2009年 06月 12日
(毎日 2009/6/11) http://mainichi.jp/photo/archive/news/2009/06/11/20090611k0000e040081000c.html 第二次大戦中に麻生太郎首相の父が経営していた旧麻生鉱業の吉隈(よしくま)炭鉱(福岡県桂川=けいせん=町)で使役させられた元連合国軍捕虜のオーストラリア人と英国人遺族が14日来日する。使役の事実を麻生首相が衆院本会議で1月に認めた後、その当事者が来日するのは初めて。関係者を通じ麻生首相に面会と謝罪を求めている。 来日するのは元捕虜で豪シドニー在住のジョー・クームスさん(88)とその息子2人、英国人元捕虜(故人)の息子の計4人。クームスさんは元豪陸軍伍長で1942年2月、シンガポールで旧日本軍に降伏。神戸の造船所での使役の後、45年3月に吉隈炭鉱の収容所へ移された。昼夜2交代の12時間労働を強いられたが賃金は未払いで、警備兵に暴行されたという。 クームスさんは、強制労働への謝罪や不公正に対する補償金などを求める手紙を2月に麻生首相に送ったが、返事はないという。終戦で帰国後、初来日となるクームスさんは「日本の首相から直接謝罪を聞きたい。私たちの苦難を認めてもらうことが、仲間も含め私たちの慰めになる」と訴えている。 4人は日本で捕虜問題を研究する有志がカンパを募り、招いた。約1週間滞在し炭鉱跡や当時の使役企業などを訪れるほか、東京や福岡などで市民と交流する。有志の一人で事務局を務める有光健さん(58)は「麻生首相が在任中に謝罪することで本人と日本にとっての名誉回復となる」と訴えている。 厚生労働省が関係資料を公開し使役が裏付けられるまで、日本政府は事実を否定した。同炭鉱は連合国軍捕虜300人や多くの朝鮮人を使役していたことが判明。そのうち豪州人は197人で、4人の生存が確認されている。 2009年 06月 12日
(産経 2009/6/10) http://sankei.jp.msn.com/life/education/090610/edc0906102117005-n1.htm 第2次大戦末期の沖縄戦で守備隊長が住民に自決を強いたとされる「沖縄集団自決」について「軍命による自決ではなく、切羽詰まった住民が自殺した悲惨な事件だった」とする特集記事が沖縄県浦添市文化協会発刊の「うらそえ文藝」第14号に掲載され、波紋を広げている。 特集には、自決現場を目撃した当時の米軍の報告書や住民の証言などが収録され、問題の発端となった地元紙、沖縄タイムス発刊の「鉄の暴風」こそが訂正すべきと結論づけている。 「鉄の暴風」で自決を強いたと名指しされた守備隊長や遺族らは、この記述を元に書かれた大江健三郎氏の「沖縄ノート」に対し出版差し止めなどを求めているが、昨年秋の2審判決では訴えが退けられ、現在、最高裁で争われている。 この特集記事を書いたのは同誌編集長で沖縄県文化協会長の星雅彦氏と沖縄戦ドキュメンタリー作家として知られる上原正稔氏の2人。 上原氏は長く「鉄の暴風」を疑ったことがなく、現地調査した作家の曽野綾子氏が1973年に「ある神話の背景」で疑問を呈したさいも、軍命による集団自決を事実として信じて疑わなかった。ところが、沖縄タイムスや琉球新報などで沖縄戦に関連した連載記事を書くうちに、新たな住民の証言や米軍の報告書などを入手、「(『鉄の暴風』は)現地調査しないまま軍命による集団自決をでっち上げたという結論に達した」という。 上原氏によると、こうした結論を2年前に琉球新報で長期連載中の沖縄戦をめぐる記事に盛り込もうとしたところ、「新聞社側の圧力で断念せざるを得ず、『うらそえ文藝』での発表に踏み切った」と説明している。 また、星氏も沖縄県史編纂(へんさん)で40年ほど前に、集団自決事件の起きた渡嘉敷島を訪問した際、住民の話から軍命の存在に疑問を抱いたが、「鉄の暴風」が沖縄県民の間で定着し、疑問を差し挟めない状況だった。しかし、「今回は勇気を持って真実を知らせるべきと決心した」と、話している。 富田詢一・琉球新報社編集局長の話 「上原氏への圧力はありません」 2009年 06月 09日
(産経 2009/5/30) ◆旧軍の極秘文書から 沖縄県渡嘉敷・座間味両島で旧日本軍の隊長が集団自決を命じたとするノーベル賞作家、大江健三郎氏の著書「沖縄ノート」などの記述をめぐり、元隊長らが出版差し止めなどを求めた訴訟は、1、2審とも原告側が敗訴し、最高裁に上告中である。 この3月に出版された「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」(PHP研究所)で、編者の現代史家、秦郁彦氏が国立公文書館で見つけた旧軍の極秘文書をもとに、沖縄戦当時の政府や現地軍(第32軍)が非戦闘員に対し、どんな方針で臨もうとしていたかについて、興味深い考察を行っている。 極秘文書は、沖縄戦が始まる3カ月前の昭和19年12月、32軍の高級参謀、八原博道大佐が起草した「南西諸島警備要領」である。文書の存在は八原氏の回想録「沖縄決戦」などで知られていたが、現物がどこにあるかは分かっていなかった。秦氏が見つけたのは、米軍が32軍の62師団から捕獲して英訳したものだ。 そこには、19年8月に閣議決定された「総動員警備要綱」や同年10月に策定された陸海軍「沿岸警備計画設定上の基準」に基づく老人や子供たちの避難計画が具体的に記されていた。 「軍の作戦を円滑に進め、混乱を避け、被害を少なくするために島民を適当な場所、あるいは近隣の島々に疎開させる」「『老人、子供』とは、60歳以上の者及び、国民学校6年生以下の者をいう。『戦闘に参加できない者』とは、女性の大半及び、直接戦闘参加を命じられなかった男子をいう」(秦氏の訳) 疎開先は沖縄本島北部の国頭郡とし、昭和20年4月末までに完了することを目標にしていた。 ◆あり得ぬ軍の自決命令 この計画のもとになった「沿岸警備計画設定上の基準」は、地方の特性に応じて老人や子供を危険地域から避難させる措置を求めたものである。 秦氏は「これらの文書から、政府や大本営、現地軍が、非戦闘員を玉砕させず、安全地帯に避難させる大方針だったことは明らかだ」とし、集団自決について「軍が自決命令を出す動機も必要性もなかった」と断じている。 昨年10月、2審・大阪高裁は集団自決について「『軍官民共生共死の一体化』の大方針の下で日本軍がこれに深く関(かか)わっていることは否定できず、これを総体としての日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」との判断を示した。 秦氏の研究は、この高裁判断を根底から覆すものだ。 昨年2月、座間味島で民宿を経営する宮平秀幸氏から、同島に駐屯した海上挺進第1戦隊長の梅沢裕少佐が村長らに集団自決を押しとどめようとしたという話を取材した(同月23日付産経)。 宮平氏は一家で避難する途中、日本軍の壕(ごう)で、将校から「死に急ぐことはない」と言われ、軍が保管していた食糧を分け与えられたことや将校らがその後、米軍に斬(き)り込んで戦死したことも話した。 座間味島では今も、日本軍のことを悪く言う住民は少ない。 今月、渡嘉敷島に駐屯した海上挺進第3戦隊の中隊長(少尉)だった皆本義博氏から、陣中日誌を送っていただいた。 昭和20年3月下旬の集団自決について、こう書かれていた。 三月二十九日曇雨「悪夢の如(ごと)き様相が白日眼前に晒(さら)された昨夜より自訣(じけつ)したるもの約二百名(阿波連方面に於(お)いても百数十名自訣、後判明)…戦いとは言え言葉に表し得ない情景であった」「勤務隊、水上勤務隊を以(も)って犠牲者の埋葬を行う」 「自訣は翌日判明した」との記述もあり、軍命令によるものとはとても考えられない。 軍命令説のもとになった沖縄戦記「鉄の暴風」(沖縄タイムス)では、日本軍が住民の食糧を強制徴発したとされているが、陣中日誌には「各隊は野菜家畜類其(そ)の他の物資を自由に集収することを厳禁す」などと書かれていた。 ◆16万人が疎開・避難 「沖縄戦『集団自決』の謎と真実」には、元防衛研究所戦史部主任研究官、原剛氏の沖縄の集団疎開に関する論文も載っている。原氏の研究によれば、沖縄県民の総人口(約60万人)の約4分の1にあたる16万人が九州や台湾、沖縄本島北部(国頭郡)などに疎開・避難している。 県民の疎開・避難を先頭に立って指導したのが島田叡(あきら)知事だ。島田知事は沖縄戦終結後に自決し、「沖縄の島守」といわれている。 それでも沖縄戦は住民を巻き込んだ地上戦となり、軍民合わせて18万8000人が戦死した。その一方で、住民を危険から守ろうとした人たちの努力も忘れてはならない。 2009年 05月 22日
(中日 2009/5/19) http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20090519/CK2009051902000022.html 映画「硫黄島からの手紙」などで知られる旧日本陸軍の栗林忠道大将が、中尉だった1919(大正8)年に発表した軍の旧態を批判する論文を、出身地・長野市の「人間・栗林忠道と今井武夫を顕彰する会」(井上昭英会長)が発掘した。同会は「軍でタブー視されていた体質を批判する勇気ある内容で、栗林の面目躍如たるものがある」としている。 栗林大将は1891(明治24)年、西条村(現長野市松代町)生まれ。長野中学校(現長野高校)卒業後、陸軍士官学校に進んだ。1944(昭和19)年、中将で硫黄島守備隊総司令官に着任。米軍上陸後、大将に昇進し、最後の総攻撃で戦死した。 論文は「吾人(ごじん)ノ軍事知識以外ノ知識ノ著シク低級ナルハ争フベカラズ」と題し、陸軍将校の親睦(しんぼく)会の機関誌「偕行(かいこう)社記事」に寄稿。当時の将校が軍事以外の知識は不要としていたことを批判し、部下を心服させるためには民主主義や一般常識も広く学ぶべきだと訴えている。 顕彰する会は、栗林大将とともに、中国との和平工作に尽力した同窓の今井武夫少将の功績を広めようと、長野高校OBを中心に今年3月発足。今月8日に開いた勉強会で、会員の川上昭三さん(81)が知人から譲り受けた資料の中から、論文の2次資料を発見した。 同会は24日、2人の肉親を招いた集会を長野市民会館で開く。長野高校管弦楽班による演奏もある。入場無料。問い合わせは、同会事務局=電026(296)0093=へ。 2009年 05月 11日
~民主党・相原久美子議員ら (聯合ニュース-韓国語 2009/5/6) http://www.yonhapnews.co.kr/international/2009/05/06/0602000000AKR20090506067600083.HTML 日本の議員24人は5日、77年前の1932年、日本軍が3千人余りの中国民間人を虐殺した遼寧省平頂山事件の生存者たちに謝罪の書簡を送った。 相原久美子参議院議員はこの日、遼寧城撫順市を訪問、当時の虐殺で生き残った王質梅(88)さんと会って重ねて申し訳ないと言って日本議員24人が署名した謝罪書簡を伝達した、と新華通信が報道した。 衆議院議員10人と参議院議員14人が署名したこの手紙には「人間として、日本国民が選出した議員として、私たちは心中深くすまないと感じる」(作為一個人,作為一名被日本國民選舉出來的國會議員,我們發自?心表示歉意。)と言う内容が込められている。 日本軍は1932年9月16日、撫順近くの平頂山で住民たちに写真を撮ってやるとグループ別に集まるようにした後、三千人余りの老若男女を機関銃で無慈悲に虐殺した。 2009年 03月 25日
(産経 2009/3/25) 台北郊外の烏来(うらい)郷に移設された台湾先住民出身の元日本兵「高砂義勇兵」の英霊記念碑が2006年2月、台北県当局に強制排除された問題で、地元側が排除処分の取り消しと原状回復を求めていた行政訴訟の差し戻し審判決が24日、台湾の高等行政法院であった。 判決は県側の主張を退け、処分の撤回を命じた。3年に及んだ記念碑問題は、法廷論争でも地元の主張が受け入れられ、解決に向けて大きく動き出すことになった。 この記念碑は、敷地を提供した観光会社の倒産で存続が危ぶまれたが、これを伝えた産経新聞の記事をきっかけに3000万円を超える義援金が日本の読者らから寄せられ、2006年2月に現在の県有地に移設された。ところが県側は碑文が「日本の軍国主義を美化している」などと決めつけ、敷地内にあった8つの石碑を強制撤去、記念碑を竹の囲いで封印した。 これに対し「排除命令は違法であり無効」とする地元は、法廷闘争に持ち込んで処分撤回を求めてきた。07年12月に高等行政法院は訴えを却下する裁定を下したが、最高行政法院は地元側の抗告を認めて差し戻し、3回の審理を経たこの日の判決では、一転して処分撤回を命じた。 判決文は一両日中に公開され、県側が上告する可能性もあるが、県は行政訴訟と並行して記念碑一帯の公園化による地元との「和解」の道を探ってきた。昨年5月には地元側と初めての公開協議を行い、記念碑を歴史的な観光資源として再開発する計画を提示。日本語で書かれた碑文に訳文をつけることなどを条件としながらも、記念碑の囲いを取り払い、他の石碑も全面返還することを約束した。 年末に予定される統一地方選を控え、地元との対立が続くのは得策ではないとの政治判断が県側に働いたとみられる。遅れに遅れた公園化計画も、3月に入ると記念碑の囲いの一部が取り外され、対立点を残しながらも新たな造成工事にも着手し、状況は好転している。 地元で記念碑を守ってきた「烏来郷高砂義勇隊記念協会」のマカイ・リムイ総幹事は「3年の道のりは長かったが、判決は最終決着への大きな一歩だ。日本の善意に対して恥ずかしい思いをし続けたが、今度こそ記念碑を日本精神が根づく義勇隊の誇りの軌跡として、また日台を結ぶ友情のきずなとして残していきたい」と話している。 2009年 03月 21日
(読売 2009/3/18) http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090318-OYT1T01107.htm 佐賀県みやき町のNPO法人「戦没者を慰霊し平和を守る会」は18日、米国立公文書館で見つかった太平洋戦争中の日本兵捕虜ら約6000人の死亡者リストを同会のホームページ(HP)で公開した。 リストは、同会の依頼を受けた東京の調査会社「ニチマイ」が発見。読売新聞がローマ字表記の氏名をカタカナにしたうえで埋葬地などを翻訳してデータベース化した。 同会はこのデータを活用し、HPに掲載した。 ◇NPO法人 戦没者を慰霊し平和を守る会 〒849-0112 佐賀県三養基郡みやき町江口7561 TEL:0942-89-5135 FAX:0942-89-9281 メール:senbo-peace@senbotsusya.com H P:http://www.senbotsusya.com/horyo.php 2009年 03月 14日
(産経 2009/3/12) ≪木造の家屋狙った焼夷弾≫ アメリカが日本の人口密集地に焼夷(しょうい)弾を使用することを考え始めたのは「パールハーバー」よりもはるか前のことである。日米戦を想定して、「木と紙」でできている日本の家屋を攻撃するには、焼夷弾のような火炎兵器が最も効果的だと分析した。 アメリカが日本の空襲用に開発した焼夷弾は「M69油脂焼夷弾」とよばれ、本体はゼリー状のガソリンである。開発責任者のR・ラッセルはスタンダード石油会社の副社長だった。焼夷弾1本の形状は、野球のバット半分程度の鋼鉄製の筒である。これを38発、鉄バンドで束ねたものを上空から投下すると、バンドが空中ではずれ、広い範囲にバラバラと落下し、家屋を燃やし、あたりを火の海にする。アメリカはテキサスの砂漠にわざわざ日本式の家屋を建てて実験し、効果が抜群であることを確かめていた。 南太平洋のサイパン島を基地として、アメリカは昭和19年11月からB29による日本本土への空襲を開始していた。 しかし、それは、(1)飛行機工場などの軍需工場を目標に、(2)日中、(3)高度1万メートルの上空から爆弾を投下するもので、命中率は平均5%程度にすぎなかった。 同年12月29日、ホワイトハウスでルーズベルト大統領、マーシャル参謀総長らを含む秘密の作戦会議が開かれ、日本本土爆撃作戦を再検討した。そこで決まったのは、(1)民間人を直接の対象とし、(2)夜間、(3)低空飛行で焼夷弾を投下する、戦時国際法違反の「無差別爆撃」だった。 ≪最大の戦争犯罪のひとつ≫ この作戦変更に伴い、マリアナ3島の司令官のクビがすげ替えられた。民間人の家屋を焼く焼夷弾攻撃に反対していたハンセル少将にかわって、ドイツ・ハンブルクの絨毯(じゅうたん)爆撃をやり遂げたカーチス・ルメイ少将が任命された。 ルメイは江戸時代の大火の50%が3月上旬に集中していることを調べ上げた。春先の強風が吹くこの時期が作戦には最も効果的だと分かった。3月10日は日露戦争の奉天会戦で日本が勝利した陸軍記念日だった。 前日、マリアナ諸島を飛び立った325機のB29は、少量に抑えた燃料と満載の焼夷弾を抱えて東京を目指した。作戦計画に従ってまず、正方形と2本の対角線のライン上に焼夷弾を落として火の壁をつくり、住民の退路を断った上で、1平方メートル当たり3発、総重量2700トンの焼夷弾を、雨あられと無辜(むこ)の市民の頭上に降り注いだのである。 ルメイは戦後、「もし、アメリカが戦争に負けていたら、私は間違いなく戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸い、私は勝者の方に属していた」と述べている。一夜にして10万の市民を焼き殺した「東京大空襲」は、第二次世界大戦の最大の戦争犯罪の一つであろう。 東京都江東区で家具店を営む滝保清さん(現在80歳)は、64年前の3月10日、空襲による業火の中を逃げ惑っていた。当時16歳の中学生で、早くに父を亡くした保清少年は、数日前に運悪く足にけがをして歩けない祖父を背中に背負い、安全な方角を目指した。だが、火の勢いは激しくなる一方で、やがて祖父の背中のドテラが燃えだし、煙と熱風の渦に巻き込まれた。 目の前で燃えている祖父を残し、「後ろ髪を引かれる思いで、生きたいという本能と窒息の苦しさから逃れたい一心で」(私家版冊子『赤い吹雪』より)逃げ出さざるを得なかった。 ≪国立慰霊碑の建立を急げ≫ 長い年月がたち、つらい地獄の体験をやっと他人に語る心境になった滝さんは、平成3年、東京大空襲の犠牲者を追悼する慰霊碑の建立を求める署名運動を地元の仲間とともに始めた。 本業をそっちのけで奔走し、3月10日の犠牲者の数を超える11万5000人の署名を集めきった。 願いは国会に通じ、平成17年11月1日、衆議院本会議で国立慰霊碑建立の請願が採択された。昨年12月、自民党の国会議員からなる「戦災犠牲者の国立慰霊碑建立を目指す議員の会」(下村博文会長)が設立された。 しかし、所管の総務省は、兵庫県姫路市に昭和31年に民間の寄付で建立した「全国戦災都市空襲死没者慰霊塔」があり、国が新たに慰霊碑をつくる予定はないという。滝さんは、個人や民間や自治体ではなく国が慰霊碑を建ててほしいと切望する。 空襲犠牲者は、東京都のために死んだのではなく、国のために命をささげた点で戦死者と同じではないか、と言う。 滝さんたちが署名運動を始めてからすでに18年の歳月がたつ。残された時間は少ない。政治と行政は、一刻も早く決断すべきである。 2009年 03月 11日
(産経 2009/3/9) 3月10日は、東京の下町一帯が米軍のB29の無差別爆撃を受け、10万人が死亡した東京大空襲から64年目の命日にあたる。広島 、長崎の原爆の日(8月6日と9日)とともに、多くの非戦闘員が犠牲になった日として、忘れてはならない日だ。改めて犠牲者の冥福を 祈りたい。 日本が頻繁に空襲を受けるようになったのは昭和19年夏、サイパン、テニアンなどを失い、本土がB29の行動圏内に入ってからであ る。当初は軍事施設を狙った精密爆撃が中心だったが、昭和20年1月、米極東空軍司令官に着任したカーチス・ルメイ少将は、木造の住 宅密集地を標的にした無差別爆撃に切り替えた。 それは、まず爆撃目標地域の周囲に焼夷(しょうい)弾を投下し、逃げ道をふさいだうえで絨毯(じゅうたん)爆撃を加える方法だった 。無差別爆撃は東京大空襲の後も、名古屋や大阪などの大都市や地方都市に加えられ、犠牲者総数は50万人を超えた。 1922年、ハーグで日米英などの法律家委員会が作成した「空戦に関する規則(24条)」は未発効ではあったが、軍隊や軍事施設以 外の目標への爆撃を禁止していた。当時の米政府は「戦争終結を早めるため」と正当化したが、日本の敗色が濃厚な時期に、非人道的な無 差別爆撃が本当に必要だったのか、極めて疑問である。 昨年、BC級戦犯裁判でB29の搭乗員を処刑した罪に問われた岡田資中将の法廷闘争を描いた映画「明日への遺言」が上映され、大き な反響を呼んだ。この映画は無差別爆撃の非人道性を問いかけた作品で、この問題に関する国民の関心の高さを物語っている。 近年、ヨーロッパでも、第二次大戦中の戦勝国の非人道的な行為を検証しようという試みが始まっている。 東京大空襲の1カ月前の1945年2月、ドイツの古都、ドレスデンが米英空軍の無差別爆撃を受け、数万人の一般市民が死亡したとい われる。戦後、ドレスデンは東独に属し、ホロコーストへの負い目もあって、連合国への批判が控えられてきたが、60周年にあたる20 05年2月の式典では、5万人の市民がロウソクをともし、犠牲者を追悼した。 戦争はいつの時代も、勝者の側から見た歴史だけが語られがちである。だが、敗者の側から“勝者の戦争犯罪”を検証することも大切で ある。 2009年 03月 11日
(産経 2009/3/10) ■赤い東の空。幾十万の人々が家を失ひ、傷づき倒れながら右往左往してゐるのだらう。「東京最後の日」となるのだらうか(野田宇太郎) 「陸軍記念日」の昭和20(1945)年のきょう午前0時すぎ、米軍の爆撃機B29約300機が浅草や深川など東京の下町を襲った。詩人、野田宇太郎は吉祥寺に住み、このときは被災を免れたが、戦禍は彼の想像を超えていた。 「まず下町一帯の密集地帯の周辺に焼夷(しょうい)弾を落として火災をおこさせ、住民の逃げ道のないようにしておいたうえで、つぎに外から中へたたいていったのである。包囲爆撃、ジュウタン爆撃、みな殺しであった」(新名丈夫(しんみょう・たけお)著『太平洋戦争』)。被災者は100万を超え、行方不明者を含めた犠牲者は10万人以上にのぼった。民間人を巻き込むことを想定した無差別爆撃。「軍需工場近くに民家が密集し、軍需用の小規模家内工業が住宅地に混在していた」(文芸春秋社『世界戦争犯罪事典』)などと米軍は説明した。しかし、明白な国際法違反だった。 「お化けのようなヤケドの人をみても死人をみても、すでに鈍感な神経になったごとく、周囲の人びとの作業は昼となく夜となく奉仕の心で続いておりました」。大著『東京大空襲・戦災誌』にある無名の女性被災者の証言である。その尊い姿を思うとき、ただ、頭を垂れることしかできない。くやしい。 < 前のページ次のページ >
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