2009年 04月 13日
(産経 2009/4/10) ■権威は皇室に連綿として在る ≪中国皇帝はあくまで権力者≫ 中国の皇帝と言えば、絶対的権力者というイメージがある。 確かに皇帝は権力の最頂点に立っている。しかし、権力を振るったあの秦の始皇帝といえども、すべて独断専行したわけではない。例えば称号についての審議を重臣に命じ、重臣は有識者の意見を聞いてから、「皇帝」という称号が妥当という答申をしている。 その後の歴代皇帝も、一般に、重臣との会議(朝議)の上に立って決断している。そうするのは、皇帝の地位が永遠に安泰というわけではなかったからである。 例えば、歴代皇帝208人の内、臣下に位を奪われて殺されたり、王朝が倒れて自殺した者は63人。この他、病死者の中に毒殺されたという噂(うわさ)のあった場合を入れると、無念の死者はさらに増えよう(樸人『帝王生活』)。 王朝の最後は無惨(むざん)である。例えば、明王朝最後の永暦帝は清に敗れて今のミャンマーに逃亡していたが、清王朝はミャンマーに兵を入れて恫喝(どうかつ)し、帝や皇太子を捕らえ、ともに斬首した。皇太子わずか12歳。それだけに終わらなかった。それから55年後のこと。ある王子は逃れて生き延び隠れていたのだが発見され処刑された。76歳の一農夫としてやっと生活していたのに(同『帝王生活続編』)。 ≪歴史や人間の在り方に差≫ このような権力闘争と異なり、我国の皇室は別の道を歩んだ。 時を遡(さかのぼ)ると、奈良時代、中国の律令制に倣って我国も律令制にし科挙制を立てた(考課令)。科挙制とは秀才・明経(めいけい)・進士(しんじ)・明法の科ごとに試験選抜して、合格者を中央官僚に任用する制度である。これは中央集権化するために必要な人材を得る方法であった。 しかし、我国では成功しなかった。と言うのは、律令制は国家が土地を所有して中央集権を図るわけであるが、まもなく荘園という私有地が現れ、それが拡大され転形して、実力で土地を私有する武士団が登場し、律令制が空洞化してしまったからである。 その極致が江戸時代の藩である。藩主は将軍家に従って土地を所有し、一方、朝廷から律令制に基づく位階を受けた。実(土地)は私的、名(位階)は公的という形だ。これが実は我国に幸いした。 各藩の行政官僚は武士であり、末端に至るまで藩主に忠誠心があった。そして明治時代となり廃藩になるものの、多くの元武士官僚が明治政府の官僚となったとき、藩主への忠誠心が天皇へのそれへと平行移動したのである。その結果、日本の官僚は公の精神が強く、私することが少ない。 ところが中国の場合、科挙官僚は皇帝に対して強烈な忠誠心があったが、ごく少数であり、圧倒的大多数の一般官僚には忠誠心を培う機会も環境もなかった。そのため、一般官僚には公の精神が乏しく、私すること(収賄)が多かった。それが今に至っている。 つまり、公務員の汚職発生が、中国では多く日本では少ないのは、律令制の実質化(中国)と形式化(日本)との差が背景にある。その上、律令制の実質化は皇帝に権力・権威をともに保証したが、律令制の形式化は天皇から権力を削(そ)ぎ落とした。この律令制は明治維新まで続いたので、位階を与える等の権威は存続した。権力を持つ幕府も天皇の権威をついに奪うことはできなかった。 天皇には、少なくとも室町時代以降、権力がなかった。一方、中国皇帝には権力があったので、それを奪おうとする者が現れる。これが日中両国の歴史や人間の在りかたの大きな差となってくる。 ≪政治的安定もたらす中核≫ すなわち、日本では、権力の交替があっても、天皇の権威は奪われず常に権力の上に立ってきた。中国では、王朝の交替とは権威・権力の両方を奪うことであった。 今日、世界の正常な国では、政権(権威・権力)は民主主義すなわち選挙方式によって承認される。だから、選挙結果によって権威・権力を失うことがある。そのとき、一種の不安定な政情となる。しかし、我国はそうではない。我国の政権には、権力はあるが権威はない。首相は権力者ではあるものの、権威は皇室に在る。 現代日本人はどの首相に対しても敬意を払わない。首相に権威を認めていないからである。だから、首相がいくら交替しても、権威は不動であるので国家として不安定とならない。これが我国の底力となっている。 我国はどのような危機に際しても、権威の不動によって政治が安定しており、必ず立ち直ることができたのである。それはこれからもそうであろうし、またそうでなくてはならない。 その意味で天皇は政治における中核として内在している。単なる文化的権威や祭祀(さいし)者に終わらない。それが証拠に、ほとんどの日本人は、権威ある天皇を元首として意識しているではないか。これは強制や法制によるものではない。皇室に対する絶えざる自然な敬意に基づくものなのである。 天皇、皇后両陛下のご成婚50年を機に、そのことをしみじみ噛(か)みしめている。 2009年 04月 13日
(産経-抜粋 2009/4/9) とりわけ、祭祀を中核とする皇室の伝統を重視されるご姿勢には格別のものがあり、平成9年8月19日には京都の石清水八幡宮を天皇としては120年ぶりに参拝された。 これは現代の日本が元寇や幕末動乱期に匹敵する国家的危機にあると認識されて、往時の亀山上皇と孝明天皇を範とされた国難打開のご祈願であったと承っている。 2009年 02月 14日
(IBC 2009/2/11) http://news.ibc.co.jp/item_10436.html 今日は建国記念の日です。これに合わせて県内では、建国の日を祝う催しや、考える街頭活動などが行われました。 このうち盛岡では、建国記念の日を祝う県民大会が開かれ、県内各地の神社関係者など、およそ600人が出席しました。建国記念の日は今から2669年前、初代天皇の神武天皇が即位したとされる日で、奉祝会の西舘勲会長は「激動の時代だからこそ、あらためて古を思い、国の未来を考えることが必要だ」と、建国記念の日の意義を強調していました。 一方、盛岡市内の街頭では、社民党と労働組合で組織する憲法擁護岩手県連盟が、「紀元節を復活させ、戦前に時代を戻すもの」と、建国記念の日への反対を訴えました。伊沢昌弘議長は「日本は経済が低迷し、失業者が増える中で、過去2回の大戦に突入していった。今こそ憲法を守り、政府は雇用対策に集中すべきだ」と演説に力を込めました。 2009年 02月 11日
(産経 2009/2/11) 43回目の「建国記念の日」を迎えた。国民の祝日としてはすっかり定着したといえる。しかし、今年も政府が主催する式典は行われない。かつてない経済危機で、国民の結束が必要な今こそ、こぞって建国を祝うことができる方法を考えるべきだ。 「建国記念の日」は戦前の「紀元節」を引き継いだものである。その「紀元節」は、明治維新のさい『日本書紀』で初代神武天皇が即位したとされる2月11日を選んで制定された。 西欧列強に植民地化されるかもしれない危機の中、新しい国づくりに乗り出すに当たり、建国の歴史を学ぶことで、国民に一致団結を呼びかけたのだった。 戦後、占領軍によって廃止されたが、国民の強い要望もあり、さまざまな曲折を経て昭和42年、名称などを変えて復活した。 しかしその後、学校や家庭でこの日の意義について教えることは少なく、せっかくの「建国記念の日」が次第に空洞化してきたことも事実である。 政府にも、積極的にこの日を祝い、PRしようという姿勢が欠けてきた。わずかに財団法人が開く「建国記念の日を祝う国民式典」を後援、時の首相があいさつをするだけだった。 その式典も財団の解散により4年前に中止され、政府はまったく「建国記念の日」にタッチしない事態が続いている。民間団体による式典はいくつか開催されているが、今年、麻生太郎首相が出席する予定はない。 国際的にみても、国が制定した建国の記念日を政府自らが祝わないというのは、異例なことと言わざるをえない。 特に今、米国の金融危機から始まった世界的不況で、各国は生き残るために懸命である。国際紛争も絶えず、それぞれ解決に向けての貢献を求められている。 だが日本の政治は、政府や各党がバラバラで、党利党略の抗争に走っている。こうした時代だからこそ政府も国民も結束を強め、不況克服ばかりでなく、将来の国のデザインを考えていかなければならない。 そのためには、明治政府がそうしたように、まず建国の歴史をその中心に据えたい。今後、政府が率先してこの日を祝う方法を考えてほしい。単なる休日としてではなく、国の成り立ちに思いをはせる日としたい。 2008年 11月 26日
(産経 2008/11/25) ■1世紀前に「象徴天皇制」示唆した福澤 8日、天皇、皇后両陛下は神奈川県・日吉キャンパスで行われた慶応義塾創立150年記念式典に出席された。約1万人の教職員、卒業生、現役学生らに、天皇陛下は「(福澤諭吉は)著作を通じ、また慶応義塾の教育を通して、わが国の人々に大きな影響を与えました」と挨拶(あいさつ)された。 両陛下は今年5月16日にも、三田キャンパスの慶大を訪問され、天皇陛下が皇太子時代の昭和24(1949)年から、東宮御教育常時参与を務めた故小泉信三・慶応義塾長の「生誕120年記念 小泉信三展」をご覧になった。小泉は皇太子殿下に“帝王学”をご進講する一方、殿下がテニスを通じて知り合った皇太子妃美智子さまとのご婚約に大きな役割を果たした。 小泉はご成婚後の34年、東宮参与となり、41年5月、心臓発作で急逝した。両殿下は2度も小泉邸を弔問されたほか、翌年4月、日本橋・三越で開かれた「小泉信三展」をご覧になっており、三田では41年ぶりの“再会”だった。 ≪■『帝室論』で帝王学≫ 両陛下は、三田の「小泉信三展」を予定の時間をオーバーしてご覧になった。特にご熱心だったのは、陛下が小泉と一緒に勉強した諭吉の『帝室論』と『ジョージ5世伝』を展示したコーナーだった。 『帝室論』は、小泉が神田の古書店で2冊購入し、陛下と交代で音読した。『ジョージ5世伝』は、英国王ジョージ5世の生涯を記した大著で、小泉は陛下と原書で読んだという。 たまたま展示ケースには、小泉が2回読了したことを書き込んだページが開かれており、両陛下は懐かしそうに見入られていた。案内役を務めた慶應義塾福澤研究センター所員で看護医療学部教授の山内慶太(42)は「余計な説明を申し上げる必要がないほど、両陛下はひとつひとつ丁寧にご覧になっておられました。それぞれに思い出がいっぱいおありのようで、お二人でお話しされていることが多かった」と話す。 福澤は『帝室論』で、冒頭の「帝室は政治社外のものなり」でわかるように、皇室は政治とはかかわりなく、高く仰ぐ存在とすべき-と説いている。 明治15(1882)年当時、『東京日日新聞』の社主、福地源一郎が国会開設などについて“漸進論”をとる他の新聞人、政治家と謀って「立憲帝政党」を組織、自由民権運動グループと対立した。福澤は、帝政党や東京日日新聞が尊皇主義を掲げて他党を非難中傷するのを危惧(きぐ)し、皇室の政治利用を批判する社説『帝室論』を執筆した。 ≪■当時は理解されず≫ 『帝室論』は、創刊したばかりの時事新報で15年4月26日から5月11日までの計12回連載された。同論は連載中から大きな反響があり、終了後すぐ単行本として刊行された。 今年5月30日、慶大の三田キャンパスで開催された福澤研究センター開設25周年記念講演会で、武蔵野大学学長の前福澤センター副所長、寺崎修(63)は「福澤の近代化構想-天皇・議会・内閣・地方制度を中心に」と題して講演し、『帝室論』などを取り上げた。 寺崎によると、福澤は帝政党が皇室のことを取り上げて他党を批判するのは帝室を政争の具にするもので、かえって帝室の尊厳を傷付ける-と指摘。その上で、「帝室はあくまで政治社外のもので、学問教育の振興、日本固有の芸術の保護など、国民の福祉、文化的事業の中核となって、国民統合の役割を果たすべき」と主張したという。 だが、帝室の尊厳と安泰を願う福澤の真意は長い間、理解されず、逆に帝室を軽視するものとして各方面から批判された。昭和12年には、慶大が『帝室論』を収録した『福澤文選』(冨田正文・宮崎友愛共編)を予科学生のテキストに使用したところ、文部省(当時)から「不適当」とされたこともあった。 だが、寺崎は「太平洋戦争後、新憲法が制定されると、福澤の所論は現憲法下の象徴天皇制の精神に合致することから、一転して再評価された。ですから、今上天皇が皇太子だったとき、教育参与となった小泉は、この本を教科書として使い、若き皇太子と輪読した」と話す。福澤は1世紀以上も前に、象徴天皇制を示唆していたわけだ。=敬称略 2008年 07月 07日
(聖教新聞 2008/7/1) http://www.seikyonet.jp/sg/sp/shimen/headline/index/1214863141649/1 ブラジルへの日本人移住100周年を慶祝するパラナ州の記念式典が6月22日(現地時間)、同州ローランジャ市の「日本移民センター」に隣接する広場で盛大に開催された。ここでは、ブラジルSGI(創価学会インタナショナル)の青年部約500人が演奏と演技を披露した。式典には、皇太子さま、ジョゼ・アレンカール副大統領、パラナ州のロベルト・ヘキオン州知事、アントニオ・ウエノ元連邦下院議員らと、式典委員会の招聘を受けた池田SGI会長の名代として池田博正SGI副会長が出席した。 ≪画像≫ http://pict.or.tp/img/64518.jpg http://www.yuko2ch.net/mako/mako/src/1214882048961.jpg ≪説明文≫ ブラジルSGIが日本人移住100周年を祝賀する組み体操を披露。呼吸がぴったり合った見事な演技に、来賓、参加者から大拍手が送られた。この模様はパラナ州の教育テレビで生中継され、ブラジル全土、南米大陸にも放映された(6月22日、ローランジャ市で) 2008年 06月 10日
(産経 2008/6/5) http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080605/imp0806050311000-n1.htm ≪■原武史教授の提言≫ 目の前の些事(さじ)に目を奪われ勝ちだが、わが国の根幹にかかわる危機は確実に進行している。皇室の危機のことだ。 皇室を巡る危機は大きく2つある。1つは言うまでもなく、皇位継承問題だ。幸いにして秋篠宮家に悠仁親王殿下が誕生して男系・女系を巡る皇室典範改定の危機はひとまず去った。だが、悠仁親王殿下が皇位を継承される頃にはすべての宮家が消滅する。旧宮家の皇籍復帰など皇族の数を増やす措置が必要だろう。 2つ目の危機はいっそう深刻だ。最近、皇太子妃殿下のご病気の原因として宮中祭祀(さいし)に違和感を持たれていることが指摘され、そこから宮中祭祀の大幅な簡略化ないし廃止が唱えられるようになった。宮内庁も天皇・皇后両陛下の健康問題を理由に、少なくとも簡略化の方向にもっていきたい意向だ。 宮中祭祀廃止論の主唱者である原武史・明治学院大学教授は今の皇太子殿下・妃殿下が天皇・皇后になられる時代には、お堀の外からは見えない宮中祭祀より、もっとダイレクトに、例えばネットカフェ難民(低所得のため住居がなくインターネットカフェで寝泊まりしている若者)やプレカリアート(就労の不安定な労働者を意味する造語)などを皇居に招いて食事を振る舞うなどの「救済」をしてはどうかと提案する(『現代』5月号)。 ≪■創られた伝統ではない≫ しかし、宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ。天皇はその始まり以来、一貫して「国平らかに民安かれ」と祈る祭祀王であり、祭祀をしない天皇など語義矛盾でもある。『日本書紀』には皇祖神・天照大神が祭祀を行う記述が散見されるし、初代・神武天皇も「天神地祇を敬ひ祭る」存在として記述されている。欽明天皇の時代に仏教を導入することの是非が議論された際にも天皇の役割を「恒に天地社稷の百八十神を以て、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事とす」との記述が見える。 今日の体系的な祭祀の基礎が完成したのは、「延喜式」(927年)であり、律令時代には祈年祭、月次祭、新嘗祭が重視された。歴代天皇の祭祀に対する基本姿勢は第84代・順徳天皇の『禁秘抄』にある「凡そ禁中の作法、神事を先にし、他事を後にす」との言葉に尽きている。宮中の作法はまず神事すなわち祭祀があり、その他のことは後回しということだ。 原氏は今日の宮中祭祀は「祭祀を『国体』の根幹と見なす後期水戸学の影響」であり、明治になって確立したものだと主張する(『昭和天皇』岩波新書)。「創られた伝統」であるがゆえに廃止も可能だということだ。この論は意外にも浸透しつつあるが、以上に見た通り、宮中祭祀は何も明治になって「創られた」ものではない。応仁の乱以降は中絶した儀式もあったが、第119代・光格天皇の御代や明治になって再興され、また新たな祭祀が創出され、明治41年の皇室祭祀令で法的な整備がされた。戦後は皇室の「私事」とされたが、基本的にはこれを引き継いだものだ。 昭和天皇、今上天皇はことのほか宮中祭祀にご熱心であり、原氏はそこに違和感を覚えているようだが、それは皇祖皇宗のご姿勢そのままに「祈る」存在としての天皇のお務めに忠実であるということに他ならない。 ≪■新種の天皇制廃絶論≫ 宮中祭祀の簡略化ないし廃止が唱えられるようになったのは今が初めてではない。既に昭和40年代の初めあたりから、入江相政侍従(後の侍従長)を中心に動きがあり、入江は昭和天皇の高齢を理由に新嘗祭の廃止や元旦の四方拝の簡略化などを画策し、一部は実現させている。その背景には入江自身の思想とともに、「無神論者」を自称した富田朝彦宮内庁次長(後の長官)の就任や、政教分離をテーマにした津地鎮祭訴訟に過度に反応して皇室から宗教色を排除しようとした宮内庁官僚の動きが指摘されている(メールマガジン「斎藤吉久の『誤解だらけの天皇・皇室』」)。なお、今上天皇が宮中祭祀にご熱心なのは、入江らの動きへの反発であり、簡略化された祭祀を再興しようとのご意志の反映とも考えられる。 最近の簡略化ないし廃止の動きが過去のこのような動きとどのように関係するのかは定かではないが、日本の伝統に違和感を覚える一部の外務官僚が宮内庁に影響力を拡大していることと無関係とは思えない。また、原氏の背景も気になるところだ。 繰り返すが、宮中祭祀は皇室の存在理由そのものだ。皇室から「祈り」を奪う動きは、本人の意識はともかく、新種の天皇制廃絶論と断ずる他はなかろう。 2008年 05月 12日
(読売 2008/5/9) http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080509-OYT1T00440.htm 皇居わきに立つパレスホテル(東京都千代田区)が、現在の地上10階から23階建てへの建て替えを予定していることがわかり、宮内庁が計画の変更を要請している。 皇居内にある宮内庁病院の窓が客室から見えるようになるためで、同庁は「天皇陛下や皇族方も入院されるだけに、プライバシー保護への高度な配慮が求められる」と訴えている。 パレスホテル側が同庁などに示した計画によると、建て替えにより、同ホテルの高さは現在の約30メートルから約100メートルになる見込み。 来春から工事を始め、2011年秋に完成、12年春に営業を再開する予定だ。 同ホテルと宮内庁病院との距離は約200メートル。病院の2階には皇室専用の御料病室が2部屋あり、最近では01年11月に皇太子妃雅子さまが愛子さま出産のため、02年12月に天皇陛下が前立腺の組織検査のため、昨年6月に三笠宮寛仁さまがアルコール依存症治療のために入院されている。 今はホテルの最上階に立っても樹木に遮られて病院の屋根付近しか見えないが、建て替え後は、高層階のバルコニーから御料病室の窓が見えるようになるという。 宮内庁が昨年末以降、計画変更を再三申し入れてきたのに対し、ホテル側は「10階以上のバルコニーに特殊なスモークガラスを使ったスクリーンを設けて、病院の方向が見づらくなるよう配慮する」などと回答。しかし、同庁は「ホテルからのぞかれかねないという意識は消えない」と反発、病院の近くに両陛下が使用されるテニスコートもあることから、「警備上の問題も生じる」としている。 パレスホテル広報室は「まだ計画を公表できる段階ではなく、コメントを控えたい」と話している。 ■東京・皇居前 パレスホテル 〒100-0005 東京都千代田区丸の内1-1-1 TEL:03-3211-5211 FAX:03-3211-6987 2008年 05月 07日
(FNN 2008/4/30) http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00131874.html 戦争中の昭和天皇の生活がうかがえる侍従武官の手記が見つかった。 食事について、「一汁二菜、お香物位(おこうのものぐらい)」と記されるなど、質素を好んだ昭和天皇がしのばれる。 「宮殿炎上」と題されたこの手記は、1936年から日米開戦前年の1940年まで、軍部との連絡役である侍従武官を務めた山澄 貞次郎元海軍少将が、終戦後に記したもの。 手記には、昭和天皇の戦争中の生活について、「何事にも堅実簡素を尊ばれる」などと書かれ、食事は「白米を召し上がらず、七分づきのご飯に、一汁二菜、お香物位で、皆が想像するように、山海の珍味を並べる王者のお食事とは全く違う。私は、金持ち連中は少しは自重しろと憤慨した」と記されている。 また、何事にも仰々しいことを嫌う昭和天皇が、側近らに対して、「なかなか趣旨が徹底しないのは困ったものだ」などと苦言を呈していたエピソードもつづられていて、その人柄がしのばれる。 2008年 04月 20日
(産経 2008/4/19) ◆興隆のカギは「寛容」 唐突な申し出でなんだが、いま中国の人びとに読んでもらいたい本がある。とりわけ北京の指導者たちにすすめたい。 塩野七生さんの巨編『ローマ人の物語』(新潮社)である。 北京五輪聖火リレー混乱で吹きつける逆風を受け、中国人は分厚いナショナリズムのマントを一層かたくなに身につけて“団結”しているそうだが、そういう時だから読んでほしい。15巻全部を読み通すのは大変だから、第1巻『ローマは一日にして成らず』だけでもいい。決して損にはならないだろう。 紀元前8世紀の昔、古代ローマ人のローマ帝国が興隆した要因は何だったのか。ギリシャは早く没落したのに、パクス・ロマーナ(ローマの平和)はなぜあんなにも長く続いたのか。 塩野さんは3人の古代ギリシャの史家の見方を総合して、「ローマ人は勝って譲った。ローマの宗教には狂信的な傾向はなく、敗者の宗教を認めた。宗教を認めるということは、他民族の存立を認めるということである」と記している。つまりローマ帝国が興隆したカギは「寛容」にあった。古代ローマ人が地中海の覇者になり、パクス・ロマーナを維持できたキーワードは「寛容」だったと結論していた。 これは公認だけで55という少数民族を版図に抱える中国にとって、すこぶる含蓄に富んだ示唆ではないだろうか。とりわけチベットの騒乱という流血の事態を迎えて、大いなる歴史の教訓と考えるのだがどうだろう。だから『ローマ人の物語』の熟読をすすめるゆえんだ。 ◆“辺境の目”で見る 産経新聞の先輩・司馬遼太郎さんの中国史観の根底をなすものは“辺境の目”だった。 「中国における少数民族は五十六種というが、それぞれの先祖たちは、ながい歴史のなかで低地に降り、その血液と文化を中国文明というるつぼのなかに溶けこませた。逆にいえば少数民族の固有文化こそ文明という普遍性に昇華する以前の細片群だと思うのだが、漢民族はながくそのことを考えず、自分たちこそが華(文明)で、僻境(へききょう)にのこって固有文化をもちつづける集団は夷だと思い、華・夷は対立概念であるとした」 これは『街道をゆく/中国・蜀と雲南のみち』の一節で、司馬さんは“華夷(かい)秩序”へ強い疑問と深い不信を抱いていた。中国はチベットの宗教や習俗を卑しい「夷」として弾圧し、封殺してきたのだから。 司馬さんの『台湾紀行』もまた同じ“辺境の目”の産物で、李登輝総統(当時)との対談でこう語っていた。 「中国のえらい人は、台湾とは何ぞやということを根源的に、世界史的に考えたこともないでしょう。中国がチベットをそのまま国土にしているのも、内蒙古を国土にしているのも、住民の側からみればじつにおかしい」 いま聖火リレーが各地の対中非難と抗議のリレーになっているのは、その“おかしさ”に対する世界の同感にほかならない。中華民族という名の単一民族国家のまやかしが露呈している。チベットという他民族の宗教や言語や習俗をむりやり漢民族化へ統一したことのひずみが一斉に噴きだしているのだろう。 ◆「高度の自治」の実現 さて、26日に聖火リレーが行われる宗教県・長野だが、長野と善光寺は不可分の関係にある。そして善光寺の宗教文化のキーワードもまた「寛容」なのだ。 この寺はあらゆる宗派を超えすべての人に門戸を開いている。善光寺に参詣した松尾芭蕉にも「月影や四門四宗もただ一つ」の句があった。善光寺の仏さん(前立本尊)は、戦国武将の間を渡り歩いた。上杉、武田双方が仏さんや寺宝を迎えてまつったという話もある。争うどころか仏さんを共有財産にしていたというのである。 地球が宗教の抗争や民族の対立に明け暮れているいま、長野という都市がオリンピックを開催したのは、その意味でもふさわしかった。したがって長野の地の聖火リレーは、日本の宗教文化「寛容」を世界に発信する役割を負っているともいえるのである。 温故知新。中国には大きな歴史の教訓を学びとってもらわなければならない。胡錦濤国家主席の5月訪日を待つまでもなく、福田首相は中国にそのことを強く催促すべきなのだ。それができないような指導者は、一刻も早くやめてもらわなくてはならない。 中国が学ぶべき歴史の教訓「寛容」とは、ダライ・ラマ14世との実りある対話で、チベットの「高度の自治」は実現すべき最低限の“木の実”である。 < 前のページ次のページ >
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