷土=祖国の風土と歴史、そうしてそこでの先人たちを敬うことで培ってゆくことが大切なのではあるまいか。 学校教育における“奉仕”の義務化も、生徒一人びとりがどんなことを「公」への奉仕と考えるのか、それを思考させることが重要である。 現在では私企業に委託されている教室の掃除から、校庭の草むしり、通学路のゴミ拾い、海辺や河川の清掃、そうして地域の老人介護、あるいは国や社会の公的事業への参加から、国際的な奉仕活動まで、自分が「公」と考えて行ないたいことを提案させ、それを教師と生徒の合同の討議にまかせた上で、その「公」への奉仕をみずから義務づける。 そのことが、生徒一人びとりに「私」と「公」のバランス感覚を取り戻させるだろう、と思うのである。 ※なるほど。こう言われてみると、確かにそうかもしれない。無批判に、「愛国心」を教育基本法に取り入れるべきだと思い込んでいたが、公の心についてはほとんど考えてこなかった。 確かに「愛国心」は大事だが、その前に、「他人を愛する心」の醸成が必要だ。国を愛するまでの段階には、まず男女の愛があり、家族への愛という生物学的に当然の愛がある。 次に、「隣人への愛」という、同僚に対する愛であり、友人に対する愛がある。これは隣り近所に対する愛であり、いろんな接する人への愛である。「接する愛」といっても良いかもしれない。 その上に「社会に対する愛」があるだろう。社会の一員として活躍しながら、社会に対して奉仕するという愛である。これがいわゆる、「奉仕」という事になり、「愛国心」もこの中に入る事になるだろう。 この「社会への愛」-「愛国心」にも発展段階があり、「郷土を愛する心」から始まって、空間的に徐々に広がっていく事になる。こう考えてくると、いきなり「愛国心」と言うよりも、その前段階も非常に大事になってくるのだが、現状では、「家族への愛」がすでに風化しつつあるのであり、まずは、足元から固める必要も大事になってくる。 それをひっくるめて、上記では『「くに」を愛する心』という表現になったのだろうと思うが、なかなか難しい問題だ。 教育基本法にしても、憲法にしても、専門家を招いての勉強会を通して、現在国会で議論されたりしているが、果たしてそれでいいのだろうかと常々思っていた。今の国会議員にそれだけの資質があるとはとても思えないのだ。 明治の様に、徹底的に考える一部の専門家に任せたほうが、どれだけ良い者が出来るか、比べ物にならないだろう。 さて、上記の記事に対する私の結論だが、私は、『「利自即利他」の精神を養う』とするのが良いのではないかと思う。仏教の用語でもあるし、自分も他人も喜ぶ心を養っていく事が大事だと思う。 滅私奉公でもなく、また、自分のみ良かれという心でもない、自分も他人も生かす道を選んでいくという、中道の精神を教えるべきだろうと思っている。 加えて、究極の愛である、「神仏への愛」も教えるべきだと思っている。これなくしては、本来、愛というものは成り立たないのである。 2006年 06月 21日
明星大教授・高橋史朗 平成16年3月1日(月) 産経新聞 改正が求められている教育基本法。中でも「伝統の尊重」は重視されなければならない。 終戦後、日本側が作成した教育基本法の前文案には「普遍的にしてしかも個性豊かな、伝統を尊重してしかも創造的な文化をめざす」と書かれていたが、連合国軍総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CI&E)教育課の圧力によって「伝統を尊重して」の字句が一方的に削除された。 ところが、北海道教育大学の古野博明教授は共著「ちょっと待ったぁ!教育基本法『改正』」(子どもと教科書全国ネット21編、学習の友社、平成15年)において、「CI&E教育課の示唆ないし指導があった可能性」などという表現でGHQの明白な介入があった事実をあいまいにしようとしている。 日教組のシンクタンクである国民教育文化総合研究所が作成・発行した冊子「教育基本法を『生かし活かす』ために」も、「教育基本法擁護論への『改正』論者による誤った批判」と題して、5ページにわたって筆者の論文を批判し、「伝統を尊重して」という字句は当時の教育刷新委員会で羽渓了諦(第一特別委員会主査)が突如追加したものだと主張している。 いずれの論文も影響力が極めて大きいので、明確に反論しておきたい。 前文案の字句の削除については当時、文部省調査局審議課長としてトレイナー教育課長補佐と交渉した西村巌氏が「大臣がもう一度司令部へ行ってこいということで、大急ぎで司令部へ行って、その話をしましたけれどね、やはり駄目でした」とあちこちで証言している。 筆者は西村氏とトレイナー氏(アメリカの大学の研究室を訪問)に直接インタビューし、両人ともこの事実を明確に証言した。 同字句の削除を命じたトレイナー氏によれば、当時の通訳が「伝統を尊重するということは、再び封建的な世の中に戻ることを意味する」と述べたからだ、と理由を説明した。当時の通訳自身も戦前の日本への反発からこのように述べたことを認めている。 この3人の証言により「CI&E教育課の示唆ないし指導があった」ことは疑う余地のない明白な事実と断定できる。 「伝統の尊重」については教育刷新委員会の総会において羽渓のみならず木下一雄、渡部銕蔵など複数の委員がしばしば提起していた。こうした戦前の反省に立って継承されるべき「伝統」についての論議が教育刷新委員会で行われた結果を踏まえて、田中耕太郎文相(当時)が「秩序と伝統を重んずるものでなければならない」という前文案を提示し、「伝統を尊重して」と明記されたのであり、羽渓の独断専行で無理やり追加したものではない。 「伝統を尊重して」の字句の削除は「国民教育」すなわち、日本人のアイデンティティーを育てるという視点の欠落をもたらしたという意味で、決して軽視できない。これが教育基本法の教育理念の根本的欠陥である。近代国民国家で「国民教育」を教育理念としない国はない。わが国の教育基本法が「無国籍」で蒸留水のようだと揶揄(やゆ)されるゆえんである。 ※教育基本法の改正が話題になっていたが、最近はどうも立ち消えた感がある。それもこれも公明党さんの意向なのだろうが、ここまで教育の混迷が国民の間で話題になり、「教育の建て直ししかない」という声が大きいにもかかわらず、なかなか前進しない。 考えてみれば、そもそも自民党が単独政権の時に、なぜやらなかったのか不思議で仕方がない。当時の総理大臣はいったい何をやっていたのだろうか。今頃になって後悔しても始まらないのだ。 結局、政治が井の中の蛙で、その中での抗争や駆け引きに明け暮れていて、国の根幹が腐ってきている事に気が付かなかったのか、日教組がうるさいので、猫の首に鈴をつける役目の総理大臣が出現しなかったのだろう。 しかし、それにしてもこの戦後60年という期間は長すぎる。その間に先生の質は落ち、親の教育力も落ち、取り返しが付かないのではないかと、非常に危惧している。教育基本法が変わったとしても、果たして、土俵の中央にまで寄り戻せるのかと、考え込んでしまう。 本音を言うと、非常に厳しい状態だし、ひょうっとすると土俵を割っているのかもしれない。それでも教育の再生を目指さなければ、この国の将来はないだろうし、日本人全体の再生もないだろう。 戦後60年で失ったもの、置き忘れてきたものは、あまりに大きすぎる。これを蘇らせるには、尋常な方法では無理だろうし、並大抵の事ではないだろう。明治維新に匹敵するような大改革でもない限り、このまま海の藻屑となっていくのかもしれない。 昨日、知り合いの地方議員と話したが、一地方の改革などでは、とても間に合わないと言って、意気投合?したが、それほど切迫した状況であるにもかかわらず、政治は動こうとしない。残る希望は、今、インターネットを一生懸命やっている「心が青春のまま」の老若男女だけだと思っている。 それにしても、戦後60年は、・・・・・長すぎた。 このままで、いいのか日本!!! 2006年 06月 21日
「日本会議」が共産の障害/基本法改正論議で参考に 世界日報 教育基本法改正案を提出する動きが強まっているが、日本共産党はそれに一貫して反対している。志位和夫委員長は「多くの国民がいま、心を痛めている今日の教育をめぐる諸問題は、教育基本法に問題があるのではなく、その民主的理念を実行してこなかった、歴代自民党の教育行政にこそ責任があります」(昨年八月の二中総)とし、教育の危機を打開する対話と運動を国民の間に広げる方針を明らかにした。 その運動の中で、とりわけ彼らにとって“障害”となっているのが、かつての「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が統合した「日本会議」による国民的運動のようだ。 機関誌「前衛」(一月号)は、「特集・許すな!教育基本法改悪」の中で、「イギリスの『教育改革』のモノマネ日本会議」との見出しで、「イギリスのサッチャー教育改革とそれに次ぐブレア教育改革に『学べ』」とする「日本会議」の運動を批判している。 同誌によると、サッチャー首相(一九八八年当時)が「強引」に制定した教育改革法は、 ①これまでの教育内容を教師の自由裁量に任せていたものを、国が全国共通カリキュラムとその到達目標をさだめ、 ②義務教育期間を四期に分け、七歳、十一歳、十四歳、十六歳の生徒に対して全国一斉学力試験を行い、その結果を公表し、 ③すべての公立学校は宗教教育を提供し、生徒は毎日キリスト教を主とする集団礼拝に参加する。 ④親の学校選択の自由を拡大し、希望者の多い学校は収容能力の限度まで生徒を入学させる――などというもの。 これに対して同誌は、「徹底した国の管理に基づく教育統制」とそれによる「競争教育と学校の選別と淘汰の政策」であると非難している。 また、同誌は、「日本会議」発行のブックレットに「教育改革法という法律による一種の『教育革命』が断行されたことによって歴史教科書が変わり、家庭が変わり、青少年の意識が変わり、国民意識が変わり、労働党も大きく変わった」ことを成果として記されており、「日本会議」がこれを日本の教育基本法改正運動にも取り入れようとしていることを批判している。 だが、同ブックレットによると、「宗教教育が充実する中、イギリスでは、少年犯罪者数が一九七七年(昭和五十二年)当時二十万人を超えていたのが、二〇〇二年(平成十四年)には半減し、約十万人になっています」というのだ。明らかに成果が出ている。 学校間競争を一気に激化させ退学者を多く出すのは問題だが、学力低下が著しい今日、国際競争力を低下させないためにも学力レベルの向上策は当然必要だ。同時に、国家の責任において偏向教育を是正できる体制の確立や、宗教教育導入による規範教育、愛国心涵養教育、そして、親の責任としての家庭での教育力強化なども早急に求められる。 そのためにも教育基本法の改正が必要なのだ。 サッチャー登場時のイギリスは、労働組合の専横と長期にわたる経済不振や教育レベルの低下で国民の誇りは失われていた。自虐歴史教育や反キリスト教教育なども盛んに行われ、イギリス病が深刻化していた。それをサッチャー元首相は立て直したのだ。イギリスでの一連の教育改革とともに、米国公立学校での愛国心教育なども大いに参考にして、教育基本法改正論議を深めてもらいたい。 ※マスコミは今国会の教育基本法改正を自民党は見送ったと報道しているが、「日本会議」からの情報では、自民党内でその様なことを確認した事はないということだが、いったいどちらが正しいのか。 公明党の神崎代表は一月四日の新春幹部会で愛国心を盛り込むかどうかについて「狭小な議論」と指摘し、「教育基本法を改正したからといって、教育現場の問題が解決するものではない」と言い切ったし、二十五日の衆院代表質問でも「国家や社会のための教育という発想に立ってはならない」と明言した。 それに続く「国家主義的、全体主義的、戦前への復古主義的な考えを盛り込むことは断固反対」という強い主張は、二大政党化の流れの中で存在感を失った共産、社民のフレーズのようにも聞こえたが、教育のあり方をいかに位置付けるかという事を自民党に突き付けたとも言える。 一方の小泉首相は、施政方針演説で郵政民営化に二ページ近くを割きながら、教育基本法改正については「国民的議論を踏まえ、積極的に取り組んでいく」と一行触れただけだった。 ついこの前の党大会で「教育国家の再興」を決意し、「改正を本年こそ実現することを誓わなければならない」(平成十七年運動方針)とうたい上げたばかりだが、あっさり白旗を掲げるようでは、教育に劣らない保守の崩壊である。 結党五十年にあたり「立党の原点に立ち返る」(小泉首相)という自民党にとって、教育を含めて連立パートナーとの価値観の開きはあまりにも大きいのではないか。 そもそも、よりによって公明党と組まなければならないという事に、現在の政治の悲劇があるが、これを解決するには民主党の中にいる保守派との大合同しか、今の政治は救えないのだろうが、その様な革命的な事はほとんど希望が持てないように映るし、自民党が単独過半数を維持していた時になぜやらなかったのか、今さらながら当時の議員は忸怩たる思いだろう。 自民党の一部を除いて、どいつもこいつも、我が国が良くなる事が嫌で嫌でたまらない政党が政治をやっているのだから、良くなるはずもないが、人間の心の中で一番醜い心は「人の不幸を見て喜ぶ心だ」そうだ。「社会のための教育」もやってはならないという政党は、自分さえ良ければそれでよしとする、悪魔の心を持った政党だと言い切っていい。 なお、教育基本法改正についての自民党幹部への要望先を、以下に示しておく。 ・自民党へ物申す http://www.jimin.jp/jimin/main/mono.html ・武部 幹事長 http://www.takebe.ne.jp/ ・与謝野 政調会長 http://www.yosano.gr.jp/ ・久間 総務会長 http://www.f-kyuma.com/ 2006年 06月 21日
武蔵野大学教授、杉原誠四郎氏に聞く 世界日報 宗教的情操の涵養は不可欠 政教分離解釈は「違憲」/友好的でなく社会主義的 教育の目的は人格完成/宗教的無知を形成する学校 「心の教育」の必要性が叫ばれながら、歴史的に心の問題を扱ってきた宗教に関する教育には政府も学校も消極的だ。その原因はどこにあるのか。戦前からの宗教教育、また日本の宗教文化に詳しい杉原誠四郎・武蔵野大学教授に聞いた。 ――教育基本法の改正では「宗教的情操の涵養」を入れるかどうかが論点の一つだ。 宗教教育に関する議論は非常に浅薄で、例えば「憲法の上では宗教を信じない自由もある」という論があるが、宗教を知る立場からは、まともに取り上げるような論ではない。「宗教を信じない」とは「特定の宗派宗教を信じない」の意味で、人間は宗教的ではないという意味が含まれているわけではない。にもかかわらず、あたかも宗教にすがるのは駄目な人間だとでもいうような意味合いで、低次元の議論をしている。 「宗教的情操の涵養」が最初にうたわれたのは昭和十年の文部省次官通牒(つうちょう)で、明治以来の宗教を軽視する教育への反省が込められていた。この前後、キリスト教の影響で、日本の仏教学者が仏教教育論を展開し、寺で日曜学校を開くなどしている。当時はマルクス主義に対する警戒感が強く、戦争に備えた思想善導の意味もあったが、マルクス主義の虚構性、危険性が歴史的に実証された今から言うと、その警戒感は正しかったことになる。 戦後は戦前の教育を反省し、宗教教育を充実させる方向に転換した。昭和二十年の文部省訓令で明治三十二年の訓令を撤回し、私立学校においては宗派的宗教教育を行ってもよいとした。これは米国から見ても妥当で、占領軍も容認・支援し、米国並みの宗教教育重視の学習指導要領を昭和二十二年に作成させた。 ところが、昭和二十年に神道を学校から排除するいわゆる神道指令が出された。それが占領解除後も拡大解釈され、宗教教育を重んじるという教育の普遍性が後退してしまった。 ――憲法は宗教重視なのか。 神道指令の影響を受け、憲法で厳しい政教分離を規定しているが、基本的には民主主義憲法なので、政治と宗教は友好的な分離であると解釈すべきだ。社会主義国でも教会を壊すなど直接宗教を弾圧したのはアルバニアだけで、そのほかの国は政教分離を厳しくしたにすぎない。日本の政教分離規定は友好的分離が前提なので、社会主義的な解釈はむしろ憲法違反になる。しかし、宗教を知らない法学者、法的な発言の仕方を知らない宗教者のせいで、政教分離の厳しい解釈を当然視している。 ――戦前は国家神道による宗教教育が行われていたのか。 神道は祭祀(さいし)であって宗教ではないという論理で、公教育の中で神社参拝を強制するなどはあった。神道は創始者がおらず、教典がないなど、宗教ではないという論拠は一応はある。戦後は祭祀も宗教とし、祭祀の行事への参列は個人の自由となった。 しかし、祭祀と宗教一般を全く同一視すると、社会的な不自然をもたらすことにもなる。例えば、祭りが公道を使うのも厳密には憲法違反だ。やはり祭祀と宗教は違うとしないと、憲法を中心に宗教と社会、国家が協調関係を保てない。 政教分離は個人の信仰の自由を守るのが目的なので、国家と宗教が一致していた状況での条文は、「分けなさい」となる。しかし、それを過度に強化すると、宗教は教会の中だけという社会主義的な政教分離になる。人の心は祭祀を介しても宗教的に豊かになっていくから、祭祀も健全に存続する余地を残しておかないといけない。 ――今の規定でも宗教教育は可能なのか。 宗教教育を否定する意図はないので、今の条文でも十分に成り立つ。憲法に「宗教教育をしてはならない」と書いてあるのは、特定の宗派宗教の信仰を公立校で強制するような宗教教育をしてはならないとの意味だ。 「心の教育」が叫ばれているが、心の究極は宗教的な問題である。人が生きる意味は自然科学では分からず、それを問うことが既に宗教心だ。そうした要素を抜きに教育しようとしたら、教育として成り立たない。 ――日本の宗教文化の特徴は。 日本人は特定の宗派に強くのめり込まないで、複数の宗教を並行的に信仰する。飛鳥時代に日本に伝来した仏教は神道の基盤の上に広がったため、神道と仏教が併存する形になった。どちらも国民を独占的に支配することはできず、宗教として過激性を弱めた。大陸から海を隔てている日本には、取捨選択する余裕があった。当時、仏教は儒教や道教とともに入ったが、日本人が一番感動したのは仏教で、空海も仏教が一番いいと言っている。道教は採用せず、儒教はむしろ道徳的な意味合いで入れた。天皇という神道の祭司が仏教を入れたのは、世界の宗教の常識からすれば稀有(けう)なことだ。 ――鎌倉仏教は世俗の倫理として説かれ、それによって庶民化する。その上で、江戸時代には鈴木正三、石田梅岩らによって庶民の倫理として広がる。 教育基本法は、教育の目的を「人格の完成」においている。カントも人格を重視しているが、教育目的として「人格の完成」を言いだしのは戦前の日本の教育学だ。江戸時代に、儒教を基に「人間の完成」という観念が作られた。そこに明治以後、人格という概念が入り、「人格の完成」が人間の完成を意味するようになった。ヨーロッパの教育学に教育の目的を「人格の完成」におく伝統はない。「人格の完成」は宗教から生まれたものなので、その意味からも、教育基本法は、当然、宗教的情操をうたわなければならない。 ――宗教教育をするにしても教える人がいない、テキストがないという反論がある。 日本には宗教戦争の歴史がほとんどなかったので、日本人には宗教を自覚的に表現する訓練ができていない。それは確かに弱点だが、だから宗教を教えられないというのはすり替えだ。 今の状況は、例えば国語の教材の中から宗教関係の記事は全くなくなっている。法然は小さい時に父親を殺されている。その父は法然に、おまえは絶対に仇(あだ)を討ってはいけない、仇を討てばその子がおまえと同じ思いをするからと諭す。その教えを守って法然は比叡山に登り、修行した。 それは今の平和思想からも感動的な話で、国語の教材に入れるのにふさわしい。父親の広い気持ちは宗教から来ており、宗教は人の一生を決めるほどの力を持っていることを伝えることができる。別に浄土宗を広めるという意図ではない。 次の学年では曹洞宗の道元の話をすればいい。道元は中国の寺で台所の料理をしている人に、料理も優れた修行であることを教えられた。そして次の学年ではイエス・キリストの話を書けばいい。音楽の時間にはいくつかの宗教音楽を聴かせて、音楽の発達の歴史を教えればよい。音楽や美術は歴史的に宗教を土台に発達してきた。 ところが現在の中学校学習指導要領には、戦国時代にヨーロッパからキリスト教の宣教師が日本に来るが、その歴史の授業でヨーロッパの宗教戦争については教えないようにとわざわざ書いてある。特定の宗教にかかわると政教分離に反するという考えからだ。 これでは、生徒がキリスト教の原理に触れるせっかくのチャンスを摘むことになる。カトリックとプロテスタントがどのように対立し、カトリックが地球を半周してまで宣教した動機がどこから出てきたのか、それを歴史の事実として教えただけでも、キリスト教の理解が深まる。結局、現在の学校では宗教的無知を意図的に形成していることになる。そういうレベルで見ると、宗教を教える人がいないという次元の問題では全くない。 宗教を軽視して人の心の問題を解決することはできない。宗教を無視して教育は成り立たない。河村建夫前文科相も二〇〇四年八月三日、日本記者クラブでの講演で、「命の大切さは宗教観から生まれる。宗教観をどう育成するかが重要だ」と述べ、宗教教育の在り方を見直す必要性を強調したが、これは大変よいことである。 ――宗教者は声を上げるべきか。 ところが多くの僧侶は世襲宗教者なので社会の問題に敏感でない。そして知識人一般の宗教的無知、宗教軽視は自覚的な信仰の歴史がないからだ。そうした大らかな雰囲気の日本の宗教土壌の良さも十分に理解した上で、社会的、国家的に宗教はどうあるべきかを真剣に考えないといけない。 ※この宗教については言いたいことは山ほどある。その一つに、日本の宗教界の堕落がある。戒名に値段をつけよと誰が言ったのか。きんきらきんの衣装をまとえと誰が教えたのか。僧侶の目的は一体何なのか。ふざけるのもいい加減にしろとまずは言いたい。 さて、「心の教育」という言葉はあるが、心の概念も、心の健康の概念も曖昧なままで、心の教育ができるはずがない。テレビにも良く出る医学者で養老孟司という人がいるが、彼などは、心は脳の中にあって、死んだら何もかも終わりと公言しており、それをまたマスコミは垂れ流しているが、これこそ、大誤報というものだろう。この場合は、死んでから後に謝罪ということになるが、この謝罪はきついことになる。 この原因は、何も疑おうともせず、長年にわたって培われてきた唯物論的思考癖があって、心というものも唯物論的に考えるのが正しい考え方であり、そうでない考え方をうさんくさいものと見る癖が、いつまでも抜けきらないからである。 しかし今、明らかに、しかも恐ろしい形でそのツケが回ってきたと言うべきである。近年の様々な事件を見ると、人間に対する尊敬の念などあったものではないし、礼儀というものもほとんどなくなりかけている。 「愛」であるとか、「礼節」であるとか、「謙虚」であるとかいうものは、唯物論からは絶対出てこないのである。その根源に尊きものを認めるからこそ出てくる徳目なのだ。政治家も教師も学者も、そして左翼もマスコミも時には沈黙の時間を持って、熟慮してみるといい。自分の愚かさに気づく時間をとるといい。 「言論の自由」ということも根源を考えれば、「信仰の自由」から出てきたもので、信仰ある人に許された自由であって、何でもかんでも言いたい放題に言うことが「言論の自由」などというのはもっての外なのだ。 信仰にはなじめない人もいようが、それならせめて、大宇宙の神秘に思いをいたし、大自然に、太陽に地球にそして先祖に感謝して手を合わせるくらの心境は維持したいものである。明治の頃までは、朝になるとあちらこちらから、鉄砲を打っているのかと勘違いするほど、拍手の音が鳴り響いていたそうだ。 先日、小泉八雲の「神国日本」を購入しようと思い、書店で注文したが絶版になっていた。無念としか言いようがなかったが、ここに我が国の現状をまた見ることが出来る。大事な大事なものを捨て去って来ているのだ。現状では、外に期待する事はほとんど絶望的なので、せめて内なる価値観を各人が高めることが大事だと思う。 2006年 06月 21日
平成17年1月13日(木) 読売新聞 政府が、21日召集の通常国会への提出を目指している教育基本法改正案の原案が12日、明らかになった。 小中一貫教育など義務教育年限の弾力化を進めるため、現行法にある「9年」の年限を削除することや、深刻化する子供の学力低下、若者の無業者(ニート)増加を踏まえた規定を新設することが特徴だ。「学校教育」では、「規律を守り、真摯(しんし)に学習する態度を重視する」との表現を盛り込み、学力低下に歯止めをかけることを目指す。 焦点の愛国心については、教育の目標として「伝統文化を尊重し、郷土と国を愛する態度を養う」と明記する。 政府は1月末までに各条文の表現などを最終調整し、自民、公明両党の実務者で構成する「与党教育基本法改正協議会」(座長=保利耕輔・元文相)に提示する。 改正案の政府原案は現行法の11条に、「生涯学習社会への寄与」「家庭・学校・地域の連携協力」「家庭教育」「幼児教育」「大学教育」「私立学校教育の振興」「教員」「教育振興基本計画」の8条文を追加。現行法の「男女共学」の条文は「教育の目標」に包括し、計18条で構成する。 「教育の目標」では、「公共の精神の重視」も明記する。義務教育年限は基本法から削除し、学校教育法で義務教育のあり方を新たに定めることにする。将来の改正を容易にして「六・三制」の弾力化論議を加速する狙いがある。中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)で、「小学校5年、中学校4年」なども認め、区分を柔軟にする検討を進めていることなどを踏まえたものだ。政府は、幼児教育の義務教育化なども将来の検討課題とする考えだ。 「学校教育」に関する「真摯に学習する」などの表現については、2003年の中教審答申では、「子供に義務を課すことはできない」として見送られたが、日本の子供の学力低下が深刻になっていることなどを考慮し、明記することにした。 また、若者の無業者「ニート」の急増を踏まえ、「教育の目標」に、将来の生活設計を考える教育を行う文言も盛り込む。学校現場で就業体験学習などを促進させる狙いがある。 新設の「家庭教育」では、「親は、子の健全な育成に努める」と子供のしつけの重要性を強調。私立学校については、現行の私学助成制度の法的裏付けとなるよう、「国・地方公共団体は振興に努める」と明文化する。 「愛国心」の扱いをめぐっては、公明党が「国を大切にする」との表現を求め、「国を愛する」を主張する自民党と調整が続いている。政府は、現在の小学生の学習指導要領に「国を愛する心情を育てる」と明記されていることなどから、「愛する」が望ましいと判断している。 宗教教育については、「宗教に関する寛容の態度」を尊重するとした現行規定を踏襲する。 ◆教育基本法改正案原案の要旨 第1条(教育の目的)教育は、人格の完成を目指し、心身共に健康な国民の育成を目的とする。 第2条(教育の目標)教育は以下を目標として行われる。▽真理の探究、豊かな情操と道徳心のかん養、健全な身体の育成▽一人一人の能力の伸長、創造性、自主性と自律性のかん養▽正義と責任、自他・男女の敬愛と協力、公共の精神を重視し、主体的に社会の形成に参画する態度のかん養▽勤労を重んじる▽生命を尊び、自然に親しみ、環境を保全し、良き習慣を身につける▽伝統文化を尊重し、郷土と国を愛し、国際社会の平和と発展に寄与する態度のかん養。 第3条(教育の機会均等)国民は、能力に応じた教育を受ける機会を与えられ、人種、信条、性別等によって差別されない。 第4条(生涯学習社会への寄与)教育は、学問の自由を尊重し、生涯学習社会の実現を期す。 第5条(家庭・学校・地域の連携協力)教育は、家庭、学校、地域等の連携協力のもとに行われる。 第6条(家庭教育)家庭は子育てに第一義的な責任を有するものであり、親は子の健全な育成に努める。国・地方公共団体は家庭教育の支援に努める。 第7条(幼児教育)幼児教育の重要性にかんがみ、国・地方公共団体はその振興に努める。 第八条(学校教育)学校は、国・地方公共団体及び法律に定める法人が設置できる。規律を守り、真摯(しんし)に学習する態度を重視する。 第9条(義務教育)国民は子に、別に法律に定める期間、教育を受けさせる義務を負う。国公立の義務教育諸学校の授業料は無償とする。 第10条(大学教育)大学は高等教育・学術研究の中心として、教養の修得、専門の学芸の教授研究、専門的職業に必要な学識と能力を培うよう努める。 第11条(私立学校教育の振興)私立学校は、建学の精神に基づいて教育を行い、国・地方公共団体はその振興に努める。 第12条(教員)教員は、自己の崇高な使命を自覚し、研究と修養に励む。教員の身分は尊重され、待遇の適正と養成・研修の充実が図られる。 第13条(社会教育)国・地方公共団体は、学習機会の提供等により振興に努める。 第14条(政治教育)政治に関する知識など良識ある公民としての教養は、教育上尊重される。学校は、党派的政治教育、政治的活動をしてはならない。 第15条(宗教教育)宗教に関する寛容の態度と一般的な教養ならびに宗教の社会生活における地位は、教育上尊重される。国公立の学校は、特定の宗教のための宗教教育、宗教的活動をしてはならない。 第16条(教育行政)国は、教育の機会均等と水準の維持向上のための施策の策定と、実施の責務を有する。地方公共団体は、適当な機関を組織し、区域内の教育に関する施策の策定と実施の責務を有する。 第17条(教育振興基本計画)政府は、教育の振興に関する基本的計画を定める。 第18条(補則)この法律に掲げる諸事項を実施するため、適当な法令が制定される。 ※全体を眺めてみると、現行より良い様に見える。詳しくは今後専門家が検討するだろうが、非常に残念なのは、やはり何と言っても第15条だろう。 宗教教育の実践についての言葉が何もない。今回の教育基本法改正の重点は、「国民」という事の自覚が目的なのだろうから、これには触れなかったのだろうが、わが国においてはいったん決まったものは簡単に変えないという習性がある事を考えれば、もう一歩踏み込んでもらわなければ困る。 第15条は現行法とは、ほとんど同じである。教育基本法改正の目的は、「愛国心の涵養」と「宗教的情操の涵養」にあるはずだ。「愛国心の涵養」を今回入れるので、宗教の方はまた後日にしようという妥協案のように感じるが、いかにも現代の政治らしいやり方である。 教育の現場から宗教を排除することは正しいのだろうか。宗教の本当の意味を考えたならば、「宗教は教育から排除できるものではない」ということが分かるはずだ。そもそも、宗教がなければ、哲学や思想は根なし草になってしまう。 教育とは、真理獲得を目指すための方法であり、学校で教育を行なうのは、子供たちに真理を教えるためなのだ。つまり、嘘を教えてはならないし、正しい生き方を教えなければならない義務があるのだ。真理の核の部分には「宗教的真理」があり、真理から核の部分である宗教的真理を排除したならば、唯物論的なもの、要するに抜け殻、外側の部分だけしか残らない。 たとえば、「教育においては宗教的教育を大切にしなければならない。」という文言が入るだけで、ずいぶんと違ってくるのではないだろうか。憲法改正同様、「国及びその機関は、宗教を奨励し、宗教教育、宗教活動の大切さを国民に教えなくてはならない」と宣言すべきだと思う。 「愛国心の涵養」が入るとなると、歴史教科書の問題が少しは変わるのかもしれないので、これはありがたいことだと思うが、肝心の道徳についての「宗教的情操の涵養」が入らず、このままだと合格とはいえないと思う。加えて、第12条では「教員の身分保障」も入れているが、各地にいる日教組を始めとする「とんでもない教師」を放置することにもなり、これもまだまだ甘いといわざるを得ない。 その他にも、どうも厳しさがなくつめが甘い文章が多いように思う。あちらにもこちらにも良い顔をしたいという現われだろう。今の教育界を立て直すには、中央集権的な厳しい教育行政でなければならず、その意気込みが感じられないのは私だけだろうか。 < 前のページ次のページ >
|
アバウト
検索
カテゴリ
■マスコミ全般
■マスコミ(NHK) ■マスコミ(朝日新聞) ■大東亜戦争・東京裁判関連 ■南京大虐殺について ■領土(尖閣・竹島・北方等) ■人権・同和・子供の権利 ■介護・年金・少子・高齢問題 ■公明党・創価学会 ■北朝鮮関連・拉致など ■国旗・国歌・愛国心 ■夫婦別性問題 ■教育(教育基本法・愛国心) ■教育(ゆとり・学力低下) ■教育(読書・国語・英語) ■教育(歴史・教科書問題) ■教育(子育て・家庭、道徳) ■教育(日教組問題) ■宗教・心・精神 ■感動の話・誇れる話 ■我が国の現状(情けなさ) ■御皇室・神話・建国 ■治安・犯罪・暴力団など ■医療・福祉行政について ■男女共同(性教育・家庭科) ■靖国神社 ■抗議・要望先 ■憲法問題 ■国際問題・国連問題 ■経済・税金・産業・宇宙 ■政治家・官僚関連 ■支那関連 ■韓国問題 ■自衛隊・軍隊・防衛問題 ■自殺について ■脳死について ■国家のあるべき姿 ■環境・食料問題・農業 ■提言:凛とした風を! ■日本人としての生き方 ■中東情勢について ■民主党について ■在日関連資料 ■日韓併合について ■中国人・朝鮮人強制連行 ■戦後賠償について ■遺棄化学兵器 ■従軍慰安婦問題 ■外国人参政権問題 ■過激派・左翼の実態 ■請願・決議の文章 ■スパイ事件・情報機能 ■台湾問題 ■ロシア関連 ■731部隊 ■支那事変全般 ■自由民主党 ■アメリカ事情 ■無防備宣言 ■地方自治体について ■外務省の醜態 ■高金素梅 ■ODA関係 ■東アジア共同体 ■裁判所・弁護士の異常 ■共産党・社民党 ■上海協力機構 ★その他 ★★講演用-重要資料 ■朝日社説・天声人語 ■人権擁護法案 ■ネットワークの成果 ■南シナ海 ■対馬 ■太平洋島嶼国 ■エネルギー・資源 ■民主化運動について ■インド関連 ■中南米関連 ■教育行政全般 ■アフリカ関連 ■東南アジア関連 ■朝鮮総連関連 ■核問題 ■日経新聞・社説 ■毎日新聞・社説 ■読売新聞・社説 ■共同通信社 ■TBS ■産経新聞・社説 ■朝鮮人の恨めしさ ■フリーター・ニート ■外国人労働者・移民問題 ■地方分権問題 ■現政権の動き ■APEC・ASEAN ■オーストラリア関連 ■EU関連 ★明治維新 ■自治基本条例・住民投票 ■ヨーロッパ関連 ■日本海呼称問題 ■健康には ■ユニバーサル社会基本法 ■沖縄問題 ■リーダーとは ■日本人の和の心 ■日本人の誠の心 ■日本人の勤勉の心 ■日本人の信仰心 タグ
我が国の情けなさ(391)
売国奴たち(208) 抗議・要望先(190) ◆講演会-資料集(147) 東京裁判(117) データ・世論調査など(99) 少子化問題(70) 竹島(59) 同性愛(53) 東シナ海・ガス田(49) 支那人の恨めしさ(36) 支那・スパイの活動(10) ネットワークの成果(10) 教育の愚かさ(9) 支那の外交(9) 支那・侵略の戦略(9) 支那・軍事力(7) 政府の無駄使い・あきれ話(7) 中央アジア(2) 支那・環境問題(1) メモ帳
ライフログ
お気に入りブログ
以前の記事
2009年 06月
2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 最新のトラックバック
おすすめキーワード(PR)
ファン
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||