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カテゴリ:■教育(読書・国語・英語)
  • ◆会社員の6割以上「デジタル化で国語能力低下」 (聯合 06/10/8)
    [ 2006-10-09 12:11 ]
  • ◆【主張】古典暗唱 国語力再生に意義大きい (産経 06/9/4)
    [ 2006-09-04 12:34 ]
  • ◆歌詞を軽視する流行音楽は許せない (ライブドア 06/8/22)
    [ 2006-08-23 15:26 ]
  • ◆小学国語で古文・漢文を指導 (県民福井 06/8/18)
    [ 2006-08-19 11:11 ]
  • ◆【主張】国語力の劣化 漢字の持つ力を見直そう (産経 06/7/28)
    [ 2006-07-28 17:19 ]
  • ◆平易化の大罪 漢字が読めない日本人 (産経 06/6/26)
    [ 2006-06-26 08:15 ]
  • ◆誤解だらけの英語教育① 学習院大名誉教授●篠沢秀夫
    [ 2006-06-22 04:25 ]
  • ◆誤解だらけの英語教育② 学習院大名誉教授●篠沢秀夫
    [ 2006-06-22 04:25 ]
  • ◆英語の早期教育には問題多し
    [ 2006-06-21 16:17 ]
  • ◆学力低下をどう克服するか
    [ 2006-06-21 16:17 ]

2006年 10月 09日
◆会社員の6割以上「デジタル化で国語能力低下」 (聯合 06/10/8)
http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?
News_id=032006100402700

 就職・人事関連のポータルサイト、キャリアが8日に明らかにしたところによると、会社員1999人を対象に業務上使用する国語の重要性について質問した結果、回答者全体の平均は10点満点中7.2点だった。

 しかし、全体の64.3%が「業務環境がデジタル化したために、国語使用能力が下がった」と答えた。特に「語彙(ごい)力・文法」が不足しているとの回答が35.2%に上った。

 言語使用に関連する業務のうち最も向上させる必要がある業務として挙げられたのは、「企画・報告書の作成」が38.7%で最も多く、次いで「対人・コミュニケーション」が29.0%、「プレゼンテーション」が21.9%などとなった。




by sakura4987 | 2006-10-09 12:11 | ■教育(読書・国語・英語)
2006年 09月 04日
◆【主張】古典暗唱 国語力再生に意義大きい (産経 06/9/4)

 学習指導要領の見直しを進めている中央教育審議会の教育課程部会は、小学校の国語教育に古文や漢文の暗唱を導入する方向で検討に入ったという。

 現行の指導要領でも高学年を対象に「やさしい文語調の文章に親しむ」ことが掲げられているが、ある小学6年生の教科書には俳句8句、短歌8首程度が形ばかり載っているだけで、「枕草子」や「徒然草」といった古典のさわりの1行もない。

 他社の教科書も似たり寄ったりで、文語調に親しむといっても、ほとんど形骸(けいがい)化しているのが実情である。

 古典は先人の精神活動の積み重ねであり、その所産に触れることは、単に子供たちの知識を広げるだけでなく、表現力の幅を広げ、情緒をはぐくみ、道徳意識を形成するのに極めて有益である。

 もちろん、小学生とりわけ暗唱力の大きい低学年を対象とするときは、一字一句の語釈や文法に踏み込む必要はない。

 「門前の小僧習わぬ経を読む」ということわざがあるように、繰り返し耳にすれば、難解な経文すらまるごとイメージのように脳に記憶される。

 口調のいい古典の文章を繰り返し暗唱すれば、暗唱行為自体が脳を活性化させるだけでなく、暗唱文が心の基層部に深く刻印されるのである。

 子供のころに習った文語調の唱歌などの言い回しについて後年、「あ、あれはそういう意味だったのか」と合点した経験をお持ちの方も少なくあるまい。

 幼少時の暗唱が教養に転じるのである。古典の暗唱は精神活動の骨組みを作るのに大きな力を持っている。

 ただ、同部会の審議経過報告に「義務教育修了段階までに常用漢字の大体が読め、そのうち1000字程度の漢字が書けることなど、具体的な指標を設定することも考えられる」とあり、漢文の暗唱がこれで本当にできるのか疑問も残る。

 現行漢字教育は当用漢字以来の漢字制限を引きずるもので、暗唱導入の成果はその撤廃抜きには考えられない。

 ルビを活用し、吸収能力の柔軟な低学年のうちに多くの漢字に接し得る教育に改めるよう注文しておきたい。

 衰微する国語力の再生には、小学生への古典暗唱の導入は極めて有意義であり、ぜひ実現してほしい。



by sakura4987 | 2006-09-04 12:34 | ■教育(読書・国語・英語)
2006年 08月 23日
◆歌詞を軽視する流行音楽は許せない (ライブドア 06/8/22)

http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2350941/detail

 今や、音楽の文化が非常に盛んである。音楽再生機能を持つ携帯電話、携帯ミュージックプレイヤーなどの発達によって音楽は幅広いシーンで楽しめる娯楽となった。

 部屋の中は勿論、公園、スポーツジムでも消費者は自分の好きな音楽を楽しめるようになった。本当に技術の進歩は目覚ましいもので、その恩恵はありがたい。

 しかし、“最近の音楽”に関して一つ、苦言を呈したい。その苦言とは「歌詞を何とかしてくれまいか」との願いだ。最近の音楽を聴いて「歌詞の意味が分からない、歌詞による感動を得られない」といった体験は、誰もが一度は見に覚えがあるのではないだろうか。

 近年の音楽の歌詞を確認してみると、その殆どが物語性やメッセージ性を持ち合わせておらず、歌詞の文章に深みが無いものが多い。無闇に奏でる速度もはやく、ドカドカ、ジャンジャンと落ち着きが無い。さらに全体には趣が無い。

 かつて、東京都の石原慎太郎知事が、最近の音楽の現状を引用して小学校段階での英語必修化を批判し、また国語能力の向上の必要性を論じた。同氏の意見に賛同したい。

 何の脈絡も無く、突然登場する英文の歌詞や単語は、見た目にはカッコイイのだが、聴き手の心を打つことは無い。メロディやリズムばかりが重視されており、国語的な文法は無視され、情緒のある余韻なども軽視されている。

 結果、大切にされるべき情感が歌詞に込められておらず、最近の音楽は歌詞よりもメロディばかりが重視されている。

 近頃の音楽でも、特に売り上げランキングの上位にランクインする作品に、これらの傾向が顕著に表れている気がしてならない。

 歌詞軽視メロディ重視の音楽がブームのおかげで、情感溢れる歌詞で構成された良い曲は消費者にはウケが悪い。多勢の歌詞軽視メロディ重視の音楽が経済的猛威を振るう。結果、正統派の歌詞音楽を影へと追い込んでしまった。

 「質<流行」の原則で動いている音楽業界は今こそ、誇りを取り戻してもらいたい。




by sakura4987 | 2006-08-23 15:26 | ■教育(読書・国語・英語)
2006年 08月 19日
◆小学国語で古文・漢文を指導 (県民福井 06/8/18)

http://www.kenmin-
fukui.co.jp/00/sya/20060819/mng_____sya_____000.shtml

中教審部会が検討

 学習指導要領の見直しを進めている中教審の教育課程部会は、小学校の国語の授業に「暗唱と音読」を重視した古文・漢文など古典の指導を盛り込む方向で、本格的な検討に入った。

 「やさしい文語調の文章に親しむ」ことを掲げた現在の指導要領よりも「文化の継承」を強調し、古典重視の姿勢を鮮明にした。改定されれば全国の小学校で枕草子など古い時代の古文や論語、漢詩などの漢文を暗唱する授業が実施されることになる。「復古調」と指摘する声もあり、議論を呼びそうだ。

 小学校での古典学習は現在、短歌や俳句、ことわざなどを音読させる指導が主流で、時代が古い漢文や漢詩などは、全員が学ぶ必要のない「発展的内容」として扱われている。

 これに対し、中教審の案は「わが国の言語文化を継承させる」ための方法として「やさしい古文や漢文の音読・暗唱を重視した指導」を提示。児童全員が学ぶことを前提に導入を検討している。

 指導を開始する学年や小学生にふさわしい題材、具体的な指導内容については今後議論を詰める予定だが、難しい内容で子どもの“古典離れ”を招かないよう、文法などの指導までは求めない方針だ。

 新しい学習指導要領は来年春までの策定を目標に、各教科で見直し作業が進行中。国語では、論理的な思考力や表現力を伸ばすことが中心的な課題になっている。

 文部科学省は「古典の学習は、言葉の学習の基礎づくりに有効で、論理的思考や表現力の向上にもつながる」と、中教審の議論に期待している。


 <学習指導要領> 文部科学相が告示する教育課程の基準で、「ゆとり教育」を掲げた現行の指導要領は小中学校で2002年春から、高校で03年春から導入された。今回の見直しは、当時の中山成彬文科相が05年2月、中教審に国語力の育成など6つの観点を示して検討を要請した。



by sakura4987 | 2006-08-19 11:11 | ■教育(読書・国語・英語)
2006年 07月 28日
◆【主張】国語力の劣化 漢字の持つ力を見直そう (産経 06/7/28)

 仏教では怒りはむさぼり、無知と並んで衆生の善心を害する三毒の一つとされる。その怒りは一体どこで生まれるのだろう。

 文化庁の「国語に関する世論調査」によると「怒り心頭に発する」という慣用句を「怒り心頭に達する」と思い込んでいる人が74%以上もいた。これらの人々は怒りの生まれる場所は心頭(心)でなく、人を殴る手や、蹴(け)る足から生まれるとでも思っているのだろうか。

 そう思ってしまいたくなるような国語の惨状である。

 最近の各種調査で国語力の劣化が次々に明らかにされている。国語は単にコミュニケーションの道具だけでなく、思考する手立てであり、知識を積み上げ、情緒を育て、人格を形成するのになくてはならない基本的能力である。それがこのように劣化していることをもっと深刻に受け止めなくてはなるまい。

 劣化の原因は一つではないが、テレビの娯楽番組などを通じて耳によって言葉を覚える機会が増える一方、それに反比例するかのように、文字によって言葉を覚える機会がだんだんと減ってきている実情を映していることは間違いない。

 話し言葉は話された瞬間、即座に消えてしまうので、どうしても記憶するのに曖昧(あいまい)さを伴う。これに引き換え、一字一字に意味を持つ漢字を使った書き言葉は、きちんと言葉の概念を把握しつつ記憶できる特徴がある。

 重複表現や誤用などの意識調査で、「一番最後」や「元旦の夜」という言い方が気にならないと答えた人が相当数いた。

 最後の「最」に“最も”という意味があり、元旦の「旦」は地平線を表す「一」の上に太陽が昇る象形指事文字というような言葉の覚え方をしてきたら、そうした表現のおかしさにすぐ気づくであろう。

 戦後の国語政策は漢字を目の敵にして、漢字のそうした優れた特性をないがしろにしてきたといえる。国語の融解を食い止めるには、今すぐにでも漢字制限のような国語教育はやめるべきだ。漢字力を身に付け、読書し、そこから学ぶことが、はびこる国語の誤用とそれによる思考力の曖昧化を防ぎ止める最も有効な手立てである。


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◆“日本語の乱” 国語世論調査 重複表現「気にしない」過半数 (産経 06/7/27)

怒り心頭に達す→74% 愛想振りまく→48%

 「怒り心頭に達する」という誤った慣用句を使う人が74・2%に達していることが26日、文化庁の「国語に関する世論調査」の結果で分かった。「怒り心頭に発する」と正しく使えるのは14・0%で、5倍の人が間違っていた。

 「従来から」「あとで後悔する」といった重複表現を気にしない人も過半数に達しており、日本語の乱れが懸念されている。

 調査は2~3月、全国16歳以上の男女3652人を対象に面接方式で実施。57・7%にあたる2107人から回答を得た。

 誤用されやすい慣用句について二択でどちらを使うか尋ねたところ、激しく怒ることを意味する「怒り心頭に発する」という正答を選べたのは14・0%しかおらず、74・2%は「怒り心頭に達する」を使用すると答えた。「頭に来る」という類似表現があるため、その連想から「達する」と誤解されているようだ。

 周囲に明るくにこやかな態度を取る意味の慣用句は「愛嬌(あいきょう)を振りまく」が正しいが、正解者は43・9%しかおらず、「愛想を振りまく」(48・3%)の方が上回った。愛嬌と愛想の意味が似ているため混同されているという。

 曖昧(あいまい)な言い方をすることは「言葉を濁す」が正しいが、27・6%は「口を濁す」と回答した。また、我慢できない「腹に据えかねる」という慣用句は、18・2%が「肝に据えかねる」とした。

 また、言葉の意味が重なる重複表現について気になるかどうかを聞いたところ、「従来から」は74・4%、「あとで後悔した」は54・4%、「一番最後」は50・5%が「気にならない」と回答した。

                  ◇

 ■「敬語」難しい→67% だが使いたい→92%

 国語に関する世論調査では、社会生活を営む上で敬語を使いたい人が92・5%に達しているものの、「難しい」と感じる人が67・6%いることが分かった。

 話し手が聞き手に上品な印象を与えるために使う美化語の「お」の使用をめぐっては、「弁当」に「お」をつけて話すのは女性の4分の3を占めたが、男性は4分の1にとどまっており、男女差もくっきりと表れた。

 文部科学相の諮問機関である文化審議会の国語分科会は現在、敬語の指針を作成しており、今回の調査結果も踏まえて来年2月までに答申する方針だ。

 敬語使用についての考えを聞いたところ、社会生活を営む上で「使いたい」としたのは92・5%で、「使いたくない」の6・2%を大幅に上回った。

 ただ、敬語が難しいと感じたことが「ある」のは67・6%で、「ない」(31・3%)の倍以上に達した。敬語を使う対象(複数回答)では、「年上」が82・7%と最も多く、「目上」「知らない人」「尊敬する人」が50%以上で続いた。

 美化語の「お」をつけるかどうかを15の言葉について聞いたところ、「菓子」「酒」「米」「皿」「弁当」「茶碗(ちゃわん)」は「お」を付ける人が多かった。「酢」(43・1%)と「お酢」(44・8%)は拮抗(きっこう)した。

 男女別に見ると、使用率はすべての言葉で女性の方が男性を上回った。特に、「弁当」「皿」「酒」「米」については、7割以上の女性が「お」を付けて話すが、男性の場合は4割未満で大きな男女差が表れた。

 一方、「菓子」に「お」を付けるのは女性の85・2%、男性の60・1%。唯一、男性の使用率が過半数に達した。

 業務終了時のかけ声を尋ねたところ、目上に「お疲れ様」を使うのが69・2%で「御苦労様」の15・1%を大幅に上回った。目下の人に「お疲れ様」というのは53・4%で「御苦労様」は36・1%。一般的には、目上に対し「御苦労様」を使うのは失礼とされるが、そのマナーが一応は定着していることがうかがえた。



by sakura4987 | 2006-07-28 17:19 | ■教育(読書・国語・英語)
2006年 06月 26日
◆平易化の大罪 漢字が読めない日本人 (産経 06/6/26)

【新国語断想】塩原経央

 漢字が読めない、書けないという青年が増えている。ある大学教授が嘆くことに、小学3年程度の漢字を読み書きできない学生が珍しくないという。それで、どうすれば彼らが普通の国語力を身につけられるのか、悩み事相談を持ちかけられたのである。

 漢字が使えない青年は何もその教授の大学に限らない。満足に文書の一つも書けない新入社員に小学生並みの国語教育を施している企業もあるという。

 国語の惨状は極めて深刻な安全保障の問題なのだが、それが頭の上のミサイルのような明示された脅威ではないため、多くの人が非常事態に気づかないでいる。

 かつてケルト語はヨーロッパ中央部の広い範囲で用いられていた言語だが、歴史の興亡とともに強勢な言語に同化させられ、あるいは辺境の地に追いやられ、今ではアイルランドなどで細々と生き延びるのみだ。

 歴史に学ぶとすれば、このままでは伝統的な純粋日本語は遠からず離島や山間地の集落などにひっそりと息づくという事態が招来しないとも限らない。いや、インターネット時代の今日では、そんな保存のされ方さえも怪しいかしれない。

 国語が滅びれば国語によって書かれた文献、つまり先人の知恵の集積が後代に継承されなくなるわけだから、その文化も時間の砂に埋もれて忘れ去られる。

 国語も滅び、文化も滅ぶとは、国家も滅び、民族も滅ぶということだ。これをして安全保障の問題といわずして何といおう。

 国語力衰微の元凶は知識の大衆化、情報の民主化というお題目の下、漢字制限など国語平易化を進めた戦後国語政策にある。平易化という言葉にだまされてはいけない。

 実態は表記の曖昧(あいまい)化、語意識の粗雑化に過ぎなかった。

 例えば、看護婦の看は〈みる〉だが、この訓は常用漢字では認められていない。

 だから、看護婦はカンゴフという音声集合によって記憶することになる。語を意味でなく音声で覚えると、看病、看視、看守、看破のような語の看とのつながりが見えなくなり、知識が断片化してしまうのである。

 また、「見る」と「看る」の微妙な相違を概念分けする分析力を失い、思考力も大雑把になる。

 漢字制限は漢字語彙(ごい)の制限だから、その分仮名が増え、読みにくく理解しにくい文にする。

 漢字を知らないために先人の文章が読めなくなるだけでなく、読みにくさが読書離れを助長し、かえって知識や情報から大衆を疎外する結果をもたらしたのだ。

 一方、新しい概念を漢字で表す知恵を失ったために、片仮名語が増大した。現に「てにをは」以外はみな英語語彙というような話し方をする官僚や政治家、学者などが増えた。

 片仮名語は読むことはできても原語を知らない大衆には理解するのが難しい。意思疎通の道具としても国語を劣化させたのである。

 かくて、何のことはない、国語の平易化は知識や情報の知識層による壟断(ろうだん)を招いたのだ。

 そればかりではない。坂道を転がるように国語が混成語(植民地語)化した。日本及び日本人にとって許すべからざる戦後国語政策の罪状である。堂々たる国語の再生のために残された時間はあまりない。

 早く漢字制限をやめなければ、日本人はそれこそ先祖の戒名も読めないようなバチ当たりだらけに成り果ててしまうであろう。



by sakura4987 | 2006-06-26 08:15 | ■教育(読書・国語・英語)
2006年 06月 22日
◆誤解だらけの英語教育① 学習院大名誉教授●篠沢秀夫

 昭和八(一九三三)年、東京都生まれ。中学三年からアテネ・フランセでフランス語を学ぶ。

学習院大学文学部仏文科、東京大学大学院を経て、フランス政府留学生試験首席合格、パリ

大学へ留学。昭和四十八年、学習院大学文学部教授。平成十六年、同名誉教授。近著に「こ

れからの日本人へ 最新講義」(勉誠出版)など。クイズ番組の解答者としても人気を博した。



●なんでも西洋に手本



 学校教育の在り方については、わが国では誤解が多い。とりわけ戦後

はひどい。それはもともとが、明治になってからの学校制度も学科内容

も、西洋を手本として来たからであり、一方で江戸時代からの要素も含

めて、日本固有の形に形成して来た。それをまた「アチラでは」と欧米

模範で揺すり返す。その繰り返しが百数十年、今日に至る。そして敗戦

後、占領研期の「進駐軍」の政策は「日本的なものの否定」であったこ

とに注目しよう。勇敢な日本の兵に恐れを成した米軍主体の極東連合軍

最高司令部の初期カ針であった。



 世間では「アチラでは」と手本を西洋に取り続ける癖から、なんでも

日本にある程度のことは「アチラでは」当たり前、それ以上のことがあ

ると思いがちだ。例えば義務教育を定めた「小学校令」は明治十九年、

一八八六年施行で、フランス共和国の「無償の義務教育の法制化」であ

る「フェリー法」施行の五年後であった。「やはり遅れてる」と日本で

は思いがちだ。ところが僅か五年の差だ。ヨーロッパでも早い方だ。

 しかも、世界には中央集権という点でも、国民国家実現という点でも、

肩を並べるのは、フランスと日本だけだった。今もアメリカに「合衆国

教育省」があるか。ドイツ連邦共和国に「連邦教育省」があるか。ドイ

ツでは最近まで州によって義務教育年限が違った。



 おお、「アチラ」式の近代国家建設の模範は、明治三年まではもっぱ

らフランスだったという歴史的事実が、「現代考古学」の発掘対象のよ

うに、日本社会の記憶の中で失われている事実も、確認しておきたい。

号令は幕府陸軍の教官だったフランス軍将校に習って、直訳を超えた

「写し」である。「担え 銃(つつ)!」は日本語の語順としてはへン

ではないか。目的語は日本語なら前に来る。フランス語では後ろだ。

「ポルテアルム!」



 そして明治初年から実施され、明治四年に法制化された「県」は、革

命以来フランスで発明された制度のコピーだった。「デパルトマン」

の境界は内務省が定め、県知事は内務省が派遣する国家公務員である。

フランスでは今でもそうだ。日本では敗戦後、内務省解体、知事はアメ

リカを真似て、直接選挙とした。この制度は世界で日仏にしかない。

 もちろん、明治三年の「普仏戦争」、ベルリン首府のプロシア王国が

隆盛となって、二十を越える小国.自由都市に分かれて千年以上過ごし

たゲルマン人たちが、やつとまとまってフランス第二帝国に戦争を仕掛

け、ドイツ人だけで初めてフランス国家に勝った。明治新政府はびっく

りして手本を、プロシア王を皇帝として新たに成立したドイツ帝国に切

り換えた。それ以来、日本人のイメージでは、役にたっことはドイツ、

フランスは芸術だの文学だのファッションだの、実用的でないことだけ、

となってしまった。



 しかし、誤解を孕みつつも、「アチラ」のことを取り入れつつも、固

有文化の底流を保ちつつ、近代化に成功したのが、明治の日本である。

それはアジアにもアフリカにも他に例がない(その事を妬んで明南日本

を悪者扱いし、今の日本を罵倒するアジアの国の政権担当者たちがいる

が、哀れなり。自分たちの先祖の悪口を言っていることになるのに)。

 西洋化することにおいて日本的形が生じる典型的な例は、音楽という

教科である。



 我が国では、音楽は明治時代から、「文部省唱歌」など、重要な教科

になつていた。欧米ではそれほどではないと長年聞いて乗だが、平成三

年から一年、中学三年の娘を連れて家族で滞仏して娘を私立(カトリッ

ク)の女子校に入れた時、確認した。義務教育(戦前十二歳まで戦後十

六歳まで)では、音楽の授業は無きに等しい。



 フランスでは一九〇五年、明治三十八年の政教分離法施行以来二尚校

(国立)中学(公立)小学(公立)では、宗教教育を行えず、聖職者は

私立でも教壇に立てなくなった。三十年に渡る論争の後の結果だったの

で、教会へ通う生徒の負担が不公平にならないよう、日曜以外に木曜を

全国で休日とした。それを一九七〇年ごろに週の真ん中の水曜に移した。

カトリック校では、水曜に僅かだが別の授業料で、教理教育を聖職者が

行う。その日に、これも別の授業料で、歌、ピアノ演奏などのレッスン

を選択受講できる。その程度である。なるほど、同じ文化の中の「御稽

古事」だ。日本で三味線、お琴、謡ということか。



 それが日本では、音楽の授業は「アテラ」の事を学ぶという新規の学

校制度の根幹に関係していたのだ。ドレミフア、音譜に始まる。音譜を

「オタマジヤクシ」と言うのは、今ではもう流行っていないか。国語辞

典には載っている。これは明治初年にできた比喩であろう。音楽の教科

書を見た生徒ばかりではなく、家でそれを見た父母の感想だったかも。

西洋の音楽を学ぶのだ。それにしても、ケルト系の民謡が多い。『蛍の

光』、『故郷の空』はスコットランド、『庭の千草』はアイルランド民

謡だ。どちらもケルト民族であるが、ここではその問題には深入りすま

い。



 ここで見るべき点は、曲の感性的同調はあるが、歌詞は日本的に作っ

た功績だ。『故郷の空』の歌詞は大和田建樹作詞、明治二十一年に『明

治唱歌(一)』に入った(講談社文庫『日本の唱歌』上 明治編による)。

「夕空晴れて 秋風吹き」と自然への愛を籠め、そして「思えば還し 

故郷の空 ああ、わが父母 いかにおわす」と、郷土愛、親子愛を強調

する。教育的意図がある。スコットランド民謡の歌詞にこだわっていな

い。原詩の意味は戦後に出た訳詩大木博夫・伊藤武雄作詩に近い。「だ

れかが だれかとむぎはたけ こっそり キスした いいじゃないの」

 明治時代に、欧米の小学校で民謡などを歌わせていたのか。教育史、

音楽史の専門家に調べてもらいたいものだ。いずれにしても、日本では

西洋音楽を学びつつ、日本的感性と道徳は「唱歌」に籠めていた。



 現状でも、敗戦にも耐えて、明治以来の学校制度の日本的特性は残る。

それが当たり前と皆思っているが、たまたま海外赴任して違うやりかた

を自分の子供の経験で知ると、「アチラでは」と日本批判を始める軽率

な人が多く、またマスコミはすぐにそれに乗る。「日本では登校日数が

多すぎる」という批判がそれだ。文科省官僚の一部もそれに同調して何

年か動き、「ゆとりの学習」「総合学習」などの施行に至った。しかし

学力低下が問題となり、今や軌道修正、というか、改善、回復方向にあ

る。



 これも認識の誤り、誤解が原因である。「アチラでは」が生半可なの

だ。欧米では、授業以外の学校行事だけのための登校日はほとんどない。

フランスの学校にはグラウンドがないのだから、体育の授業はないし、

ましてや運動会はない。すると運動会の予行演習もない。文化祭も発表

会もないのが普通。そして各学期の始業式、終業式もない。新学期の初

日も朝から授業だ。この違いの事実を踏まえずに、日本の登校日数だけ

見れば、欧米人は全部授業だと思って、「詰め込み教育だ!」と驚く。

それを受け売りして「アチラでは」と騒ぐ一部の日本人。殺すな。事実

を提示して、色メガネを壊そう。説得しよう。



 アメリカにあるという「立ち歩きして論じあう自主性養成の授業」は、

運動会の運営に生徒が参加する日本では必要なかろう。

 そして我々が当たり前と思っていて、日本にしかないことの究極は、

掃除当番である。天皇陛下ももちろん一学習院初等科、中等科、高等科

で経験された。もちろん皇太子殿下も。欧米の学校では、大学と同じで、

業者や職員が掃除する。掃除当番はそれこそ、総合学習である。自主性、

指導性、親切心を養成する。この起源がどこにあるのか、歴史の専門家

に調査を期待する。



●英語教育の来歴を解きあかす



 このように日本の学校教育の来歴を論じて来たのは、日本での英語教

育の来歴を解きあかす前提としてである。

 英語教育も「西洋に学ぶ心」が根幹で、内容を読もうとする。蘭学が

元になっていて、一八五三年、嘉永六年の米国ペリー艦隊来航以来、英

語指向となった。そして米国がその後、南北戦争で日本問題どころでな

くなった時期、世界を制覇する勢いの英王国が戊辰戦争の際に薩長支持

だったことが大きい。フランス第二帝国は幕府支持の姿勢だったが、ド

イツ人諸国との緊迫もあり、やはり日本問題から遠ざかっていた。



 明治初年の日本の英語指向の強さはヨーロッパ人からみると異様だっ

た。明治九年、一八七六年ごろドイツ帝国から来日して二十世紀まで宮

中や政府高官の侍医だったベルツ博士は、連邦帝国を形成していた元の

ドイツ人小王国での経験からして「ヨーロッパの宮廷の公用外国語はフ

ランス語なのに、日本の宮廷では英語である」と驚いている。



 その傾向が、義務教育でない県立中学機での外国語を英語一本とした。

私立でもフランス語を教えるのは、フランス系のカトリック・ミッショ

ン・スクールだけだった。五年制となった中学は四年からもう受験でき

る国立(当時は官立と言った)の三年制高等学校へ進む普通教育の場で

あることで、実務的な商業学校や工業学校よりハイ・レベルと見なされ

た。昭和二十一年に最後の旧制中学の年次として入学した時、小生の東

京の大田区での中学進学者は、小学校のクラスの半分程度だった。その

ころは、特に地方では、中学までの出身者も社会的地位は高かったし、

習ったことを老年になっても覚えているタイプが多かった。モスクワが

北緯何度かすぐ話に出て来る。しかしこういう人たちにとって英語を習

った記憶とは、教科書で読んだ「ワシントンの斧」といった話の内容で

あった。

by sakura4987 | 2006-06-22 04:25 | ■教育(読書・国語・英語)
2006年 06月 22日
◆誤解だらけの英語教育② 学習院大名誉教授●篠沢秀夫



 発音はカタカナ風である。大正末期からはますますそうなる。英語を

習ったことのない人の方が圧倒的に多かった明治時代、習うには現地で、

日本でなら英米人から習うしかなかったころには、耳から聞いた音が日

本語化した。「メリケン粉」の「メリケン」は昭和になってから綴りを

カタカナ式に読むやりかただと「アメリカン」だ。「ヘボン式ローマ字」

を発明したヘボン博士の名は、昭和、それも戦後に有名な米国映画女優

の名と同じだが、戦後は綴りをベタ読みして「ヘップバーン」と表記し

ている。PとBが並んでいるが、Pで唇をつぐみ、Bで唇を破裂させるので、

耳にはBしか聞こえない。映画評論家の淀川氏が戦後渡米、

 ハリウッドで「キヤサリーン・ヘップバーンに会いたい」と言ったら、

何度も「フー?」と聞かれたと語った。「ヘボン」なら一発で通じたろ

う。



 旧制高校に進む率は低く、今日の大学r院並みだったろう。そこでは第

二語学が始まる。それは戦後、旧制高校が新制大学の教養課程に転換し

た時期までも、圧倒的にドイツ語だった。後はフランス語だが、新制大

学初期で二対一以上の差だ った。数年で逆転する。それがヨーロッパ

での姿に近い。日本でのドイツ偏向は前述のように明治三年の「晋仏戦

争」の勝利によるドイツ帝国形成の影響による。



 旧制高校の文科には第一語学で区別があった。甲類は英語、乙類はド

イツ語、丙類はフランス語。明治時代にだんだんと高校は増え、宮内省

の学習院高等科の他に、文部省立で八校できたが、フランス語第一語学

の文科丙類(文丙、プンペイ)があるのは「一高、三高、学習院」だけ

だった。一高は今の東大の教養課程、三高は京大の教養課程。



 旧制高校生、戦後の新制大学生の多くが学んだドイツ語の発音はカタ

カナ式であった。やはり、内容読み取りが中心だった。文科でも理科で

も明治時代の高校生はドイツ哲学に関心が深かった。「メツチェン(女

の子)」など学生俗語はドイツ語からできた。戦後も「アルバイト(内

職)」、「内ゲバ(内部闘争)」の元の「ゲバルト(暴力)」など続く。



 そして学生時代に先輩から、教師になっては学生から何度となく聞か

された「神話」がある。「発音」についてである。「フランス語は読ま

ない字があるからハツオンが難しい。ドイツ語は書いてある字を全部読

むから易しい」と。まず「文字の読み取り」と「発音」を混同している。

英語でも、前述のように、子音が二っ並ぶと「ヘボン」と「ヘップバー

ン」という問題が起こる。ドイツ語では子音が三っ並ぶのはザラだ。日

本語は「子音+母音」の音節を並べる仮名文字、「音節文字」で表記さ

れ、まさにそれをその通り読み取れば、発音にも問題はない。まるで違

う。日本語では違う子音が二っ並ぶことはまずない。



 フランスでは鉄道の駅は文化財を破壊しないように町外れに設置され

る伝統がある。ドイツの町には「中央駅」はある。「ハウプトhaupt(主

な)+バーンbahn(道、鉄道の略)+ホフhof(館)」と、漢字熟語のよ

うに意味の要素を並べると覚え易い。ただそれを考えながら言うと、カ

タカナ式に「ハウプトバーンホフ」と並べてしまう。学生時代、パリ留

学中にドイツ旅行をして、よく「中央駅」近くの安いホテルに泊まった。

市内を歩いてから戻るとき道に迷って、通行人に『中央駅はどこですか

~』と尋ねると、『何?』と聞かれてしまう。何度か言ったあと、ノー

トに書いて示すと、『ああ』と分かって『ハバホ』と叫び、教えてくれ

た。以後、『ハバホはどこ?』と聞くと一発で通じる。のちに原理が分

かった。PTBと子音が三つ並ぶと、Pで唇を閉じ(準備)、Tを口の中で構

えだけし(持続)、Bで唇を破裂させる(実施)。聞こえるのはBだけ。

 今日でもドイツ語の授業は、単語の構成部分の意味を考えながらカタ

カナ式に並べているのではっ.この点、フランス語の授業の発音はまだ

ましか。フランス語は並ぶ子音は二つまでで、それも「実施」「実施」

と並ぶ。ドイツ語や英語のように咬み合いにならない。そして「単語の

終わりに書いてある子音字は読まない」から、同じ綴りで英語読みだと

「パリス」になる首府の名は「パリ」だ。最後の音節「リ」は日本語と

同じ「子音+母音」。この形の単語が圧倒的に多い。日本人には発音し

易い。「神話」は逆を言っている。



●消えた「英語第二公用語論」



 さて、さまざまな誤解を正した上で、いよいよ英語教育の問題に入ろ

う。今や米国と日本は後期中等教育(高校、ハイスクール)への進学率

が九〇%を越え、世界最高である。多くの人が六年間英語を学び、もは

や「西洋に学ぶため内容を読む」という欲求はない。国際交流は盛んと

なり、海外旅行のチャンスも多い。しかし通じない!

 そしてアジア・アフリカの国々の政治家が英語でスピーチをするのを

見ると、「日本の政治家もああ在るべきだ」と騒ぐマスコミ人が出て、

人の心を煽る。



 それが数年前、「英語を第二公式用語にしよう」という論となった。

「放っておこう、あんまり馬鹿げてるから自滅するよ」と小生が予言し

た通り、「第二公式用語論」は消えた。この論があまりに騒ぎ立てられ

ると必ず表に出るのは、もと米英の植民地だった国の政治家が英語でス

ピーチするのは当たり前、という事実である。宗主国は被支配民の学校

教育に熱心でなかったし、まして中等教育は無かったし、被支配民の上

流者は宗主国で教育を受けた。英語である。この問題はもう一歩踏み込

んで考えて置くべきだ。十九世紀を通じて、米英の植民地での現地語は、

名前が一つの場合でも、バラバラの方言のままで文字化も遅く、西洋で

発達した化学、代数、幾何、天文学などの用語は無かった。そういう程

度まで学校へ行く人は宗主国の学校へ行った。そして問題は今日でも、

独立して自国の中学校を作っても、日常の現地語で授業する試みがうま

く行かない。近々、一度現地語にした理科と数学について、英語による

授業に戻った国があると新聞で見た。



 偉大なるかな、明治の先輩!「酸素」「窒素」など、西洋の学術用語

を、古代から身に付けた漢字で訳し、たちまち新しい標準日本語を実現

し、「西洋に学んだ」学問を自国語で、中学校で、やがて高等学校、大

学でまで教えることを成功させた。十九世紀末、二十世紀初頭では中国

(清帝国)でもそれは実現していなかった。我々は当たり前と思いがち

だが、これはアジア・アフリカで唯一の成功だったのだ。



 これで、「英語でスピーチできるからアジアの政治家は偉い」という

のは誤解であると判明したろう。もう一つの誤解は、「日本の英語授業

は文法ばかりだから喋れるようにならない」というタイプだ。一時「学

校で教えない実用英語」の騒ぎが流行した。そのタイプの本の新聞広告

に、「公衆トイレに入って、ドアをノックされたらどう言うか」という

のがあった。「サム・ワン・イン」と答えろ、と。一見してわかった。

外国語会話の学習を、「日常定型表現の詰め込み」と混同する発想法で

ある。それしか知らず、文のレベルで自分の考えをまとめられない人間

は、国際会議の席に座れようか。しかも覚えるだけで定型表現を詰め込

んだ人間は、それをふと忘れると、何も言えなくなる。公衆トイレに座

っていてノックされて、「何て言うんだっけ?」と考えていたら、鍵が

壊れていたら(日本よりよく壊れている)開けられてしまう!「サム・

ワン・イン」は実用的なようで、何の役にも立たない。現場の実用は咳

払いである。入っていることが分かればよい。



 もう一つ、これはむしろ新しい流行だが、「小さい時から外国語を習

うと発音がいい」という思い込みがある。小学校での英語教育論の支え

の一つであろう。もちろん、大脳の言語中枢が固定するのは八歳から十

歳と言われているから、それ以前にネイティヴ・スピーカーに習えば、

それこそ二つ日の母語として頭に入る。(母語は本来は「ラテン語はフ

ランス語の母語」のような意味だつたが今は公的には「母国語」の意味。

「台湾の母国語」と言うと「台湾は国ではない」と怒る人がいるからこ

うなった)。だがそれには大量に多時間、その言語の音を浴びねはなる

まい。技術的、制度的に学校では不可能であろう。



 近頃「バイリングワル」を「外国語達者」の意味に使うことが普通だ

が、英語本来、また同じ事のフランス語「ビラング」は「二重言語者」

の意味だ。外国で、家庭では母語、幼稚園や学校では現地語で育った人、

または二言語国家で、Aの言語の家庭、Bの言語の地域で育った人である。

厳密には大脳に母語が二つ入っている人だが、親の赴任でアメリカにい

た、といった「帰国子女」ではそこまで行っているのは少ない。帰国子

女特別入試は東大を始め多くの大学にある。これを「外国語が上手な貴

重な人材」と英文科などでは大事にする傾向があるが、本来これは単に

救済処置だ。面接試験で「フー・イズ・ザ・ブラザー・オブ・ミナモト

 ノ ヨリトモ?」と聞くことにしている。まず分からない。ひどいの

は頼朝も知らず、「ミズモト・フー」と怪訝な顔をしたりする。それで

いて「フリーダムとリバティの違いを述べよ」と聞いても答えられない。

日本文化もアメリカ文化も中途半端。もちろん、小学校での英語教育を

推進したい人々も、英語の時間を無暗に増やして帰国子女のような両文

化中途半端人間で全国を埋める気はなかろう。

 要は、明治以来の「西洋に学ぶための内容中心の学習」から、英語教

育については「意思疎通を可能にする」ことを目的に変更すればいいの

だ。



●意思疎通を可能にする教育へ



 それについては、水の流れを一気に変えるダムを作ればいい。いや、

ダムを作り変えるのだ。ダムはあった。戦後、今の学制が普及して、大

学が「マンモス化」し、今日の少子化では、ひどく入り易くなっている

が、入試の英語試験について、使用単語の範囲が限定されたことはない。

まだ明治の「西洋に学ぶために内容を読む」考えが働いている。入試問

題は英文和訳が中心である。日常使わないどんな単語が出るか分からな

い。電車の中で単語帳をめくりながら勉強している受験生の姿だ。しか

し単語は、書いてあるにせよ耳から聞くにせよ、文の中にあるのを認識

して身につけるのがいいのだ。一方、「ゆとりの学習」への動きの中で、

何度も中学高校で習う英語の単語数は減って来ている。細かい資料はな

いが、二千語を割ったと聞いた。それはいずれ、何らかの基準で、使用

頻度順位の高い単語を選んで教科書作成の規格としているのだろう。入

試問題はその単語数の範囲、せいぜい、使用頻度順位三千語まで、と何

らかの形で規定すればいいのだ。一番簡単なのは文部科学省による法制

化、政令による指定である。大学協議会の申し合わせでもよい。そして

英文和訳も日常的な内容とし、易しいテーマを指示して簡単な内容の自

己表現をさせるなど、コミュニケーションを主体とする問題とすればよ

い。



 ダムの構造が変われば、水の流れは変わる。中学の始めから英語の授

業が身につく。

「文法ばかりだから日本の英語教育はダメだ」という批判は、一面で正

しいが、それを文法無視に結び付けてはならない。中学三年から自分で

アテネ.フランセに行ってフランス人教師から「直接教授法」、つまり

フランス語でフランス語を習ったが、始めは「手は五本の指を持つ」な

ど、手真似付きのことばかりだが、一年もすると、文の構造を習い、文

法の規則を請じて言わされた。「複合時制における過去分詞は前方にあ

る直接目的補語に性数で一致する」! フランス語で話す。文法に触れ

てはならないと思うな。



 最後に「英語の発音のよさ」についての誤解を解こう。厳密な意味で

の標準語があって、発音にも基準があり、それを徹底して義務教育で教

え、かなりの高レベルで普及を実現しているのは、世界で日本とフラン

スだけだ、という文化的事実が日本では知られていない。階級感の強い

英国では、階級によって発音や言葉遣いが違い、中産階級下部出身の女

子が秀才でケンブリッジ大学の寮に来ていると、アッパー・ミドルやジ

ェントルマン階級出身の女子に発音をからかわれ、毎年一人は自殺する

と聞いた。米国では中西部風の発音が田舎風で親しみがあり、大統領選

挙に強いという。英国のキングス・イングリッシュに近いと自負する東

部の発音だと、民衆に反感を生む。WASP「ワスプ」、つまりホワイト、

アングロ・サクソン、プロテスタントが米国での上層部となる条件と言

われるが、ケネディー大統領は、ホワイト、白人ではあったが、先祖は

アイルランド出身、つまりケルト人で、カトリックだった。そして東部

出身の堅苦しい発音。殺されてしまった。フランスでは「ボン.フラン

セ」良いフランス語、標準語の発音ができない人は県会議員にもなれな

い。「いや小学校も卒業できませんよ」と、同僚のフランス人教授が笑

っていた。



 その意味では「小学校から英語をやっていれば発音がよくなる」とい

う思い込みには、枠を掛けなければならない。問題は単語のアクセント

の位置なのだ。細かい一つ一つの子音、母音の音などは地方によって変

わっていても通じるし、元植民地の各国でそれぞれに癖があっても通じ

る。「ビシーときれいな英語」というのは、想像に過ぎない。

 ロンドンの高級住宅街、日本からの各社の支店長の社宅がある地域へ、

タクシーで行こうと、空港や駅から乗って「ウェスト・ケンジントン」

と地名を言うと、通じない。ロンドンのタクシーは行き先が分からない

と発車しない。赴任者自身も来訪者も日本人は苦労した。これについて

その地に住むことの長い先輩が皆にうまい手を教えたという話を聞いた。

「上杉謙信」と言えばいいのだ! 一発で通じる。



 それを思えば、小学校の英語とは、週一度くらい、ネイティブ.スピ

ーカーと遊ぶ程度が一番いいのではないか。小生が中学で英語を習い出

す前、「マッカーサー元帥」は「ジェネラル・マッカーサー」と言って

もまず通じない、「蛇の目傘」ジャノメガサと言えば一発で通じると通

訳をしているオジサンから聞いて、アメリカ兵を見ると「蛇の目傘!」

と叫んで、喜ばしていた。その程度でいいのでは。問題はアクセントの

位置なのだから。




by sakura4987 | 2006-06-22 04:25 | ■教育(読書・国語・英語)
2006年 06月 21日
◆英語の早期教育には問題多し
外交評論家 太田 正利  平成17年3月17日(木)世界日報

まず「読み書き算盤」の学習を   正確な国語で内容を身につけよ

<英語に苦労しないという幻想>

 「語学の勉強は早い時期に始めた方がよい」というのは一面真理ではあるが、それには条件がある。一体何故語学を学ぶのかの認識。真の国際交流には日本語・日本文化に対する深い理解・認識が前提だ。それには「読み、書き、算盤(そろばん)」に代表される日本人としての基礎教育が不可欠である。

 外国語は単にピジン英語のような片言ではなく、「しっかり」した語学力が必須。また、語学教育には欠かせない環境もある。在外生活のように当該言語にひたっているわけではなし、週に数時間で足りるような甘いものではない。帰国子女の外国語が「まがりなりにも」何とかなっているのは、そうした環境の下にあったからだし、文明国での初期訓育は徹底しており、日本人のように甘やかさない。

 それに最初の教師が重要である。発音その他日本語と外国語のクセをよく飲み込み、かつ発音がしっかりした日本人教師の存在が是非とも必要である。外国人教師(言葉をしゃべるだけでは問題外)は余程日本通・日本語通でなければなるまい。同じ言語系の独仏人に英語を教えるわけではない。

 こうして見ると、極く例外的なケースを除いて「早期学習開始」然るべしなどという単純な考えは取り除いた方がいい。遊びの中で言葉を学ぶ…聞き放しだけで、また、苦労せずに英語が身に付くという「幻想」…に浸らない方がいい。下手な外国語勉強より、先ずすべての基礎になる正確な日本語の学習をと叫びたい。そして、さらに外国語を深く習得した上で初めて外国人と堂々渡り合える人材が育つ。

<国語こそ外国語に通じる一歩>

 自分で言うのは気恥ずかしいが、筆者は、外国人としての極限まで外国語に接近する実験の上、確固たる信念から本稿を楽しみに書いている。「国漢」の家に生まれ、外国経験なしの生粋の江戸っ子だった筆者は、最初の英語教師(戦時中)に恵まれ、その後五十嵐新次郎(その素晴らしさに魅了され、自分でも出来る…日本人として限界まで英語を極めようと決心する契機となった)、トーマス・ライエル(特にシェークスピアー)両教授などの個人指導を受け、フランス語では前田陽一、ドイツ語では竹山道夫等々の超一流の先生方の指導を受けたことはまことに幸福であった。

 基礎の文法、文体等及び文学を徹底的にたたきこまれ、発音については特にやかましく、日本語とは全く異なる、いわば新しいシステムの「音」についての認識を深めさせられた。それに、言葉の裏にある歴史・社会の知識を得ることも大切で、そのため古典を含め関係国の文学もよく読み込んで暗誦さえした。当時暗記した文章は今でも脳裏に蘇ってくるし、そのため、どれだけそれらが役立っているか。今でも外国人とは言葉だけでなく、彼らと同じ水準の上(同じ土俵の上)に立って会話を楽しみ、必要に応じて交渉してきた。

 フランスでは、小学校から易しい古典(例えば、ラ・フォンテーンの寓話など)を徹底的に暗記させる。小さな子供たちが一心不乱に、あたかもお経のようにお題目を唱えているのを見るのは誠に可愛いものだ。日本でも漢文の素読(筆者も小学生当時)が、知識人の身についていた時代も極く最近まであった。

 日本人として先ず国語が大事。昔流に「読み書き算盤」がすべての知識の基礎になる。中途半端な早期英語教育は逆効果ですらある場合がある。英語で話すことも大事だが、内容のないことをペラペラ喋ることはない。戦後米軍の占領下にあった日本で、浅薄な哲学の持ち主だが、英語だけは出来るという日本人が如何に外国人に馬鹿にされたか。

 国語を大切にすることは外国語に通ずる第一歩である。フランス人はフランス語の保存と純化を守るために、一六三五年にアカデミーフランセーズという学術団体を創設して現在に至っている。最近では、フランス語にまぎれ込んだ外国語の使用が法律で罰則付きの禁止という事態に至った由である。法律でしかも罰則付きとは穏やかではないが、フランス人は大真面目で問題に取り組んでいるという。

<国語の乱れと変な英語の氾濫>

 最近日本語の乱れには目を覆うものがある。それに外国語の氾濫。それでも外国語が正確に使われているならまだしも、外国人にはお笑いとしか思えないものが多々ある。何でも横文字をつかえばハイカラとの雰囲気があるが。お菓子の「シュークリーム」は靴ズミのこと。「ムーディ」なカフェというのは「憂鬱な」カフェー。最悪のものを二、三挙げよう。

 女性用TシャツにBITCHとあるのを見て仰天した。「(盛りのついた)雌犬」という意味で、この語を含む三語は直接的な言及を憚ってSOBと書く(公の席でこの言葉を発したら侮辱罪にすらなり得る。昔だったら決闘ものだ!)。同じくTシャツだが、Lovestinksとあった。stinkは堪え難い悪臭を放つという意味。また、どこかで耳にしたyellow cab。滞米経験された向きには分かるのだろうが、キャブとはタクシーのこと。これが黄色である。この言葉の含意は?タクシーは誰でも「乗せる」。「日本人は黄色人種。日本女性は尻軽で誰でも乗せる」。とんだ差別語として使われることがある。くわばら、くわばら!

 横文字を使う場合、その含意を十分把握しておく必要がある。早期英語教育でピジン英語なら話せるようになるとしても、品格のある言葉を話せるまでには大変な努力が要る。特殊な例外を除き早期英語教育は問題である。それにしても、日本のことを知り、かつ、勉強して基礎を学ぶことが何より大切だ。





※英語の勉強は頭脳訓練としても、また将来の仕事のためにも、また、異文化への接近としても、非常に大事な事だと思う。これは積極的に肯定するが、実際の仕事に使うとなれば、これは生半可ではない事も言っておきたい。

その上で、上記は大切な文章だが、今の文科省の流れとしては生半可な早期英語教育の方に流れていると実感するし、総合学習も、結局はその流れの一環だろう。どうも真剣さに欠けるように感じる。

英語教育の視察に行っても、何が話せるのかという事には、ほとんど関心がなく、わが市では、わが学校では、英語の教育に力を入れていますというお飾りが欲しくてたまらないように私の目には写って仕方がない。トータル思考が出来ていないという事だろうが、これは教育関係だけではないし、早くから指摘されていた事だ。

自分とは何者かと言えば、いつも考えている事を振り返るとよく分かるのだが、その考えている事に深みもなく、味もなく、教養もない人間が、いくら英語が出来たところで、所詮、英語を話せる専門家としての通訳の仕事をやっていくことになるし、管理職にはなかなかなれないだろう。

まずは人間としての中身が一番の勝負なのであり、その次に実学になってくるのだが、それを実行しようとする教育関係者がほとんど見当たらない現状は、教育界に人材がいないという事なのだろう。真の教育者ならば、道徳教育で全国に名をはせる人物が出てきてもいいと思うのだが、その様な話は聞いた事がない。

私自身、いろいろな事をやり、また文章も書き、発言もし、考えもしてきたが、諸問題に対して結論が分かってくると、我が国の現状にどうしようもない失望感が出てきてしまう。完全に錆付いて、歯車が回らない感じがして、焦燥感が募るばかりだ。

今日の英語教育にしても、上記の文章が結論だと思うし、もう、これ以上の答えはないだろう。英語を勉強する事は大事だと思うが、話す中身がそれ以上に大事なのであり、人間としての中身を充実させつつ、英語もしっかり勉強するように導く事が大事だし、加えて、仕事で使えるようになるには、それこそ必死にならなければ使い物にはならないという事を教育関係者には知ってもらいたいと思う。 

何についてもだが、今の行政は真剣さが足りないと思えて仕方がない。どうせやるなら、中途半端は辞めて、必死に、真剣に、将来を見据えて取り組んでもらいたいと、心底思っている。




by sakura4987 | 2006-06-21 16:17 | ■教育(読書・国語・英語)
2006年 06月 21日
◆学力低下をどう克服するか
日本会議副会長 石井公一郎氏に聞く 平成17年3月18日(金) 世界日報 

<古典・歴史で情操育もう>

 ここ数年、日本の児童生徒、大学生の「学力崩壊」が問題とされてきたが、最近の二つの国際的な国別学力調査の結果も、これを裏付ける結果となり、中山文部科学相は、「ゆとり教育」の見直しを明言した。だが、新たな方向性はまだ定かでない。学力低下に歯止めを掛け、日本の将来を担う優れた人材をどう養成すればよいのか。

 教育問題に造詣の深い石井公一郎・日本会議副会長(大正12年、東京生まれ。慶応大学経済学部卒。ブリヂストンタイヤ(株)入社。同社取締役、専務、ブリヂストンサイクル(株)代表取締役会長を経て、臨時教育審議会専門委員、東京都教育委員を務める。現在、日本会議副会長、教科書改善協議会会長。主著に『経営者からの教育改革案』『回想 学徒出陣』『エリート教育のすすめ』、監修に『嵐の中の灯台』など。 )に聞いた。

<国・数・理の基礎強化を/英語は英才教育を導入せよ>

 ――経済協力開発機構(OECD)が行った国際学力到達度調査(PISA)では、日本の高校一年生の読解力が前回(三年前)の八位から十四位に転落し、前回一位だった「数学的応用力」も六位に下がりました。また、国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)でも、各国に比べて日本の順位が後退しております。これとゆとり教育の関係をどうみていますか。

 日本には祝祭日が多い。週休二日制導入で、新学期が始まって間もなく週のうち三日も休むということになる。それが月の中に二度出てくるとなると、学ぶ児童生徒の生活パターンとしてはおかしい。古い言葉で言えば、修行中の人間の生活パターンではない。数年前に戻して、一月のうち二日だけ土曜日を休みにする。それは学校が年間計画で決める。そうなれば三日連続の休みはなくせる。

 授業時間数は二十年前に戻してもらいたい。そして基礎基本の「読み書きそろばん」をしっかり行う。国語の時間数と内容の充実、算数による論理的思考の強化、これが根本です。資源のない日本は科学技術がなければ生きていけないわけで、理科教育の充実が三番目となります。

 ――週三時間、総合学習が導入され、いろいろと校外に出掛けて施設の訪問をしたり自由課題を見つけたりして取り組んでいるようです。

 反対です。やはり基礎を固める時間に当てた方がずっと良い。児童生徒は、どこかに行こうとなれば、教室から解放されると歓声を上げるでしょうが、大人が一緒に喜んでいるわけにはいきません。

 ――「ゆとり教育」導入の際、文部省は「新しい学力」観を提示しています。つまり、知識よりも、生きる力を育(はぐく)むことこそ真の学力であるという論理で、その一環で総合学習も導入しています。

 今、文部科学省の中には少数のゆとり教育推進派を除けば、中山文科相を先頭に、「ゆとり教育」はまずかったと思っているでしょう。基礎あっての学力です。基礎があれば学力はどれだけでも付いてきます。国語力が豊かになれば論理的思考が可能となり、情操が豊かになり、日本人独特の美意識・美観が高められるのです。そのように無限に発展できるのは、基礎科目の学力のおかげです。それをおろそかにして、みんなで話し合って生きる力を育てようなんて議論は、こざかしいと言わざるを得ません。

 ――「ゆとり教育」見直しと言うと、一部からは「また、詰め込み教育に戻るのか」という反論が出てきます。

 基礎強化にはある意味の詰め込みは、避けることができません。算数の計算を例に挙げると、広島県の土堂小学校校長、蔭山英男氏は児童生徒に「百ます計算」をがんがん指導しています。彼が賢明なのは、児童の達成度や進捗(しんちょく)度に応じて、例えば六十点の子供が七十点取れば、良くできたと励ましつつ実施しているところです。ただ、タイムウオッチで時間を計り計算に取り組ませるのは、詰め込み教育そのものです。彼は、漢字も学習指導要領の枠を超えて、どんどん教えています。つまり、世の中がどう言おうとそれで学力が付いた方が勝ち、ということです。

 文部省は、学習指導要領を守れ、と叫んできたのに「あれは教えるべき最低ライン」と修正しました。それは、学力低下論争が激しくなってきて、文部省も「児童生徒の学習の上級志向を妨げない」と、世の動きに追従せざるを得なくなったためです。

 ――小学校における英語教育については。

 ブリヂストンに四十年務めて、海外担当常務もしました。大学卒業まで約千時間に上る英語授業がありながら、まったくもって社会で役立っていないという現実を嫌と言うほど見てきました。そういう体験もあって、早期英語教育を深く考えてきました。私の考えは少数の熱意ある限られた数、例えば一割の小学校児童に対して、少数教育を実施したらよい、というものです。

 私に言わせれば、小学校で生活科、社会科、家庭科など雑多な科目に時間を費やさず、週二、三時間の英語の特別教室を設け、やりたい人だけにさせる。これは選択なので極めて厳しく、予習をしてこない者はどんどん振り落としていくという方式です。

 要は千人の学童に中途半端な英語力を付けさせるよりは、十人のやる気のある者をしっかり育てるという教育ができないものか。小学校高学年や中学で行っている習熟度別授業がそれなりの成果を収めているようですが、ぜひ、英語の習熟度別授業を実施してほしい。そして英語のトップグループを重点的に育ててほしい。

 そのためには、全国の学校に国費で採用されている外国人のALT(アシスタント・ランゲージ・ティーチャー)は、このトップグループの生徒だけを教えるために活用してもらいたい。彼らは人寄せパンダではありません。ALTの側も気落ちしているのです。

 彼らは、彼らなりの使命感を持って来日しているのに、やる気のない大勢を教えなければならないので、達成感に乏しい日々を過ごしているのです。ALTの授業を受ける児童・生徒の数を限定すべきです。みんな一緒というのが一番よくない。英語は外国人と渡り合う際の“武器”なのです。その武器としての英語というものを念頭において、英才教育を行ってほしい。

<史実偏重が歴史嫌い生む/総合学習で「生きる力」育たず>

 ――教科書改善協議会を設立され、先生が教える教科書の記述そのものの改善にも取り組んでこられましたが。

 一番いけないのは、日本史です。これについては、「新しい歴史教科書をつくる会」や教科書改善協議会が戦っています。日本人として、日本国を誇りに思うことのできない方向に児童生徒をミスリードするような自虐的な日本史は放置できません。したがって日本人としての自覚と誇りを胸を張って語れるような記述のある教科書をより多く採択してもらいたい。一方、偏向歴史観に基づいた教科書の採用をしないよう、全国の教育委員に強く訴えたい。

 ――教育の最大要件は、教師の資質と思います。優れた教師を養成する、また採用するための手だてについて。

 まずは不適格教員を教壇に立たせないよう配置転換することが急がれていると思います。一方、試験を厳格にすれば良い人材が集まるかと言えば、一概にそうとも言えない面があります。試験だけに強く、指導力のない人が集まる可能性があります。ですから、“関門”の作り方は難しい。面接に時間をかけ、試験採用期間を設けるなどして教員適格者を確保するよう工夫が必要だと思う。

 ――一流大学の学生の不祥事が後を絶ちません。人格教育についてお聞きしたい。

 根本になるのは、国語と歴史の教育なのです。歴史とは、人々が歩んできた道程(みちのり)です。困難に直面したとき、その人物が何を思い、どう行動し、どのような歌を歌ったか。それをわが事のように身近なものとして学ぶ教材が大切なのです。歴史教材の中に多くの、このような情感ある歴史物語を小学校時代から学ぶのがよい。小学校で臨場感ある歴史を学び、そこから歴史上の人物の心情を理解する勉強を積み重ねて、その上で中学で社会史的な観点の歴史も学ぶ。

 そうなれば体系的に歴史を整理し、学ぶことができるわけです。ところが、今の子供たちの不幸は、アメリカの占領政策の影響を受け、史実として証明されないものは教えてもらえない。そのため歴史の物語の部分、情感面がばっさりと削(そ)がれてしまった。小学校六学年で史実と年号を暗記するような学習を行っているので、歴史嫌いの児童を生んでいる。

 古典は生涯にわたって知的な楽しみになります。古典教育を小学校でどう組み入れていくかという工夫が現行教育では不十分です。正しい理解と的確な表現という実用的な国語しか教えていない。しかし、国語には日本文化理解の面があります。文化志向の国語です。

 昔は貧乏だったけれど、清らかさがあった。昭和の初めにはなかった現代の犯罪は、日本人の美意識喪失に関係しているとみています。

 美意識が自己の行動を制御した。その美意識を育んだのが文化なのです。古典理解につながるような国語教育を早期から施し、美意識を養うような歴史の勉強をさせれば、生涯を通じてのよき読書家になります。それが私の日本人復活論です。





※現代の日本人はいつの間にか鎧(よろい)を身にまとい、ガシャガシャと音を立てて歩いているのだろう。言われてみれば確かに、「美しさ」というものが無くなっている。 

古典や和歌などを読むと、得も言われぬ美しさが漂っているように思う。これは言われてみなければ気が付かない、日本人の特徴なのかもしれない。

以前から、この「美」というものには関心があったが、美の極致にあるものは、それは崇高なる威厳だと思うし、最高の美とは、神・仏そのものということではないだろうか。

そして、特に、日本における美の極地には、あの伊勢神宮にあるような、広大な空間のなかにある聖なるひととき、聖なる空間、その気品、そこに、最高の美があるのであり、したがって、美の奥には、また、ひとつの余裕というもの、優雅さというものがあるということも真実だと思う。

しかし、今の日本人の価値尺度は、残念な事に、大部分が西洋思想にかぶれて利潤を追求し、収入を増やすことばかりに費やされているように思えるが、その人の生活が如何に優れているかどうかは、如何に美ということを心に掛け、心を傾けて生きているかということと、大いに関係があるのだろう。

この事からも分かると思うが、心から神仏を失ってきた現代の日本からは、美を表現する、本当の意味で芸術家はなかなか現れてこないだろうし、いい作品は残りにくいように思う。専門家ではないので生意気な事は言えないが、私が理解する芸術とはその様なものだ。

では、この「美」を取り戻すには、如何にすればいいのか。「美」の極致に神仏があるのであれば、まずは信仰心というものを今一度、心に呼び起こし、人と人の間にある琴線から見事な音が奏でられるようにすることだ。

人と人の間を、感動や感激あるものにしていく努力をすべきだろう。その為にも、自分が人に感動を与えることが出来る人間へと成長していかなければならないと思う。

4日前、九州北部を地震が襲ったが、あちらこちらから安否を気遣う連絡をいただいた。遠くはシンガポールからもいただいたが、これこそが「美しさ」であり、本来の人間の姿であり、目指すべき方向だと実感した。

平凡な日々の中でも、人と人とのつながりを絶えず大切にし、人のために自分から何かをする人間へと変わっていかなければならないと思う。心をかき乱さず、永い永い年月の間、人びとの心から心へと、美しい音色が伝わっていくように、善き手本となるような生き方を目指していかねばならない。 




by sakura4987 | 2006-06-21 16:17 | ■教育(読書・国語・英語)