2008年 10月 11日
「政治の混迷を打開するには」 (産経 2008/10/7) ■情報に惑わされず正しい判断を 「政局」という言葉をニュースなどで聞くと、その当事者たちが、いったい誰のために、何をしようとしているのかと、いつも憤りを感じる。「国民のために」と口では言いながら、「自分が権力を握る座に就きたい」という欲が透けてみえるからである。 国民を幸福にし、国家を繁栄させ、外の脅威から守るために、自らが持てる知識と経験を生かす努力をする人たちは政治家と呼んでも良いと思うが、国民を利用して「私が、私が」と騒ぐ人たちは、政治屋と呼んで区別すべきではなかろうか。 戦争で何もかも失った日本人は、欧米諸国のような物の豊かな暮らしを目指し、がむしゃらに働いた。当面の目標やそれを実現するためにやるべきことがはっきりしていたから、政治家が「こうしよう」と判断し、国民に呼びかけることはたやすかった。国民も、政治家の言葉を信じて目標達成のために働けばよかったのである。 しかし、東西冷戦構造は過去のものとなり、国際社会はますます多極化して複雑になった。これまでのように、アメリカのご意向をうかがい、中国や朝鮮半島のご機嫌を損ねないようにして気をつかいながら政策を考えてばかりいたのでは、日本は国際社会の発展から取り残されてゆくだけだ。関係の深い国々とできるだけ良好な国交を維持するための配慮は必要であろうが、今、日本と日本人に必要なのは、他国の反応がいかなるものであろうとも、「日本はどのような姿の国家であるべきかを考える」ことであり、「国際社会において、他国から尊敬され、あこがれられる国になる努力をする」こと、そして「決断すべきは決断し、勇気をもって断行する」ことではないか。 ◆◇◆ 今思えば、安倍晋三元首相は、日本のあるべき姿の土台となる憲法の改正、強く豊かな国の土台となる国民を育てるための教育改革、行政を腐敗させる元凶となっている公務員制度の改革に取り組んだ。外交面でも、就任後すぐに中・韓両国を訪問して友好的な関係を強調する一方で、国の安全保障に不可欠な防衛庁を省に格上げするなど、日本がやらなければならない最優先課題を選択し、実現するために果敢に挑んだのだった。 ところが、安倍氏の改革は、日本が抱える病巣と、そこに巣くう「悪」に、あまりにも直截(ちよくせつ)に切り込んだものであったので、せっかく、日本が混迷から脱出する端緒が開かれそうであったのに、さまざまな批判で追い込まれて退陣してしまった。その責任はいったい誰にあったのか。 それは、表層的なことに目を奪われ、無責任なマスコミが喧伝(けんでん)するいい加減な情報に目をくらまされてしまった国民にあったのではないか。日本は一応、民主主義の国である。自分たちの願いを代弁してくれる政治家を選挙で選ぶことができる。だとしたら、政治家の質が低下し政治が混迷しているのは、私たち国民の責任である。決断力のない政治家や、エゴむき出しの政治屋に政治を任せたのは、国民自身なのだから、今さら愚痴や不平不満を漏らすだけでは無責任極まりない。 しかし、国民が政治家を選ぶ際の根拠となる、日本のマスコミが流す情報は、あまり信用できないというのが、悲しい現実である。マスコミが偏った知識や情報を繰り返し流すことによって、国民の大多数が洗脳され、間違った判断を下しているとしたら、それは大変恐ろしいことである。 このような状況下で、当面われわれが頑張れることは、国民はテレビやインターネットの情報に惑わされず、自分で勉強して正しい知識を蓄え、正しい判断ができるように努力すること。マスコミは、国民を正しく啓蒙(けいもう)するという本来の使命を果たすこと。政治家は、力強い言葉を武器に、マスコミに多少批判され、たたかれても負けないだけの論戦能力を身につけることであろうか。 ◆◇◆ 今、日本は経済的にも苦境にあり、多くの国民が国に対して「なんとか助けてほしい」と叫んでいるが、自助努力の精神で、一人ひとりが「火事場のばか力」を発揮すべきである。世界を見渡せば、もっと苦しい状況にある人びとばかりなのだ。自分のことだけに汲々(きゅうきゅう)とせず、多くの人を幸福にしたいという大きく深い心を持てば、日本国内の政治の混迷など、あっと言う間に打破できる力が日本人にはあると、私は信じている。 2007年 08月 25日
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ■【日本考察論】~今のニッポンが見える!~ 「賢く生きる」 執筆 福田将平 ご意見やご感想はこちらへどうぞ。 linglideren-kashikoku2@yahoo.co.jp ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 「著作権というものの限界」 Webやインターネットの技術が発達して、いろいろな過去のパラダイムが変 わりつつあるが、その中で大きなテーマの一つが著作権の問題であろう。文章 や写真、絵画、その他文芸創作物や芸術作品、映像、ゲームなど対象は多岐に 渡る。これだけ対象が多岐にわたり、その創作の過程がそれぞれのジャンルに よって大きく違うのにもかかわらず未だに旧来的な考え方で著作権という一つ の考え方でこれらを統制しようとしている。 例えば、いわゆる文章などによる創作物は日本人は日本語で書くことが多い。 日本語に限らずそれは大抵言語を使って書かれている。作家の柴田翔氏は「私 たちは、過去数千年にわたってしゃべったり、書いたりして作りあげてきた日 本語、その表現力を無料使用して、作品を書いている」と言う。これは創作、 創造というものに非常に効果的な光を投げかけるものである。そもそも人が無 から何かを創り出すということは滅多にあるものではない。創造とは基本的に は今あるもの、過去からあるもの、アイディアをその時代に合わせたり組み合 わせたり改変したりして行う作業である。 誰が最初に言ったかは知らないが有り難い教えや言葉は、アリストテレスや老 荘、孔孟、など挙げたらきりがないがもう過去の偉人や哲人がそのエッセンス は言い尽くしている。経営者や成功者が語るものはあくまでそれらのその人な りの経験に基づく体現の過程だったり結果だったりしてそれらが本当に何もな いところから初めて創られたかというとそうではない。またその過程でも使っ ているのは他人の経験や言葉など、時には他人の創作物でもあるだろう。 また視点を変えると、音楽や文章は権利の問題はさておき、一度ネットに公開 すればそれはその瞬間から無断使用の対象となりえる。無断使用されている現 場を押さえることも困難であるからその権利も主張する術もない。逆に言うと ネットという公共の場に置くことはすなわちその時点でそれらの権利を主張す ることは実質的には不可能なものとなる。 それではこれからの時代、何が価値を保持できるのだろうか?一つにはこうい う考え方もあるだろう。同じ言葉を喋るにしても、その人がその時に喋るもの とそれに付帯する雰囲気とそこから得られる満足感は再現不可能なその時固有 のものである。究極的にはそういう瞬間瞬間に価値が付されていくだろう。書 かれたもの、映されたもの、写されたもの、その他これまでの「古い」著作権 の対象であったようなものはその権利的な根拠を失い単純なその瞬間の価値の ための無料の宣伝媒体にしかならないだろう。 ※2007年8月14日付け日本経済新聞夕刊「あすへの話題」 「日本語の無料使用」柴田翔 2006年 06月 20日
発がん性着色料 外資系ブランドも 平成17年4月1日(金) 産経新聞 発がん性が指摘され、食品への使用が禁止されている工業用着色料スダンレッド1が中国の加工食品などに広く使われていたことが判明し、社会問題化している。中国に進出し現地生産・販売を展開しているハインツ、ケンタッキー・フライドチキン(KFC)など有名外資系ブランド食品にもこの赤色汚染は広がっており、中国の食の安全問題では日中の貿易摩擦にまで発展した残留農薬野菜以来の規模だ。 同着色料については、二〇〇三年にこの着色料で色づけしていたインド産唐辛子を使用し製造された調味料がEU域内市場に出回るなど大問題となったことがある。 今回の騒動も発端は英国で、今年二月に英国国内でソースやチリパウダーなどの四百種余りの食品への使用が再度発覚。中国国内でこの着色料が唐辛子加工製品や調味料、ハム、ソーセージ、カップめんなどに広く使われていたことが判明した。 中国では一九九六年に食品添加物衛生基準が制定されスダンを含む工業用着色料の食品への使用は禁止されたが、実態を監視・管理するシステムがなく野放し状態だったようだ。全国各地で連日数百キロ単位のスダンレッドの押収が報告され、ブラックリストにあがった食品は二十日時点で六百十八種。その中には原料を現地調達する外資系ブランド食品も含まれショックが広がった。 外食産業に広く流通しているハインツ子会社のハインツ美味源(広州)食品製造のチリソースなど六種の調味料、全国千二百の店舗をもつKFCの五種類の商品に使われていた調味料、日清食品と中国企業との合資企業・金海岸永南食品公司(珠海)が製造するカップめん四種類などからこの着色料の使用が確認され、各メーカーともすでに商品の回収、破棄を行った。 外資系ブランドといえど中国で安全な原料を調達し品質を確保するシステムが確立されていなかったことを露呈した。経済的影響はまだ推計がないが、KFCについては商品販売を停止した一週間だけで三千万元(一元=約十三円)の損失とされている。 中国におけるKFC運営統括を行う百勝餐飲集団の広報責任者は「われわれの管理に穴があった」と非を認め「原料提供企業の厳選に力を入れる」と改善を約束。日清食品側は「来年一月に上海に食品安全研究所を設立する」とし原料の安全性をすべて独自で確認する方針を打ち出した。一方、広州市当局はスダンレッドの製造元のひとつと特定された広州田洋食品の責任者をすでに拘束、刑事責任を問う方向で捜査が進んでいる。 日本の厚生労働省はスダンレッド問題が表面化した〇三年以降、唐辛子製品を中心にスダンレッドの検査を行っているが、今回の中国での騒動を受けて、検査・監視の強化を通知したという。 ◇ スダンレッド タール系色素の一種。靴クリームなどに使われている。赤はスダンレッド1から4まであり、いずれも国際がん研究機関(IARC)で発がん性を指摘され、世界のほとんどの国・地域で食品への使用を禁じられている。 ※支那・北朝鮮・韓国の3国をまとめて言う便利な言葉はないだろうか。この3国は、実際どうしようもない国家だ。支那人の中には律儀な人が多いとも聞くが、とんでもない人間も多いようだ。 韓半島民族は、それよりもっと扱いにくい人間が多いようで、日本国土に足があったなら、引越ししたいものだとつくづく思う。韓国でも腐った餃子を売っていた事があったが、支那と似たり寄ったりだし、北は言うに及ばずといったところか。 とは言うものの、我が国でも三菱自動車などのような、信じられない事件が起こったし、自我我欲が強い国になりつつあるのだろうか。根性はなくなっていっているので、責任を取らないただの金儲け国家、ちょろまかし国家へと転落しているのかもしれない。 韓流ブームといい、政治家の支那詣でといい、道義国家としての自負もなくしてしまったようで、これを食い止める術も今のところ期待できないし、将来が思いやられて仕方がない。 さて、上記の記事についてだが、中国産の食品は買わない事にしよう。最近、わけあってスーパーで買い物をする事が多いが、中国産の野菜などは一切買わないようにしている。とてもこの国は信じる事は出来ないし、せめてもの抵抗でもある。 確かに、中国産の野菜は安いので、つい手が伸びようとするが、それをこらえて、日本産のものを買うが、家族や子供を愛する人なら当然の行動ではないだろうか。 少々高くても、それは家計を預かる人の努力で絶対にカバーできると思うし、家族のためを思って食事を作るならば、中国産の食品を手に取る事には躊躇するのが当たり前だと思う。 食事はえさを作っているのではなく、愛情を提供しているのだと思う。少々まずくても、やはり出来立ての食事はおいしいし、手作りはやはりおいしい。それを子供たちがガツガツ食べる姿は、食事を作る者にとっての醍醐味ではないだろうか。 自分が努力して作った食事を、喜んで食べてもらうというこの嬉しさが、今の女性からどんどん消えていっているようだが、本当に不思議で、不思議で仕方がない。人に何かをしてあげて、その人が喜ぶほど嬉しい事はないのではないだろうか。 たとえ喜ばなくとも、人に何かをしてあげるという事は、自分にとってこれ以上の嬉しさはないのではないだろうか。この嬉しさが分からない人は、たとえ外で仕事をしても、本当の喜びというものは分からないだろう。 現在の女性論の間違いはここにもあるのだ。人間の喜びは、人に尽くす事にあるという事を知らない人たちが、偽物の自己実現をはやし立てているに過ぎないのだ。 人に尽くす事こそが喜びだと知った女性は、家庭を切り盛りする事が最大の喜びの一つだと分かると思うし、その様な女性がいてこそ、子供はその愛情によって安定した生活を送るのだと思うし、夫も嫌な仕事でも頑張ろうと奮起するのだ。 全ては家庭から始まるのだ。全ては光り輝く家庭によって始まるのだ。そう考えれば、全世界は女性の手中にあるのだ。全世界は女性によって出来上がっていくのだ。これほど誇りある仕事があるだろうか。これほどやり甲斐がある仕事があるだろうか。 この事を今一度、わが国民は確認して、馬鹿げた法律や言説に惑わされる事がないようにしなければならないと、心から祈り続けたい。 2006年 06月 20日
平野啓子 平成17年3月23日(水) 産経新聞 ![]() 「いつでも、どんなときでも、あなたを愛している」。こんなふうに言ってくれる人が、自分の身近に一人いるだけで、どれほど生きる力がわいてくるだろうか。 そんな無償の愛を子守歌で息子に聞かせる母の姿を描いた絵本「ラヴ・ユー・フォーエバー」(岩崎書店)は、全世界二千万部のベストセラーである。子供に即興でお話をつくるというアメリカの“お話おじさん”ロバート・マンチ氏の作品だ。 私はこの絵本の話をぜひ多くの人に聞いてもらいたいと思い、読み聞かせをしてきた。最初は子供向けのイベントで。しかし、主催者の男性が涙ぐんで聞いてくださる姿に行く先々で出会い、ビジネスマン対象の講演会などでも読んできた。 大人向けの場では、絵本を取り出した途端、客席に「子供じゃないのに、なぜ」という空気が広がる。しかし、公演終了後、若いビジネスマンの方々も年配者も、男女を問わず涙ぐんで、「母親を思い出した」「親の愛を改めて感じた」といった感想を話してくれる。 どんなときにも自分を信頼して見守ってくれる存在を、大人も-特に今の時代は-求めているのだろう。その信頼関係の原点が母と子の絆(きずな)なのかもしれない。 昨年、韓国・ソウルでこの絵本を読んだときは、ハングルで記入されたアンケートに、「愛の深さがわかった」という感想が何通も見つかった。 先日、ある中学校の卒業講演でこの絵本を読むと、育ち盛りの男の子たちも集中して聞いていてくれた。絵本では、子守歌を母親が、息子が大人になるまで歌い続ける。一生、子供を心配する母の愛は中学生の皆さんの目にどのように映っただろうか。 親は命がけで自分を守ってくれる存在なのだということを、実感するのはずっと先でも、今、そのことを胸にしっかり刻み込んで卒業してほしい、と心から願った。 ※早速、購入した。そうなんだ、その通りなんだ。たった一人でいいんだ。たった一人から愛されれば人間は強くなれるんだ。現在の道徳の崩壊も難しいようで、意外と単純な事なのだ。 このたった一人を求めて、人間は彷徨い、目立ちたがったり、強がったりしているのだ。たった一人から愛されたいがために。この事は、この「桜魂」で一貫して言って来た事だ。 子供の頃はこれを母親に求め、その内に友人や恋人に求め、夫婦に求め、最後には子供に求めたりするが、なかなか満足できずに、不満をぶつけたりして、その関係がおかしくなったりする。 よく知られた話だが、2人にそれぞれ2メートルのお箸が渡された。食事をする時、どうすれば食べる事が出来るかという問題だ。答えは、お互いに食べさせてあげるというものだが、ここに人生の不思議さが隠されている。 実は、人に「ああして欲しい、こうして欲しい」と求めている間は、この欲求は絶対に尽きる事がないのだが、自分から人に何かをしてあげるようになると、徐々にこの欲求不満はなくなっていく。 心に病がある人は、ほとんどの場合この「ああして欲しい症候群」なのだ。であるならば、その欲求を断ち切って、自分には何が出来るかという方向に考え方を変えていかなければならない。 この方向性を変えるコツは、過去をよく振り返る事だと思う。過去、自分から人に対してどれだけの事をやってあげたか。逆に人から、親からどれだけのことをやってもらったかを、よく振り返ることだ。 そうすれば、自分がやってあげた事はほとんどなく、やってもらった事のほうが多い事に気が付くはずだ。そこから、感謝という気持ちが芽生えると、人は変わっていく事が出来るのだ。そうすれば、報恩という気持ちもまた出てくるようになる。 自分としてやるべき事は、よく過去を振り返ると同時に、自分の子供や周囲の人が、そのたった一人を求めているという事もよく理解して、愛深き人間になるよう努力する事だろう。 特に子供は親が全世界なのだから、親から愛情を与えられていないと思えば、全世界が敵になってしまう。その様な、心に深い傷を負った人が立ち直る事は、なかなか難しいものだ。 だから男女共同参画社会など絶対に間違っていると、繰り返し、繰り返し、訴えているのだ。愛とは関心を寄せる事。愛とは人と人を結びつけるもの。愛とは平凡な中において与え続ける事。愛とは常に心の中に存在し続けてあげる事。 愛なき人生は不毛であり、愛なき人生は悲しみであり、愛なき人生は孤独である。お互い、そろそろ人に求める事は止めて、人に何かをしてあげる事が出来る人間に変わって行こう。 そして、この日本国中が、愛に満たされた光輝く家庭で一杯になるように、心から祈り続けていこう。 2006年 06月 20日
~私はなぜここまで、この問題に噛み付くのか~ 2年以上前から、男女共同参画社会に警鐘を鳴らしてきたが、最近になって各地で様々な問題が起きていることは、皆様もご存知だろう。 身近な九州でも、 ◆都城市での同性愛を認める条例における混乱 ◆八女市の条例案の中にも同性愛を認める文言が入りそうになった件 ◆筑後市から出された条例案に対して、議会の修正案が出され、それに対して市の方が条例案を取り下げるという前代未聞の件 ◆久留米市での「ジェンダーフリー」という用語を教育の副読本から除外すると教育長が方針を示した件 ◆各地で行われている性教育問題などなど、この種の問題点は、現在無数に存在する。 そこで本日は原点に戻って、この男女共同参画社会についての考え方を再確認したいと思う。 ①「自分らしく生きる」とは 男女共同参画社会の中では、よく「男らしく」「女らしく」ではなく、「自分らしく」生きましょうと謳われている。私には、この「自分らしく生きる」という言葉は、努力を否定した現状維持の肯定に聞こえる。 確かに、傷ついた人や苦悩の中にある人にとってはそれも必要だが、やはり人間、努力する事が必要だろう。他人と比べずにオンリー・ワンの人生を歩む事だという意味もあろうが、これもやはり弱者を対象とする甘い言葉であり、「自分さえ良ければいい」というわがままを肯定しかねない考えだ。また「他者への関心」を阻害するいかがわしい言い分である。「愛の反対は無関心である」という言葉があるが、まさに愛と努力の放棄を奨励することになっている。 人は他人がいるからこそ様々な学びがあり、発展出来るのであって、他人を無視したところに、人生の意義はない。「他人への感謝」があってこその人生である。参画推進者が言うこの「自分らしさ」は真理の非常に小さな一面ではあるが、ごく少数の人間への対処療法であって、全てではない事を確認しておきたいと思うし、多くの人間に対しては、原則、発展・繁栄へのいざないの言葉の方が大事だ。 それから言うと、もう少し別の言い方、例えば、自分の長所を生かし、短所を矯めて努力向上しようなどとするべきだろうし、「男らしさ」「女らしさ」という、自分なりの精神的目標を持って向上する考え方の方が健全である。 お釈迦様もお亡くなりになる最後の言葉として、弟子たちに対して「諸々の事象は過ぎ去っていくものだ。怠ることなく修行を完成させなさい」と言っておられる。これこそを、人は人生の目標にしなければならないと思う。 そもそもこの様な曖昧な言葉は、行政ではあまり使わない方がいい。 それと「自分らしく」と言うが、「自分」とは何かが分かって言っているのだろうか?「自分らしく」というのは、非常に哲学的で、宗教的な言葉であり、我々凡人ではなかなか答えが出せない言葉なのだ。 そもそも「自分とは何か」とは、宗(仏)教や哲学の永遠の課題であり、あなたが思っている自分というのはないとまで言い切る人もいる。お釈迦様も諸行無常と言ってるように、これこそが自分だと言い切れないのが本当だろう。諸行無常の中には、「心」も入っていることを知るべきだ。心もまた変転して止まないことは、一念三千論や十界互具説をみればよくわかってくる。 ゆえに行政としては、この様な曖昧模糊とした言葉を軽率に使うべきではないし、また推進者の現状維持の幻惑言葉に惑わされてはならないことを肝に銘じて欲しい。 ②根底に流れる、哲学思想 実は、この男女共同参画の流れの根底には、いろいろな哲学がある。「ラディカルに語れば」(平凡社)という本があるが、この本は、東京大学の教授で、男女共同参画推進派の巨頭の一人である、上野千鶴子氏が『「フェニミズムの現在』を語るのに各分野で今日のぞみうる最高の対話者』(P5)を相手に対談した本であるが、ここにはマルクスやフーコーなどやバトラー、バタンテール、その他、知らない哲学者が多数出てくる。 ここで語られる中で男女共同参画を象徴する、上野千鶴子氏の究極の言葉をご紹介しよう。 「テロス(目的)を捨てられないのはマルクス主義の自縄自縛ではないでしょうか。(笑)・・・私がフーコーから学んだのは、このテロスの放棄ということですよ。・・・私は、ここでは、ポスト構造主義者になります。フーコーの『系譜学』から学んだのは、歴史に起源と目的を求めない、という態度です」(P305)と彼女は言っている。 要するに、歴史には起源もないんだ、神仏もないんだ。そして向かっていく目標もないんだ。いわゆるこの「マルクス主義の自縄自縛」というのは、マルクス主義はユートピアというものを目指す面もあるので、そのユートピアというのを目指すわけじゃないんだと。もうある意味、やりたいようにやればいいんだというのが、この言葉の意味だろうと私は思う。マルクス主義を超えた究極の唯物論哲学なのであろう。 人権団体からの批判を恐れずに言うとするならば、極端に言うと、獣の世界で結構だということだろう。 このフーコーという人間は、中川八洋氏によると、「マルクスとニーチェとハイデッカーをブレンドして、その上にルソーを振りかけたもの」と評価されるような哲学者だ。 精神病院を解体して狂人を解放せよとか、刑務所を解体して犯罪者を解放すべきだとかと主張し、本人自身も重度の精神分裂症でしかも同性愛者だ。そして、狂人が支配し正常者が支配される社会をもって「正しい社会」だと主張した、『性の歴史-知への意思』という本の著者だ。 この本のなかでフーコーは、「国家が人口を必要としたから家族と生殖に直結するような男女間性愛を正常とみる考え方が「権力」によって「知」とされたに過ぎない」と言う。つまり、生殖否定の性的欲望こそが正しいとして、ゲイやレズこそを正常だと言うのだ。 つまりフーコーが理想とする人間とは、「性器をもった(男でもなく女でもない)無性人間」となり、そこには、男女間の愛も夫婦間の精神的絆も親子の情愛も何一つない。むろん、男女が区別されたことで洗練されてきた、文明社会としての倫理も道徳も、全くないということになるが、この様な考えが根底にある事を知れば、推進論者から出てきている様々な事がよく理解できる。 ③悪魔に操られる、フェミニストたち 「男女共同参画基本法」(ぎょうせい)の中で推進派の両巨頭の一人である東大教授の大沢真理氏は『10年以上にわたる不況と雇用不安のもと、中高年男性を中心に自殺が3年連続で3万件を超えた。1990年代の日本経済は、第2波経済敗戦に打ちひしがれた。脅威の正体が見えず、おそれ、いら立つ人々は、内向きの「伝統」や「家族」にいやしを見出す例は日本に限らない。だが、それはいやしになるどころか、妻子の扶養責任や住宅ローンを背負う中高年男性たちを押しつぶしているのではないか。不況と不安の悪循環を脱し、持続可能な経済社会を構築するかぎはジェンダーフリーにあることは一層明らかである。」(P2)と言っている。 外で傷ついた男性が家族にいやしを求め、家族と仲よくしようとすれば、妻子の扶養責任や住宅ローンを背負うことになるので止めておけと言うのだ。家族を放って置いて、夜の街に出よと言うのだろうか、それともホームレスを勧めているのだろうか。愛の気持ちとは、他の人びとに与えようとする心であり、何か自分にできることがあればやろうという心だということが、全く理解できず、砂漠の様な人生を歩んでいる人なのだろう。 この人は「人間は自分のほしいと思うものを求めて世間を歩き回り、そして家庭に戻ったときにそれを見出す。」 (G・ムーア)というこの言葉や「愛は家庭から始まります。まず家庭の中で不幸な人を救いなさい。両者が愛し合い、母親が家庭の中心となりなさい。平和とうるおいの家庭が築けたら、隣人を愛しなさい。自分が、自分の家庭が、愛に満たされなければ隣人を愛せません」と言った、マザーテレサの言葉をどう解するのだろうか。 この人には、この世界は人間同士が支え合って運行されているという世界観が欠如し、家族での支え合いがどれほど人を勇気づけ、明日への希望を持たせるかが全く分かっていない、人間以下の思考しかない人なのだろう。 これでは、先の大戦での特攻隊の方の崇高な精神など分かるはずもなかろうし、家族を守るとか、妻や子供を守るという、人としての当然の愛情も道徳心のかけらもない人間なのだろう。 人は結びつき合ってこそ、力を発揮出ることを知らず、逆に人と人をばらばらにしたがっているのだから、この様な考え方を「悪魔の思想」と呼ばずして何と言ったらいいのだろう。 この世には善と悪があるが、これを一言で言うと、「人と人とを結び付ける事は善。人と人とを引き離すのが悪」という事になる。 そして、この悪なる行為を指導的立場に立って積極的に行い、人の不幸を喜ぶ人間を「悪魔」というのだと思う。この悪魔の特徴は自我我欲のままに、「自分さえよければ、人はどうなってもいい」という思いで生き、「自分のために生きることの、いったいどこが悪いのか」というところにあることも知っておかなければならない。 今、この「悪魔」に操られた狂人たちが、行政に入り込み、日本国中に「悪魔の思想」をばら撒き、その事を知らない無思想の役人や、ただ流行だけを求めてはしゃぎまわる女性たちを、意のままに動かして、獣の社会を作り出そうとしている。 ゆめゆめ騙されて、「悪魔の手先」になって狂人の仲間入りをしないよう忠告しておきたい。これは決して過剰反応でも、脅しでもない。本来人間が持っている高貴な精神を腐らせる思想なのだ。これを守るために人類は命を懸けて戦ってきたのだ。 ④最後に官僚に対して 中国の司馬遷の『史記』に拠れば、中国では古代、なるほどそれ自体は法治として正しいのであるが、法の条文どおりに行動する官僚のことを【酷吏(こくり)】と言い、一方、「職を奉じて理に循(したが)う」すなわち法に基づいて勤務するものの、それよりも大いなる道理に循う官僚のことを【循吏(じゅんり)】と言ったそうだ。 裏でどんな圧力があっているかは不明だが、今の官僚のほとんどがこの「酷吏」であり、ほとんど自分の理性に照らして判断しようとしていないように思える。明治維新の際の勝海舟などが、この「循吏」の典型かもしれないが、やはり、法律以上の道理というものに照らして判断することも大切ではないかと思う。 「法律にないものは宗教に聞け」という言葉があるが、特にこのような問題に関しては、よく宗教の教えを知ってやっていただきたいと思うし、宗教に沿えばこの様なことを許せるはずがないと思う。 どうか、日本の文化を伝統をそして子供たちを守っていただきたい。日本の未来は子供たちにかかっている。我々の先人が如何にすべきかということを確実に言葉として、生きざまとして残している。もう一度よく先人たちの思いや、真理とは何であるのかという事をよく考え、今後の判断材料としていただきたいと念願する。 2006年 06月 20日
平成16年11月07日(日) 産経新聞 【学習院長・田島義博の子育て改革】(84) 今年は日露開戦から百年。新聞や出版の世界では「明治」を振り返る企画が盛んです。特によく取り上げられる人物の双璧(そうへき)は東郷平八郎元帥と乃木希典大将でしょう。 とりわけ乃木大将は明治四十年から末年まで第十代院長として、学習院の歴史に大きな精神的土台を築いた方でした。 といっても「ノギタイショウ?」と首をひねる若い人が少なくないかもしれません。第二次世界大戦終結からでさえ六十年たっているのですからそれもやむを得ないかとも思いますが、乃木院長の語録は今読んでも味わい深いものがあります。たとえば、 《堅実なる精神を発揮せよ。男子は男子らしくあれ》 《依頼心を去り、独立独行の気風を養成せよ》 《乱費は不義の根源なり。質素節義を守るべし、鄙吝(ひりん)は素(もと)より之を賤(いや)しむ》 「鄙吝」はいやしくけちなこと。つまりお金の無駄遣いは人の道を踏み外すもとだが、ケチは卑しいというのです。 さらに 《物事に耐ふる身体を作れ》 《衛生を重んじ病を未発に妨ぐは大切なり。病に罹らば病を怖るゝは不可。医者の命令を厳守せよ》 というのもあります。 このような訓示を通して、乃木院長は学習院の学生(当時は初等科からすべて学生)に心身ともに「質実剛健」であれと訴えたのですが、私は乃木院長が言い続けたことの根本は「飾るな」ということであったと考えています。 「飾るな」は言い換えれば「正直であれ」「うそをつくな」ということにもつながります。そしてこれはさまざまな側面から教育不安が指摘されている今の世相の中で、われわれ教育に携わるものが幾重にも反芻(はんすう)しなければならないことであるとも思うのです。 ※最近わかった事がある。太古の昔より、人間には生きていくべき道が確かに存在していたという事だ。ニュートンの万有引力の話を聞いてこれがわかった。科学にしろ数学の公式にしろ、発明・発見されたものはすべて、すでに存在していたものをある人が見つけたに過ぎない。そして人として生きるべき道を、幸福に生きる道を発見したのが、歴史に残る宗教家という事だ。その他の歴史に残った偉人もまた、ほとんどが宗教家に近い存在であり、自分の行動においてか言葉においてかで、人として生きるべき道を残してくれた。 後を行く我々は、先人が苦労して見つけたその法則を学び、実践していけば良いだけなのだが、欲望に負けて自我を押し通し、結局は苦しみの淵に沈む事が多くなってしまう。科学においては、発見された科学的法則を学び、さらなる発展を目指すのが当然なのだが、心の世界になると、それが当然となる事は少なく、人は昔とほとんど変わる事がない人間関係の中でのた打ち回っている様に見える。 特に今の日本は、悲しい事だがこの単純な事が信じられていないために、過去を土台として発展する事が出来ないでいるし、逆に土台を崩そうとする輩が大手を振って行政に入り込み、過去から学ぼうともせず、自分たちの先祖をないがしろにしている。はたまた愚かな人間にいたっては、なかった事まで、さも在ったかのように悪口を言いふらすありさまだ。これでいい目に合おうというのは虫が良すぎるというものだろう。 さらに醜い人間にいたっては、大した教養もないくせに自分の考えこそが日本を良くする道だと錯覚して、家庭を崩壊させたり、教育を壊滅させたりしているが、残念な事に、今の日本にはそれを食い止めるだけの機関なり勇気なりがない。実に醜くなってきたが、数学の究極にあるものは、「美」だという。そう言われてみれば、孟子という人も「真・善・美」こそが人間の目指すべき方向だと言っていたと記憶するが、一人一人が、まずは「美」というものを意識しながら生きて行く事も一つの道ではないかと思う。 本日の「飾るな」という事もまた大事な教えだと思う。我々の悩みの正体は、悩みと称して、じつは名刺や金銭や学歴や経歴という玩具に夢中になり、自分を実際以上に飾り立ててみたいと焦っているだけだし、必要以上に背伸びをしようとしているだけの事が多い。そうではなく、素朴なる精神、空手にして立つという覚悟、これが最も大切だという教えだ。 言葉を変えれば、常にゼロからのスタートという気持ちであり、常に原点回帰し、初心を忘れぬ心でもある。虚飾に満ちた生活を目指すより、足る事を知るという素朴なる精神という名の土壌にこそ、大樹は生長していくものだと思う。 2006年 06月 20日
いかるが作成 (著作権なし。文章は自由に使っていただいて結構です) ■過小評価されている「子育て」■ 最近、「育児の苦しさや大変さ」、「価値の低さ」ばかりが強調され、外で仕事をすることが「自己実現」のように推奨する論調が多くあります。そして、育児を掃除や洗濯と同じように考え、男女のいずれが担うかについて、その分担をいかにして相手に押しつけるかという、戦いの場に家庭がなったりしてはいないでしょうか。 どうも、「子育て」をすることが、「価値の低い」事と思われ、家庭生活や育児というものがあまりにも過小評価されすぎている様に思えてなりません。 ■「くるたのしい」子育て■ しかし子育てというのは、その様に価値が低いことなのでしょうか。 私は、自分の子供を独り立ちのできる社会人として育てることは、会社を経営したり、校長として学校内を統率するのと同じくらい、あるいはそれ以上に、「大事業」であり大きな価値を有することだと思っています。 特に現在のように物が溢れ、少子化で、好き勝手に行動する可能性が大きくなった時に、子供を普通に育てることは、一つの「偉業」と呼んでいいほどの大きい仕事であると思いますが、その事を認識せずに、かつて家庭を顧みなかった日本の男性たちと同じ道を女性が追随してゆくならば、日本の社会は足下から崩壊するのではないかと非常に危惧しています。 確かに子育ては大変な部分も多くありますし、目に見える価値がない様に思えるかもしれませんが、しかし全ての大事業がそうであるように、実は子育ては「くるたのしい」つまり「苦しけれども楽しい」ものであるのです。 ■真の喜びと自己実現とは■ 一人の人生の将来を決め、ひいてはその子供や孫の家族や社会の将来を決める最も大切な土台を築く時期を人任せにしてはなりませんし、人を作ることこそ人生において一番楽しいことなのだろうと思います。 世の中は自己実現ばやりで、自分の欲求を満たすことをもって自己実現と大きな勘違いをしていますが、実は「人に尽すのも自己実現」であり、もっと言えば「人に尽すことこそが真の自己実現」であることを知らなければなりません。そして、自分を無にして子供の人生に尽すことが、本当は楽しく幸福なことだということを知らなければならないと思います。 自分の自我我欲を満たすことが幸福だと勘違いしてはなりません。人は自我我欲のために苦しむのであり、いくら追求してもこれでいいということはなく、その道は幸福への道には繋がっていないのです。 人に尽すことに喜びを感じられる人が、実は人間として一番高貴な人であるし、最も幸福な人であるということを良く確認しておかなければならないと思います。ある意味、人間は人に尽せる自分になるために苦しんでいるのだと言ってもいいのだと思います。 偉人の生涯を見ればこの事に気が付くはずです。偉人とは人や社会のために働き、それに最高の幸福感と喜びを感じた人たちのことを言うのであり、自分のために働いた人を偉人とは決して呼ばないのです。 このことが認識されてくると、女性も男性も共に、家庭生活、育児、という「くるたのしい」仕事を協力してやり抜こうという気持ちがでてくるのだろうと思います。 せっかく家庭をもち、共に人生を生きることになった縁なのですから、この世にはお金で買えない価値もあることを認識して、この事業を苦しんだり、楽しんだりしてみてはと思う次第です。 ■親の生き方から子供は学ぶ■ では次に、いかに子育てをするのかが問題になってきますが、躾の根本は親の厳しい生き方の姿勢そのものから伝わるものだと思います。「教育」と言えばいかに「教える」かと勘違いされている方も多いかと思いますが、そうではなく、親がいかに「生きているか」かが問題なのだと思います。子供は親の「言うこと」からではなく、「生きざま」から多くを学ぶのであるし、これが家庭教育の根本であると思います。 「まずは自分が、大人が親が、変わることから全ては始まる」ということをよく知って、共に頑張って参りたいと念願いたします。 ◆閑話◆ 振り返ると、子育てについては後悔することが多いのですが、今にして思うことは、腹を決めて時間一杯、腹いっぱい一緒に遊んでおけばよかったということです。 子供が長ずるにしたがって、その感はますます増して来ますが、絶対に、二度と戻れない懐かしく、あまりにも貴重な時間を自分の事に費やし過ぎてしまったようで、無念に思います。 子離れや親離れが出来ないのは、親子とも、十分に腹一杯に良い思い出がないからではないでしょうか。 子供は親からの愛情に満たされた時に、安心して親離れが出来るのでしょうし、親も子供との時間を十分に楽しめたら、子供の成長と親から離れていくことを、目を細めて喜ぶことが出来るように思います。 後悔や欲求が残ると、その時に戻り取り戻したくなるのか、いつまでもその部分を埋めることに固執し、袋小路に陥ってしまうのが人間の定めのように思います。 2006年 06月 20日
<<つらい気持ちを話す相手>> 長引く不況の影響もあってか、鬱(うつ)病の人が増えている。「自殺した人の半数は鬱病」と言われるほど、鬱と自殺は密接に結び付いているが、悩んでいる人が皆、鬱になったり自殺をしたりするわけではない。 以前、何の雑誌だったか忘れたが、自殺を考えやすい性格についてアンケートを実施した結果で「心を開いて話せる相手がいない」 という回答率の高さが気になった。悩みのあるときには、自分の話をするだけでも気分が楽になるし、理解してもらえれば、気持ちも明るくなる。 大切なのは、自分だけで抱え込まず周囲の人を信頼して正直に話し、問題解決の協力を求めることだろうが、今の日本にはその存在がいないのだろう。 しかし、よくよく考えてみればいるではないか。 「夫婦や家族」だ。 本来家族はそれぞれに助け合って生きることをその最大の役割としているのだが、いま、それがなくなっているのだろう。 <<男女共同参画の推進派の本音>> これに大きく影響しているのが、女性運動のように思う。なにせ、中年男性に対し、家族に癒しを求めると扶養義務がより出てくるので、ますます重荷になるので止めた方がいいとのたまわっている。「男女共同参画社会基本法3ページ」ぎょうせい出版(大沢真理によるまえがき) 家族に癒しを求めないなら、主人や奥さんに癒しを求めないなら、どこで心を落ち着けろというのだろう。夜の街だろうか?それとも自分で解決しろというのだろうか?彼女らの結論は、自分勝手に生きれば良いという事だが、人間ならば堕落への道は選択できないものだ。責任感があるからこそ、人は努力もするし、本当に優しくなれるものなのだし、それが人間としての尊厳であり証明なのだ。そして、人は一人ではそんなに強くはないものだ。 この運動をしている人たちは、多分、家族や恋人の本当のよさを経験したことがない、本当に不幸な人たちなのだろうが、その不幸を他人にも経験させて仲間を増やしたがる悪魔のような人たちなのだろう。責任感を放棄し、自分の好きなように生きるということは人間としてはあってはならない姿だと思う。 彼女たちは、壊れそうな心を必死で何かのせいになすりつけて、私は悪くない、自分は弱くないと自分を誤魔化している人たちなのだろう。 以前読んだ本で、「悪魔は、同じ不平不満を持つ人を集めて仲間を作りたがる」という言葉があったし、「悪魔は人の不幸を喜ぶ」という言葉もあった。 <<夫婦の復権のために>> 深い縁で結ばれ、一生を共に助け合うことを誓った二人以外に本当に信頼できる人はいないのではないだろうか。夫婦とは本当に得がたい相棒なのだ。その相棒に悩みを打ち明け、共に話す中に自分を愛してくれている存在に気付いたとき、今度は相手を幸福にしたいという気持ちや、一生守り通すという心境になるのだと思う。 日本人よ、原点に返って、夫婦のありがたさに感謝を込めて、自分の生活を改めようではないか。 いかるが (文章につきましては、ご自由にお使いください。連絡も必要ございません。) 2006年 06月 20日
事務局長 いかるが いつになっても身につけたい大切なことは、良い習慣です。 子供時代には、父や母から「箸の持ち方が悪い。」 「朝トイレに行く習慣を身につけなさい。」 「勉強道具は前の日に準備しなさい。」 「ご飯を食べるときは、くちゃくちゃいわせない。」 「ご飯を食べるときはテレビを消しなさい。」 「寝る前には、歯を磨きなさい。」などと、よく言われたものです。 その時には、「うるさい!」と思った方も多かったのではないでしょうか。 しかし、考えてみれば、人間が生きていくためには、1日に何10種類もの事をこなさなくてはならず、それを毎日、実行表にして、一つ一つ点検しながら生きていくことは大変なことです。 ところが、繰り返して同じ事をしていますと、心身が勝手に覚えてしまい、あまり意識せずとも、自然に行動が出来るようになります。これを「習慣」と言いますが、毎日の生活を規則正しくし、習慣にしてしまうと、これは本当に便利なものです。 毎日1時間の本を読む習慣を作れば、1年間では365時間ですので、1分1ページを読むとして、21,900ページを読破することが出来ます。300ページの本を約70冊読める勘定です。毎日、諺などを3個覚えれば、1年に約1000個も覚えます。(途中で忘れはしますが・・・) この様な良い習慣を身に付けると、勉強も、運動も、仕事も楽になり、身体は強くなり、仕事も確実に片付き、頭は、難解なことや大事なことだけに集中して考えればよくなるわけです。 この様に、良い習慣を身につければ、確実に実力が増して行くことはお分かりだと思いますが、それでは、大人になった私たちに、そして現在の日本人に必要な「習慣」には何があるかを考えてみたいと思います。 ◆「自らを振り返る」謙虚さを 人間は自由性を与えられているため、思い違いをしたり、間違を犯すことが多々あります。そして、同じ失敗を繰り返すのですが、それは「自を省みること」が少ないからではないでしょうか。 現在の日本では、失敗を認めず、責任を認めない人たちが社会の上層部に数多くいますが、同じ失敗を繰り返さないためには、自分の失敗と他人の失敗を「他山の石」として、その中から如何に教訓を学ぶかという事が非常に大切です。自分の経験や他人から何も学ばない人のことを愚か者と言うのかもしれません。 ただ、これに関しては、いったん自分の非を認めた人を、周りがあまり責め続けない事も知っておかなければならないと思います。 マスコミを中心として、どうも、人が坂から転げ落ちることを喜ぶという虚しい価値観や風潮があるように思います。 これは外側の物差しで測れる幸福を追求する嫉妬社会を表しており、この様な事が続くと、成長がますます鈍化して来るということを付け加えておきたいと思います。 ◆「読書」 現在、大人も子供も非常に読書量が減っていると言われており、学校では「朝の読書の時間」を確保して、子供たちの本離れを防ごうとしておりますが、実は、親が大人が子供に教えてあげられることの中で、最も大事なのは読書の習慣だと思います。なぜなら、読書は思考するための材料の一番の供給源だからです。 この材料がないと、考えが浅くなり、「深く考えを練りこむ」という事が出来ません。 人間が一生の間で学べ、経験できる範囲は意外と狭いもので、様々な職業をすべて一人で経験することはできませんが、有難い事に、多くの人が一生の間に経験した事や考えた事、自分の知識や体験を書物として残してくれています。しかもわずか数時間から数日で読むことができるのです。それを学ぶことによって、人は疑似体験ができ、1人で2人分の人生を生きたような様々な智慧を得ることができるのです。 読書は人間の内なる空間を広げ、未知なるものに対する考え方や、まだ経験していないことに対しての心構えを与えてくれるのです。 ◆「真面目に働く」 レイバーとワークとよく表現されますが、1日の8時間を、耐えながら嫌々働くのと、心を込めて真面目に働くのとでは、大きな違いがあります。 「働くことは苦しくて嫌だ。働いている時間は損をしている」と考えるならば、人生は不幸であり、このような人生観は寂しいものです。 そもそも職業とは人のお役に立つことを本務としているのですから、真面目に取り組んだこと自体が喜びを伴うものだと思います。加えて「よい仕事ができた」時は、より以上の喜びがあるのだと思いますし、その喜びを味わいたいがために、人は一生懸命努力するものだと思います。 現在、仕事をし過ぎないように、責任感をあまり背負わないようにということで、男女共同参画を推進する人たちは、アマチュアの勧めを懸命にしていますが、これは大きな間違いであると思っています。 主婦であれ、サラリーマンであれ、プロになる自覚を持って真面目に、懸命に努力するところに、真の喜びが出てくるのだということを知る必要があると思います。 主婦業においても、心を込めた料理というのは味が変わるものですし、子育ては面倒で苦しく、面白くないものと思うと、子供は敏感に自分の存在が邪魔者なのだと感じ取ってしまいます。 逆に、子育ては楽しくて仕方がないと思うと、子供はちょうど真綿にくるまれたような感覚で、自分の人生を一生懸命生きるのだと思います。 「働くこと自体が楽しい」という人生観を持つことが、成功の秘訣であり、幸福になる秘訣でもあるのだと思います。 ◆まとめ 以上三つが今の日本人には必要なことだと考えます。 以前は、日本人は非常に「謙虚」な国民でした。これは、外国から来た人たちが一様に感じたことでした。 この謙虚さは、小泉八雲が朝起きるとあちらこちらで鉄砲を打っているのかと勘違いした、太陽に向かって拍手(かしわで)を打つ信仰心から出てきたものだと思います。 また、「読書」にしても、18世紀後半、シベリアに漂着した日本船に本が積まれてあり、ロシア人が内容をたずねると、船頭は読んで聞かせたそうで、それがロシア語の翻訳書になったといいます。日本文学の研究者ドナルド・キーン氏によれば、武士でも学者でもない庶民が書物を読めたことに驚いていました。これほど、学ぶことに貪欲な国民性がありました。 そして、最後の「真面目さ」においては、先の大戦中、ラバウルに駐屯していた軍から、現地の人たちが習ったことは、「嘘をつかない」「約束を守る」の二つでした。 過去の偉人とは、「はたを楽にさせるため」に熱意を持って真面目に仕事をした人たちのことです。その根底には、必ずや「感謝」というものが存在しています。 「感謝」なき人が自らのプライドを飾るために、また、我欲を満足させるために、人を悲しませる事をするのです。 現代に生きる我々も、今一度足元を見つめ直して、粛々と精進して参りましょう。 2006年 06月 20日
事務局長 いかるが 負けるのではないかと思いつつ、勝って欲しかった。 なぜ、負けるのではないかと思ったのか。それは、長嶋監督とその家族や五輪野球関係者の姿勢に非常に大きな疑問を持っていたからです。 選手は日本野球界を背負って出場したのであり、大きな重圧があったことでしょう。日本に残る選手に対して、また、ファンに対して、その期待と責任感から必死にプレーしたと感じました。 しかし、その必死さをコントロールし、ある時は日本野球界を背負っての決断を下すのが、監督という立場です。「1点も取れない負け方は、あまりにもジャパンらしくない。勝つ試合ができなかったのは、私の責任。長嶋監督や応援してもらった方々にどう謝っていいかわからない」と中畑ヘッドコーチはうなだれたそうですが、これ程の役割を、監督代理あるいは臨時監督の名称すらもらえず、一度も監督経験がない中畑ヘッドコーチに任せるのは、あまりにも酷であり、無責任(不手際?不覚?)極まりないものだと思いました。 コーチの布陣は、あくまで長嶋監督がそこにいることでしか、力を発揮できない人選だったのではないでしょうか。 決断者は選手以上の重圧の中で決断をしなければなりません。一点を取るためのバントやピッチャーの交代・打線の入れ替え・ピンチヒッターを出すタイミングなど、野球界を背負って決断するのが今回の監督の役割だったはずです。 自分が行けないと決まったからには、十分に信頼できる人にその責務を任せるべきであったし、自ら身を引くべきだあったと思います。監督業の大切さを一番知っているのは、ご本人であったはずです。 監督業とはそんなに簡単なものだったのでしょうか。テレビ観戦をし、メッセージを送れば事足りる事なのでしょうか。 「長島監督のために」という気持ちで戦わせたかったのかもしれませんが、それではコーチや選手に対して、あまりにも失礼だと感じました。選手は、日本野球界を背負って出場したのです。 一番大事な場面で、不動心をもってどっしり決断する信頼できる監督が不在では、選手が萎縮するのも当たり前でしょう。監督業を軽視する長嶋さんや関係者には、ご苦労も多かったでしょうが、本当に残念な思いをいたしました。 しかし考えてみれば、これは今回の事に限った事ではないように思います。政治の混迷を極める今の日本には、「市民が主役」と言ったり「民主主義」を勝手に解釈して、事あるごとに選挙民や国民をおだてて、票をもらおうとしたり洗脳しようとしたりする、浅ましい政治家やマスコミにも大きな責任があるように思います。 その発想には、「権力者は悪」であるという、共産主義思想がその淵源にあることを知らなければなりませんし、この思想からは、「指導者の必要性」が抜け落ちているということを、私たちはよく確認しておかなければなりません。また、現在、国の方針として進められている、一見耳障りのよい「男女共同参画社会」の中にも、家庭における指導者という観念がすっぽりと抜け落ちており、これにも深刻な危機感を感じざるを得ないのです。 そもそも共産党が言うように「市民が主役」と言うならば、選挙に出る必要などないではないですか。主役である市民のままでいた方がいいではないですか。しかも、こうした言葉を、自民党の候補者まで言い出す始末です。この様な甘言には決して騙されてはなりません。 また、「民主主義」を、国民の欲望達成のために利用するのは、民主主義の最後の姿である、「衆愚政」と言うのではないでしょうか。「民主主義」とは、その根底に「神・仏」を持たなければなりません。神様・仏様だったら、どの様に選択されるだろうかということを一人一人が熟慮して後に、多数決を行うことをその基本としているはずです。 この無責任極まりない政治家やマスコミの愚民化政策の結果が、今回の事にも大きく影響したと考えられます。我々日本人の中から、指導者の重要性が薄らぎ始めている象徴なのかもしれません。指導者は本当に大切なものです。指導者によって、国やその集団がいかようにも変化していくものです。 よって、我々日本人は、マスコミのように、政治家や指導者をただ引きずりおろす事を目的とした批評をしてはならないと思います。 あくまでも、現在の指導者や政治家は我々が選んだのであり、その責任は自分たちにもあるという自覚と、この指導者としての役割の必要性や重要性を認識した上で、政治にも口を出していかなければならないと思います。 民度が低いと思うならば、その民度を向上させることが出来ない自分にも責任があるのだと自省し、欲望や自己満足からの批評は、厳に慎まなければなりません。 日本国民よ、一部のマスコミや政治家に騙されるな。指導者という役割を軽視してはならない。 マスコミは、新聞による教育を実施したがっているが、その様なことはさせてはならない。教育関係者も、その戦略に乗ろうとしている。これ以上、教育を、そして、子供たちを異常な方向に育ててはならない。 < 前のページ次のページ >
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