2008年 07月 13日
(週刊新潮 2008/7/10) 日本が支那をよろしく指導し力を合わせるようになれば、白人国家はアジアにもつ権益つまり植民地を失うと、F・ルーズベルトは考えていた。 だから支那を日本から引き離し、反目させる、というのが彼の戦略だった。 支那人は無能なくせに虚栄心が強い。それで強欲というしょうもない性格をしているが、それを理解すれば操るのは簡単だ。 で、宋美齢を米社交界に入れ、蒋介石には偉大な支那が日本如きにつき従うのかとけしかけた。 蒋は考えた。日本と組んでアジアのために白人列強と戦ったところでどれほど勝ち目があるのか。 彼は迷わず英米側に寝返る道を選んだ。そしてカネと引き換えに南京大虐殺とか日本を陥れる様々な嘘を捏(こ)ね上げた。嘘は支那人の特技だ。それが役に立ったわけだ。 ルーズベルトは蒋に寝返りの証拠として日本との全面戦争をやれと命じた。 ただ蒋介石は空軍を持っていなかった。対日戦で大いなるハンデになるから、それは米国が全面支援することにした。 最初に飛行教官を買って出たのは退役飛行士のロバート・ショートだった。 彼はボーイング社製の複葉軽爆を売り込みがてら南京に単機、飛んだ。ちょうど第一次の上海事変のころで、彼は空母「鳳翔」から飛び立った三式艦上戦闘機の一群と遭遇した。 彼は迷うことなく攻撃に出てあっけなく撃墜された。 これが日本海軍機による初の撃墜記録になる。 彼はなぜ無謀な空戦を挑んだのか。ジョン・ダワーの「人種偏見」によると、当時の英米では日本への嫉妬から「彼らは背負われ、揺すられて育ったから内耳管に欠陥がありバランスがとれない」「近眼で射撃も急降下爆撃もできない」「技術不足でろくな航空機をもっていない」といった偏見がまかり通っていた。 そんな相手だ。全機撃ち落としてやるかと彼は思ったのだろう。白人優越主義が生んだ喜劇といえる。 しかし米国は彼の死から何の教訓も得なかった。 米国はJ・ジョエットを次の教官として送りこみ、百人ほどの支那人パイロットの養成をしたが、供与した機材はカーテイス・ホークⅡなどの複葉機だった。 対する日本はとっくに低翼単葉の三菱九六式艦上戦闘機を投入していた。 米国は第二次上海事変の前にクレア・シェンノートを軍事顧間に派遣し、機材も日本並みの低翼単葉のノースロップⅡEを入れて増強を図った。 だ問題は支那人パイロットの技量だった。 シェンノートと宋美齢が立ち会う中、夜間攻撃から帰投する支那軍機の様子が「シエンノートとフライング・タイガース」(吉田一彦著)にある。 「一番機は滑走路を駆け抜け水田に飛び込み、二番機は地上で宙返り、爆発炎上した。四番機は消火に急行した消防車に激突した」。結局、十一機のうち五機が着陸に失敗し、四人の操縦士が死んだ。 そのシェンノートの指揮で五機のノースロップ機が上海・黄浦江に入った巡洋艦「出雲」の爆撃に出た。 四発の爆弾が落とされたが、一発は黄浦江をのぼる汽船に当たって船は沈没する。 残りは外灘(バンド)のパレスホテルや娯楽場「大世界」の前に落ちて千数百人が死傷する惨事になった。 まともに着陸もできない支那人パイロットの技量ではしょせん急降下爆撃などは無理だった、ということだろう。 ところが、この惨事について英米の新聞は実に奇妙な論評をしている。 例えば「米国人記者が見た戦前のシナと日本」の著者J・パウエルは「細心の注意を要する爆撃配置につく前にジヤップに攻撃されて」負傷した支那人パイロットは帰投するのに邪魔な爆弾を途中で落としたらそれが「込み合う大世界前の広場を直撃した」と。 未熟な支那人操縦士が細心の注意を払っているときにそれを日本側がかき乱した。責任は日本側にあるという書き方だ。 それなら若葉マークを付けて飛べばいい。 先日の情報誌に支那が米本土にも飛べるステルス爆撃機「轟8型」を開発したとあった。 あまり怖さを感じないのはなぜだろう。 2007年 12月 28日
http://ameblo.jp/lancer1/ 1945年 連合国報告書 132万人 1948年 蒋介石国民党政府の報告書 438万人 1950年代 中国の教科書 約1000万人 1985年 中国政府発表 約2100万人(抗日40周年) →これ以後 博物館や教科書で公式数字となる 現在 約3500万人 (江沢民が演説で発言後、南京の記念館で公式数字となる) 2007年 06月 02日
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070524k0000e040001000c.html 太平洋戦争開戦前から戦後にかけて、昭和天皇の肉声などを記録した英国政府の機密文書が、ロンドンの公文書館に残っていることが分かった。 天皇の性格分析や日中の衝突を避けるため天皇が駐日英国大使に依頼する生々しいやり取りなども記されている。文書は、当時の英国が皇室をどう見ていたかを示す貴重な資料でもある。 文書は、主に駐日大使が本国に打電したもの。「SECRET」「CONFIDENTIAL」などのスタンプが押され、「極秘」扱いされていたことが分かる。 一部は、ジャーナリスト、徳本栄一郎氏が書いた「英国機密ファイルの昭和天皇」(新潮社、25日出版)に掲載される。 文書には、日中戦争の引き金となった1937年7月の盧溝橋事件後に来日した英国大使が同年10月14日、昭和天皇に皇居で会った際の会話が記されている。 天皇は「日中事変で日英関係が急速に悪化していることに、私は深い懸念を持っている」「かつての良好な日英関係に戻すのを心から願っている」などと明かしたうえで、「どうか、大使も力を貸してほしい」と要請。 大使が「良好な日英関係を築く唯一の基盤は、中国を敵ではなく友人とすることです」と応えると、天皇は「その方向に、すべての努力を傾けなければならない」と語ったことが記されている。 また、37年9月24日の英国外務省報告文書では、日本の政治システムを「天皇を取り巻くアドバイザーが(略)日本の政策を決定していく」と分析。 そのうえで、天皇の性格を「周囲の人間の操り人形とならないためには強い個性が求められるが、今の天皇はそれを持ち合わせていない」 「弟の秩父宮のように自由を与えられず、自分の意見を形成する機会を持てなかった」と記している。 ▼昭和史に詳しい作家の保阪正康さんの話 昭和天皇の戦前・戦後の言動は、側近たちの記録などに加え、これまでは占領政策の中核を担った米国の資料に主に依拠して解明が進められてきた。 今回の資料は、ドイツや中国を含めた他の国々の資料からみる必要性があることを浮き彫りにした。 2007年 01月 24日
2007/01/19 http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/103746/ 今朝の朝日新聞は政治面で、「与党、訪中ラッシュ 雪解けムード演出狙う」という記事を載せています。「自民、公明両党の国会対策委員長が20日から4日間、北京を訪れるの皮切りに、党三役クラスなどの訪中計画が相次ぐ」という内容です。 朝日が報じているように、今月に入ってすでに公明党の太田昭宏代表が中国に行っていおり、自民党の二階俊博、公明党の漆原良夫両国対委員長があす、中国へ出発します。 また、自民党津島派の議員も中国詣でをするようですし、2月末には自民党の丹羽雄哉総務会長、3月には自民党の中川秀直、公明党の北側一雄両幹事長も訪中する予定です。 …どうしてこう国会議員は中国に行きたがるのか。ちょっと目を離すとすぐ朝貢外交を始めようとするのか不思議でなりません。 このうち何割の議員が先方と本当に有意義な議論をし、日本の主張を正しく伝えるだろうかと心配でなりません。ただ、中国側に利用され、歓待されて喜んで帰ってくるだけの人もいそうですね。 安倍政権になって、「表面上」は日中関係が好転したからといって、このはしゃぎようは何なのかと思っていたら、あの中国傾斜が甚だしい公明党議員の中にも、「こんなことでいいのか」と現状を憂いている人がいるようです(同僚の取材メモによると)。 しつこいようですが、公明党議員ですらそう思うのに、議員は中国に行くこと、招かれることがステータスであるとでも勘違いしているようです。思う壺にはまっているなぁ。 小泉前首相は就任後の初訪中の際だったか、北京郊外の盧溝橋に連れて行かれ、日中戦争への反省の弁を述べさせられました。 盧溝橋といえば、日中両軍(この場合の中国軍というのは、主に国民党軍)の全面衝突のきっかけとなった昭和12年7月の盧溝橋事件の舞台ですね。 中国側は、これを日本側が仕掛けたとして、記念碑をつくり、反日の聖地にしているわけです。 別に盧溝橋だけでなく、中国は日本の国会議員や修学旅行の学生を南京大虐殺記念館に代表されるあちこちの反日記念館に連れていきたがります。 で、歴史をよく知らない議員や、もともとサヨク・リベラル体質な人は「日本はもっと反省せねば」と中国の仕掛けた罠に引っかかっていくという構図ですね。ワンパターンではあるけれど、効果のある手法だと思います。 それで本日は、10数年前に神戸に行って取材した平尾治さんという方の著書「或る特種情報機関長の手記-わが青春のひととき-」という本から、盧溝橋事件に関する記述を紹介したいと思います。 この方は、支那派遣軍特種情報部部員、済南機関長などを経て、戦後は陸上自衛隊に勤務し、退官後には在日米陸軍図書部顧問などを務めていたそうです。 本から引用しますが、要は事件は中国共産党が仕掛けたという証言です。 《私が北京の方面軍司令部に在勤の折、上司の秋富繁次郎大佐(陸士29期生)に盧溝橋事件の真相について質問してみた。大佐は即座に中共の仕業に間違いないと言われ、その理由を次のように語られた。 支那駐屯軍は当時天津に軍司令部が置かれ、その司令部内に少佐を長とする特種情報班が配属され、無線による情報収集に任じていた。 班に所属する通信手が盧溝橋事件発生の深夜、北京大学構内と目される通信所より、延安の中共軍司令部の電台に緊急無線で呼出が行われているのを傍受した。 電信内容は平文の明●(※石へんに馬)で「2052 0501 0055」ー成功了ーうまくいったーと三回連続して反復送信したという。 その時は何がうまくいったのか判断に苦しんだが、数日してこれは盧溝橋で日中両軍をうまく衝突させることに成功したと、報告したことに間違いないとわかったとか。 この電報は中国軍の機要室でも傍受したらしく、青島で戦後中国参謀と会談の際、出所ははっきり言わなかったが、盧溝橋事件の直後、延安に成功電報を打ったから、これは中共の陰謀であったと話していた。》 《東京裁判で、連合国側は盧溝橋事件は日本軍が起こしたものと判断し、当時の責任者として河辺旅団長、牟田口連隊長を戦犯として起訴拘留していた。 ところが昭和23年頃だったか、中共政府の劉少奇副主席が突然西側諸国の記者団に対し、証拠を示して盧溝橋事件を起こしたのは自分が北京大学の学生を使って発生させたものであると発表した。 東京裁判判検事団は大騒ぎとなり、すぐ二人の戦犯容疑を取消して釈放された。 この頃中共政府は日本に対しとても好意的で、毛主席も日本の訪中団に対し、中国の共産革命が成功したのは、旧日本軍が国府軍を撃破してくれたお陰だと、とても感謝していたとか。 又盧溝橋事件の裏づけとして、戦後中共軍に入隊していた葛西純一氏が、中共の47年(昭和22年)人民解放軍総政治部発行の「戦士政治読本」には、「7・7事変は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が、決死的行動を以って党中央の指令を実行したもの」と記されてあると、手記を発表されている。 なお仄聞する処によると、この事件の首謀者は、中国革命の最大功労者として表彰されたとか。》 なにぶん、私が平尾さんに取材したのは10数年前のことであり、こうした本の記述について平尾さんがどう解説してくれたのかは記憶に残っていません。 この記述がまるっきり正しいものであるかどうかは、私の知識では判断できませんが、改めて読み返しも興味深いなあと感じました。中共は昔からしたたかです。 ですから、訪中団の方々には、決して先方の主張や言い分を鵜呑みにしないようにお願いしたいです。 そして、毛沢東がかつて社会党の議員に言ったのと同じことを言わせろとは要求しませんが、せめて「今日の中国があるのは日本のODAをはじめとする支援のおかげだ」ぐらいの言葉を聞いてきてほしいところです。 まあ、訪問すると決まったものをドタキャンするような、そんな中国の呉儀副首相のような非礼なまねをしろとは言いませんが、間違っても、歴史がらみで勝手な口約束などして、日本政府の手足を縛るようなことのないように。 また、自民党の某大物議員のように、相手国に取り込まれ、利用されて二元外交に走ることのないように重ねてお願いします。 2006年 12月 23日
http://www.mukai-noda.com/h1.html ●百人斬り競争とは 野田少尉(左)と向井少尉(右) 昭和十二年夏、支那事変がおこりました。日本軍は北京や天津をつぎつぎ攻略していき、八月には じまった海での戦いも、十一月には日本軍の追撃戦となりました。そして、十二月一日、首都南京の攻略が決定され十三日、南京が陥落しました。 国内は戦勝に沸き、それに呼応するかのように、十一月末から十二月にかけ、毎日新聞にふたりの将校の華々しい記事が載りました。 記事とは、どちらが早く中国兵百人を斬るか競争が行われているというものでした。向井敏明少尉と野田毅少尉のふたりが、毎日十数人の中国兵を斬りながら南京に向かっているというのです。 そのころの新聞には、このような創作記事がよくみられました。ヨタ記事だと批判されもしましたが、戦争のさなか、戦意昂揚の記事だとして、深く受け止められることもなく、若いふたりの将校の名は有名になりました。 ●敗戦、ふたりの将校は銃殺刑に 戦友の小笠原芳正氏に託された野田少佐の遺書 ふたりの将校が国内で有名になったころ、中国ではこの記事が殺人競争と歪曲され、南京虐殺のひとつとして、宣伝されていました。 ふたりの将校のみならず、日本のだれもが、殺人競争に作りかえられていることは知りませんでした。 戦争はつづき、向井敏明少尉は歩兵砲の指揮官として戦いつづけました。野田毅少尉も、飛行機の操縦桿を握り、ビルマの南機関に所属し、と戦いつづけました。 昭和二十年になり日本は負けました。南京での戦いは遠い八年も前のことになっていました。 敗戦から二年、突然、ふたりの将校は殺人競争の容疑で南京に連れていかれました。まったく思いもかけぬことでしたが、百人斬り競争はつくり話ですから、説明すれば簡単に理解してもらえると考えていました。 しかし南京の軍事法廷では、南京虐殺が問われ、昭和二十三年一月二十九日、二人は銃殺刑に処せられてしまいます。 遺族たちにとっては、あきらめきれません。運命を悔やむしかありませんでした。 ●『中国の旅』が伝えた百人斬り競争 それから二十数年経過した昭和四十六年、朝日新聞の本多勝一記者が「中国の旅」という連載のなかで百人斬り競争を取り上げました。 そこに書かれたものは、毎日新聞が報じたものとも、南京の軍事法廷のものとも違っていました。 ふたりは上官の命令で殺人ゲームを行い、百人斬り競争を三度も繰り返した、と書いてあるのです。 その記述に対して、ただちに作家の鈴木明が疑問の声をあげました。そして鈴木明は、ルポルタージュという手法により、百人斬り競争がまったくの虚構であることを明らかにした上、毎日新聞の創作記事がもとにふたりは裁判にかけられ、毎日新聞の記者が創作を認めなかったため、ふたりは死刑になったと明かにしました。 それらをまとめた『「南京大虐殺」のまぼろし』は大宅ノンフィクション賞をもらうとともに、ベストセラーとなりました。 百人斬りが架空であることは、そのころの代表的な評論家や作家だけでなく、小田実など左翼文化人も認めることとなりました。 ●虐殺記念館に展示されるふたりの将校 鈴木明に対して本多勝一は反論できませんでしたが、連載が終わると本多は『中国の旅』を単行本として上梓しました。『中国の旅』には日本人の考えつかないような残虐行為が記述されていたため注目され、多くの人に読まれました。 まったく反論できなかった本多勝一ですが、といって百人斬り競争を書いたことが間違いだったと撤回したわけでなく、そのことには一切ふれず、しばらくすると、百人斬り競争を捕虜のすえもの斬りだと言い出してしまいます。 本多勝一が素直に謝れば、すべてが解決したのですが、逆に居直ったのです。 『中国の旅』はそのまま刊行されたため、何年かすると、百人斬り競争を事実と勘違いする人もあらわれ、小学校の試験にだされたり、昭和六十年に建てられた南京の虐殺記念館では、ふたりの将校の写真が等身大に拡大され、もっとも目を引く展示物とされるようになりました。 ●遺族を悲しみに 向井千恵子さん このようなことは遺族を悲しませました。 ふたりの将校は南京の雨花台で処刑されたのですが、向井少尉の遺児である向井千恵子さんは、何度も南京に行って父の霊をなぐさめていました。南京虐殺の展示会は日本各地で開かれ、ふたりの将校の写真が展示されていたので、野田少尉の妹の野田マサさんはそれらに抗議したこともありましたが、受け入れられることはありませんでした。 次の世代になれば、百人斬り競争の真実を知る人もなくなり、百人斬り競争が歴史事実として残るおそれが強くなりました。それを心配したふたりは、自分たちが生きている間になんとしても正したいと考えるようになりました。 そんなとき、向井千恵子さんが稲田朋美弁護士と会いました。弁護士生活を十数年送ってきた稲田弁護士は、そのときから相談相手となり、訴訟という方法で正しく知らせることができるのではないかとアドバイスしました。 これがきっかけで平成十五年四月二十八日、野田毅少尉の妹野田マサさんと、向井敏明少尉の娘エミコ・クーパーさん、向井千恵子さんの三人が本多勝一たちを訴えることにしました。 『中国の旅』を書いた本多勝一、それを単行本として発行する朝日新聞、百人斬りの創作記事を掲載した毎日新聞、捕虜のすえもの斬りを書いた『南京大虐殺否定論13のウソ』を出版した柏書房。 これら四者により、ふたりの将校とその遺族の名誉は毀損され、遺族のプライバシーと故人に対する敬愛追慕の情が侵害されたと訴えました。 高池勝彦弁護士らが加わり、十一名の弁護団が結成されました。 ●東京地裁への訴え 百人斬り競争が虚構であることは三十年も前に決着しているので、まず、そのときの論争の経緯を証拠として提出することにしましたが、遺族は、それよりも遺書が重要だと考えました。 銃殺刑をまえにして、ふたりの将校は遺書を書きました。それら遺書は、同じように拘留されていた同胞によって日本に持ち帰られ、半世紀もの間、遺族によって保存されてきました。 遺書は、創作記事を書いた毎日新聞の記者を恨むこともなく、銃殺刑の判決をくだした南京軍事法廷を非難することもなく、百人斬り報道は記者との雑談のなかから出た冗談話で、それが記事になったことすら当時は知らなかった、と淡々と書き記しています。 死をまえに飾ることはなにもありません。この遺書を読んでもらうことが一番だと弁護団も考えました。 「日華親善の捨石」となる決意を述べた向井少佐の遺書 向井少尉遺書(抜粋) 「我は天地天命に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等への罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男児として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八洲に帰ります。わが死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り、日華親善、東洋平和の因となれば捨石となり幸いです。中国の奮闘を祈る。中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳、死して護国の鬼となります」 野田少尉遺書(抜粋) 「俘虜、非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断りいたします。死を賜りましたことについては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。 今後は我々を最後として我々の生命を以て、残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願いいたします。宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨み晴らさんが為、一方的裁判をしたりなされない様祈願いたします。我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒、我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願いたします。中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳」 ●佐藤振壽カメラマンの証言 百人斬り競争が虚構だと誰もが認めたにもかかわらず、訂正することも、謝ることもしない者が相手です。遺書や論争記録のほかに、さらに証拠をつきつけなければなりません。 百人斬り競争の報道には五人がかかわっていました。ふたりの将校のほか、記事を書いたふたりの記者と、ふたりの将校を撮ったカメラマンです。このうちカメラマンの佐藤振壽さんが健在でした。 そして、佐藤カメラマンは九十一歳という高齢でしたが、当時のことをよく覚えていました。 佐藤カメラマンに当時のことを話してもらうことも大切だと考えた遺族は、佐藤カメラマンの証人申請をして認められました。 平成十六年七月十二日、証言台にたった佐藤カメラマンは、南京に向かう途中で百人斬り競争の話を聞いたときのことを、「百パーセント信じることはできません」「あたかもチャンバラごっこみた いに、目の前の兵隊を、一人斬った、二人斬ったと、そういうような戦争の形は私は見てませんから信用できません」と話しました。 当事者の見聞ほど重要なものがないのは言うまでもありません。 ●本多を証人申請 さらに遺族たちは、本多勝一の証人申請もしました。 本多勝一は『中国の旅』で中国人の言うままを書いたと語っていますが、そのような一方的な記述は記者として許されるものなのか、あるいは、百人斬り競争を捕虜のすえもの斬りに変えたのはなぜなのか、それらを問いただし、百人斬りが虚構であることを改めて指摘しようとしました。 ところが本多勝一は証人尋問を拒否しました。 訴えが不当だというのなら、証人台に立って、いかに『中国の旅』に書いたことが正しいか、いかに百人斬り競争が事実かということを証言すればよいのです。 それにもかかわらず本多勝一は拒否しました。 拒否したことは、『中国の旅』の記述も、捕虜のすえもの斬り記述も、反対尋問で崩壊することを恐れたからでしょう。 さらに驚いたことは、本多が拒否しただけでなく、法廷が本多勝一の証人を認めなかったことです。 すでに、この段階で判決は出ていたといえるでしょう。 このほかにも、遺族は証人申請をしました。 野田少尉は、毎日新聞の報道で有名になったため、故郷に帰ったとき、出身の学校で講演を頼まれています。その講演を聞いたひとりが、野田少尉は中国兵の捕虜を斬ったと話したと記述していました。そのため遺族たちは、当時を知る人を探して野田少尉の講演内容を確かめますと、そのような話を聞いた人はおりません。遺族たちは、そのような人の証人申請もしました。 しかし、法廷はそのような証人も認めませんでした。 ●地裁判決下る 平成十七年八月二十三日、東京地裁で判決が下りました。 判決は、毎日新聞の報道を「虚構であることが明らかになったとまで認めることはできない」とし、本多勝一の『中国の旅』などの記述についても「一見して明白に虚構であるとまでは認めるに足りない」と判定しました。 遺族の訴えをみとめなかったのです。 訴訟の経緯から、このような判決が予想できなかったわけではありませんでしたが、恐れは現実となりました。 野田マサさん、エミコ・クーパーさん、向井千恵子さんら遺族の落胆は見ていることができません。 弁護団長の高池勝彦弁護士、主任弁護士の稲田朋美弁護士、そのほかの弁護士も気落ちを隠せません。 この日傍聴に集まった支援者は百人を超えていました。判決言い渡しの後に行われた集会では、判決に対する驚きとくやしさの声が次々とあがりました。 裁判官は、遺書のなかに真実を見つけることができなかったのでしょうか。三十年前に決着のついた論争の経緯を理解できないのでしょうか。本多勝一が証人尋問を拒否している事実をどうとらえているのでしょうか。 だれもが納得できませんでした。 ●高裁における審議 二月二十二日、控訴審が開かれました。 開廷一時間前から支援者は集まり、傍聴を締め切るころ、その数は六十名を超えました。東京高裁でこそ、という気持ちがあったからでしょう。 その数日前、遺族たちの提出した準備書面の一部は認められない、と高裁から高池弁護団長に連絡がきました。 このようなことは控訴審で往々にあり、その場合、地裁の判決がそのまま踏襲されてしまいます。 そのため、遺族と弁護団が集まり、意見陳述を認めるよう、それとともに本多勝一の証人尋問を求めるよう、改めて要請することにしました。 それに対して裁判所からは、補充弁論を五分以内で認める、という返事があっただけでした。 このようなことから、厳しい控訴審が予想され、法廷は開廷まえから緊張感がみなぎりました。 予定通り午後二時に開廷しました。開廷まもなく、主任の稲田朋美弁護士が補充弁論のため立ち上がり、裁判所の認めなかった準備書面を読みあげました。その内容は、マスメディアが報道の名前のもとに国民の人権を踏みにじった地裁の判決を指摘するものです。 東京地裁の判決を読むなら、改めて熟慮してほしい点であり、このような主張すら法廷は聞こうとしないのかというのがこの時の傍聴者の気持ちでした。 本多勝一側から格別の発言はなく、二時二十五分ころ、協議と称して裁判官は退廷しました。五分ほどして裁判官は戻ってきましたが、発した言葉は、これで口頭弁論は終結にします、というものでした。高裁では分かってもらおうと意気込んでいたところ、一回だけの口頭弁論で終わりだというのです。 ただちに高池勝彦弁護団長が裁判官忌避の申し立てをしましたが、終結後の忌避です、と一言、裁判官たちは退廷してしまいました。 傍聴者は唖然とするだけでした。 ●不当判決に遺族から悲憤の声 野田マサさん(中央) 一週間後の三月一日、申し立てた裁判官忌避は却下になったとの知らせがあり、つづいて三月十二日、判決期日は五月二十四日(水)に決まったとの知らせがありました。 このように、控訴審は一回だけの口頭弁論で終わり、五月二十四日午後一時十分から控訴審の判決を迎えることになりました。 五月二十四日、東京高等裁判所(石川善則裁判長)にて控訴審判決の言い渡しがあり、遺族の訴えは棄却されました。第一審判決とほとんど変わらない、原告側の訴えを無視した不当判決です。 しかし、これで訴訟が終わったわけではありません。 上告という訴えが残されています。 また、真実を見極めようとしない地裁、形骸化した高裁の訴訟指揮、 さらには全国各地で相次いで いる偏向判決、 それらを思い返すと、百人斬り訴訟を支援する会としては、 手をこまねいているわけにいきません。 全国での支援集会をはじめ、さまざまな運動を繰り広げ、 遺族の気持に応えるとともに、 それを支えている弁護団の力になりたいと考えます。 みなさんにはこれまでの訴訟を改めて理解していただくとともに、 これからも、これまで同様の支援をお願い申し上げる次第です。 2006年 12月 23日
昭和12年の南京攻略戦で旧日本軍の2将校が日本刀で「百人斬り」を行ったとする事実無根の報道で名誉を傷つけられたとして、遺族が毎日、朝日両新聞社と本多勝一元朝日新聞編集委員らに謝罪広告の掲載や出版の差し止め、損害賠償を求めた訴訟の上告審で、 最高裁第2小法廷(今井功裁判長)は22日、遺族側の上告を棄却する決定をした。遺族側の請求を退けた1、2審判決が確定した。 2006年 08月 11日
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060809i114.htm 昭和天皇の弟の三笠宮さま(90)が、1998年11月に訪日した江沢民・中国国家主席(当時)を歓迎する宮中晩さん会の席上、江主席に対し、日中戦争に関して「日本軍の暴行を今もなお深く恥じて気がとがめている。中国人民に謝罪したい」と語っていたと、このほど中国で公刊された江沢民外遊録に記述されていることが明らかになった。 天皇陛下はこの晩さん会でのお言葉で先の大戦について触れられなかったが、江主席は答辞の中で「日本軍国主義は対外侵略拡張の誤った道を歩んだ」などと厳しく指摘。 中国側が今回、外遊録で三笠宮さまの発言を初めて公開したことは、歴史問題を巡って日中関係が冷却化する中、戦争を経験した皇族の「謝罪」表明として重要視していることをうかがわせている。 この外遊録は「世界をさらにすばらしくするために」(北京・世界知識出版社)と題した、江沢民外交の記録集。李肇星外相が序文を寄せていることから、党・政府のお墨付きを得た公式文献と言える。 それによると、三笠宮さまは同年11月26日夜、天皇、皇后両陛下の主催で開かれた宮中晩さん会で、「日本の中国侵略戦争中、旧陸軍の将校として南京に駐屯したことがある。日本軍の暴行を目の当たりにし、今もなお深く恥じて気がとがめている。中国人民に謝罪したい」との考えを江主席に伝えられた。 2006年 06月 20日
映画・ドラマ・戦跡観光…愛国教育躍起 平成17年4月14日(水)産経新聞 【北京=野口東秀】中国での反日行動は今年が「抗日戦争勝利六十周年」であることから、今後さまざまな形で噴出するのは確実とみられる。九月の抗日戦争勝利記念日に向けて抗日戦争関連の一連の記念日がめじろ押しで、デモなどの反日行動や記念行事を通じ「反日感情」は高まりそうだ。中国共産党政権は国内の不満を抑え、党への求心力を強めるにあたって、「抗日」を軸に愛国教育を推進する構えだ。 行事の焦点のひとつは、一九一九年五月四日の反日愛国運動「五四運動」記念日だ。第一次大戦後のパリ講和会議で山東の旧ドイツ権益が中国に戻らず日本に付与されそうになったため学生三千人が天安門に集まり日本製品排斥などを訴え、各地に運動が広がった。 日中全面戦争の発端となった一九三七年七月七日の盧溝橋事件の記念日も焦点。一九八七年に五十周年を記念して北京郊外の同橋の近くに中国人民抗日戦争記念館が建設されたが、日本軍が人体実験や子供の殺害など残虐行為を行ったとして、その場面がろう人形などで“再現”されている。ネットでは「盧溝橋に集まれ」との呼びかけがすでに登場している。 日本が降伏文書に調印したことを記念する九月三日の抗日戦争勝利記念日、それに日本による東北部に対する侵略戦争の始まりと位置づけられる一九三一年九月十八日の満州事変(柳条湖事件)の記念日は、一連の抗日行事の焦点であり、中国は「抗日戦争勝利六十周年」記念式典をこの九月に予定している。ネットでは「記念行事に国家指導者が出席して愛国心を鼓舞すべきだ」との声も多く掲載されてきた。 全国人民代表大会(全人代=国会)の代表らからは、「九・一八記念日」には結婚式などの祝いごとを禁ずるべきだとの意見や、十二月十三日の「南京大虐殺の日」を国家の記念日にして愛国教育を強化すべきだとの提案が三月の全人代で出ていた。 記念日にあわせた動きだけでなく日中戦争をテーマにした映画やテレビドラマが多数放映され、中国紙によるとその数は六十以上。映像を通じて愛国主義を高める狙いだ。抗日戦争の歴史的な拠点などへの観光キャンペーンも全国で大々的に展開中で、青少年への教育効果が期待されている。 国営新華社通信によると、八月には旧日本軍による細菌戦の舞台となりペスト菌で約一万五千人が死亡したとされる湖南省常徳に「細菌戦被害者記念館」がオープンし、愛国心を高める教育基地として青少年の見学が促される。 ※この日付は、日本人も記憶しておかなければならない。歴史の勉強には便利だが、ここまで言われても黙って沈黙を守る必要がどこにあるのだろうか。 支那が分裂する事をひたすら待っている状態で、情けない限りだ。まあ、品がいい日本人としては真似をしたいなどとは思わないが、一言、二言、三言、いやそれ以上に言いたくなってくる。 このまま黙っていると、重慶爆破記念日とか、上海事変記念日とか、北清事変変記念日とか、何でもかんでも言い出すのは目に見えている。 ある意味、戦後やってこなかった歴史の検証を政府がやらざるを得なくなるので、良い事かもしれないが、これもちと心もとない気もするが、それでも我が国の立場に立って、正々堂々と論陣を張ってもらいたいと思う。 2006年 05月 25日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060524-00000193-kyodo-soci 日中戦争時に「百人斬(ぎ)り」をしたと虚偽を報道されたとして、旧日本軍少尉2人の遺族3人が朝日、毎日両新聞社と元朝日新聞記者の本多勝一さんに総額3600万円の損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁は24日、請求棄却の1審東京地裁判決を支持、遺族側の控訴を棄却した。遺族側は上告する方針。 石川善則裁判長は判決理由で「日本刀の性能などから記事中の殺傷数などは信じられないが、2人が記者に話した内容が報道のきっかけになっている。 当時『百人斬り』と報道される競争をした事実は否定できず、記事は虚偽とは言えない」との判断を示した。 2006年 05月 22日
国際派日本人養成講座 スターリンはソ連防衛のために、毛沢東は政権奪取のために、蒋介石と日本軍が戦うよう仕組んだ。 ■1.毛沢東の「日本軍閥に感謝」■ 毛沢東は、訪中した日本の政治家が過去の侵略について謝罪すると、「いや、日本軍閥にむしろ感謝したいくらいですよ」、彼らが中国を広く占領していなかったら、「われわれは現在もまだ山の中にいたでしょう」と述べた。[1,p346] 中国共産党(中共)軍は1936年(昭和11)10月に、国民政府軍に追われて1万キロ以上も敗走し、ようやく中国西北部・黄土高原の延安に逃げ込んだ。「長征」と美化するが、実態は大敗走である。「山の中」とは、この延安の事だろう。日本軍が侵入して来なかったら、中共軍は圧倒的な国民政府軍の攻勢に、延安に閉じこもる山賊程度の存在に過ぎなかったろう。 もっとも毛沢東のこの言葉には、日本への素直な感謝というより、「してやったり」という自慢が多分に含まれていると感ずる。日本を日中戦争に引きずりこみ、蒋介石の国民政府軍と戦わせて「漁夫の利」を得る、というシナリオを書いたのはソ連のスターリンだったが、それを主役として演じたのが毛沢東であった。この実績と、党内の競争相手を冷酷な手段で次々に蹴落としていったことで、毛沢東は中国共産党主席の地位を獲得したのである。最近のベストセラー『マオ』には、その過程が活写されている。[1] ■2.スターリンの戦略■ 当時、蒋介石は「安内攘外」、まずは国内の共産党勢力を片付けて国内を安んじ、その後に満洲に打って出て、日本を撃退するという戦略をとっていた。日本は満洲での近代国家建設に邁進しており[a]、当面は中国本土に侵入してくる気配はなかった。 一方の中国共産党は、1931年の満洲事変勃発当初、蒋介石から抗日統一戦線の提案があっても「笑止千万」とはねつけるほど、国民政府を敵視していた。 これはソ連にとっては、きわめて都合の悪い状況であった。スターリンは、ナチス・ドイツと満洲の日本軍とによって東西から挟撃される事態を最も恐れていた。日本が中国との戦争に足をつっこんでしまえば、その恐れは遠のく。 そのためにも国民政府軍を共産党ではなく、日本との全面戦争に向けさせ、両者を徹底的に消耗させた後、中共軍に天下を取らせ、共産中国を実現する。以後、スターリンは、この戦略を追求していった。 ■3.国共合作指示■ 国共合作の好機は、中共軍が延安に逃げ込んだ直後に訪れた。1936年12月、西安に督戦に訪れた蒋介石を、現地で東北軍を指揮していた張学良が監禁し、共産党に通じたのである。張学良は、かつて満洲を支配した張作霖の息子で、父親が何者かに爆殺された後、満洲から退き、蒋介石の陣営に属していた。 張作霖爆殺は、当時、日本軍の仕業であると広く信じられていたが、近年、ソ連情報機関の資料から、スターリンの命令に基づいて実行され、日本軍の仕業に見せかけたものだという事が明らかになった。[1,p301] 当時、共産党は延安に逃げ込んで絶体絶命に境地にあり、11月25日にはドイツと日本が防共協定を結んで、ソ連が最も恐れていた悪夢が現実のものになりつつあった。張学良はこの時期に、蒋介石を裏切り、自分を中国の支配者としてソ連に高く売り込もうという博打を打ったのであった。 張学良を蔭で焚きつけたのは毛沢東であった。毛沢東はこの機会に蒋介石を殺そうとしたが、スターリンはそれを止めさせた。今回の事件に共産党が関与しているという噂がすでに広まっており、もし蒋介石が殺されでもしたら、国民の怒りは中国共産党のみならず、ソ連にも及び、日本と手を組んでソ連を攻撃せよ、という世論が高まる恐れがある、と判断したのである。 スターリンには奥の手があった。1927年にモスクワに留学した蒋介石の息子・蒋経国を、その後も人質として抑留していたのである。スターリンは蒋介石に、自身の解放と息子の帰国とを交換条件に、共産党との戦闘停止を命じた。 これを受けて毛沢東も、スターリンの指示した「連蒋抗日」に沿って、方針転換した。この時期、スターリンは張学良をけしかけて蒋介石を監禁させた毛沢東が日本と共謀しているのではないか、と疑っており、これ以上、勝手なまねをする事は身の危険があったからである。 ■4.冬眠していたスパイ■ この西安事件をきっかけに、国共内戦が終結した。しかし、蒋介石も強大な日本軍との全面戦争は自滅を招きかねないので、自ら動こうとはしなかった。蒋介石と日本軍を戦わせるには、もう一押し必要だった。 翌1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の蘆溝橋で夜間演習中の日本軍に夜10時から翌朝5時に渡って、3度も不法射撃が浴びせられた。日本側は7時間も自重していたが、ついに反撃した処、敵兵の遺体から国民政府軍の正規兵であることが確認された。 この蘆溝橋事件は日本軍の陰謀だというのが、現代の中国政府の主張であるが、この点は東京裁判でも不問にされている。突っ込めば、中国側にまずい事実が出てくるからであろう。近年、現地の第29軍副参謀長・張克侠が共産党の秘密党員であって、日本軍撃滅計画を立て、共産党北方局主任・劉少奇(後に 国家主席)から承認されていた事実が明らかになっている。また、中共軍の『戦士政治読本』の中に、事件は「劉少奇の指揮を受けた一隊が決死的に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」という記載があるそうである。[2,393] 日本の陸軍は不拡大方針をとり、現地で11日に停戦協定を成立させたが、13日、14日、20日、25日、26日と国民政府軍からの不法射撃や襲撃が相次ぎ、日本軍の死者も少なからず出た。日本軍は敵方に和平の意思なしと判断し、開戦を通告、数日にして北京、天津から国民政府軍を駆逐した。 しかし、7月29日、北京東方の通州において、260余名もの日本人居留民が虐殺された「通州」事件が起きた。鼻に牛の如く針金を通された子供、腹部を銃剣で刺された妊婦など、凄惨な光景が報ぜられるや、日本の世論は激高した。[2,p401] ■5.日本も蒋介石も上海での戦争を望んでいなかった■ こうして戦火は華北で燃え上がったが、日本側はいまだ対中全面戦争を望んではおらず、戦場を広げるつもりはなかった。蒋介石も宣戦布告をしなかった。それが突然、千キロも離れた上海に飛び火するのである。 日本は1932年の休戦合意に従って、上海付近には海軍陸戦隊をわずか3千人配置していただけであった。8月中旬までの日本の方針は「進駐は華北のみとする」というものであり、「上海出兵には及ばない」と明確に言明していた。『ニューヨーク・タイムズ』の特派員H・アーベントは、のちにこう回想している。 一般には・・・日本が上海を攻撃したとされている。が、これは日本の意図からも真実からも完全に外れている。日本は長江流域における交戦を望まなかったし、予期もしていなかった。8月13日の時点でさえ、日本は・・・この地域に非常に少ない兵力しか配置しておらず・・・ [1,p340] アーベントは、「交戦地域を華北に限定しようという日本の計画を転覆させる巧妙な計画」の存在に気がついた。彼はそれを蒋介石によるものと考えたが、実際はスターリンによるものだった。 ■6.冬眠していたスパイ■ スターリンはさらに戦火を広げるべく、国民政府軍の中枢で長年冬眠させていた共産党のスパイを目ざめさせた。張治中という南京上海防衛隊の司令官だった。張は1925年頃、ソ連が資金と人材を提供して設立された黄埔(こうほ)軍官学校で教官をしていた。蒋介石が校長となり、国民政府軍の士官を育てる事を目的としていたが、ソ連は学校設立当初から、軍の高い地位にスパイを送り込もうという意図を持っていた。[2,p342] 張は回想録の中で「1925年夏、わたしは共産党に心から共鳴し、・・・中国共産党に入党したいと考え、周恩来氏に申し出た」と書いている。この時、周恩来は黄埔軍官学校の政治部主任をしていた。周恩来は張に対して、国民党の中にとどまって「ひそかに」中国共産党と合作してほしい、と要請した。 蘆溝橋事件当時、張は蒋介石に、上海で日本軍に「先制攻撃」をかけるよう進言した。しかし、蒋介石は耳を貸さなかった。上海は中国の産業と金融の中心であり、また首都南京にも近かったので、ここを戦場にしたくなかったのである。 ■7.作られた国民政府軍と日本軍との全面衝突■ 8月9日、張は蒋介石の許可なしに事件を仕組んだ。上海飛行場の門外で、中国人死刑囚に国民政府軍の軍服を着せて射殺し、さらに部下に命じて、日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵を殺害した。日本側が先に国民政府軍の兵士を殺害し、それに対して、国民政府軍が反撃したように見せかけたのである。 日本側は事件を穏便に処理したいという意向を示し、蒋介石も攻撃許可を求める張を制した。しかし、張は日本の旗艦「出雲」と海軍陸戦隊を爆撃し、さらに「日本の戦艦が上海を砲撃した」と虚偽の発表を行った。民衆の間で反日感情が高まり、蒋介石は追いつめられて、やむなく総攻撃を命じた。 蒋介石が日本軍との全面戦争に追い込まれたのを見て、モスクワは小躍りして喜んだ。スターリンは8月21日に国民政府と不可侵条約を結び、2億5千万ドルを融通して、航空機1千機、戦車、大砲などを売却し、さらにソ連空軍を派遣した。この後の2年間で、2千人以上のソ連軍パイロットと300人前後の軍事顧問団が対日戦に従事した。 一方、日本においても、在日ドイツ大使の私設情報官に扮したソ連スパイ・リヒャルト・ゾルゲが暗躍しており、ゾルゲに通じた元朝日新聞記者・尾崎秀實が、近衛首相のブレーンとして、蒋介石政権との和解の動きを封ずる策謀を行っていた。[b] ■8.毛沢東の「抗日」■ もっとも日本軍と戦ったのはもっぱら国民政府軍で、毛沢東は中共軍の戦力を温存する戦略をとった。蒋介石には、中共軍を正面戦に投入せず、国民政府軍の側面部隊として遊撃戦に使うことを了承させた。そして中共軍の指揮官に対しては、日本軍が国民政府軍を打ち負かすのを待ち、そのあとで農村部を支配地として獲得せよと命じた。 広大な中国大陸では、日本軍は鉄道や大都市を占領するだけで、農村や小さな町を共産党の支配地域としていった。また敗走した国民政府軍の兵隊を集めて、中共軍を拡大していった。 一部の軍の指揮官たちは、この方針に反発し、日本軍との交戦許可を何度も求めたが、毛沢東は拒絶した。一度だけ、毛沢東の許可なきまま、林彪の部隊が山西省北東部で日本の輸送部隊を就寝中に襲い、200名程度の日本兵を殺害した。これを知った毛沢東は猛烈に怒ったという。それでも毛は抜け目なく、この戦いを宣伝に使い、共産党は国民党より抗日に熱心である、と繰り返し広めた。ここ数年でこれ以外の重要な戦闘はしていなかったからである。 日本軍と戦わないばかりか、毛沢東は日本軍の後方で、国民政府軍を攻撃することまで行い、勢力を広げた。その結果を見て、軍の指揮官たちも、次第に毛沢東の冷徹な作戦を賞賛するようになっていった。 ただし毛沢東はモスクワに対しては、抜け目なく、中国共産党の方針は「抗日最優先」で、蒋介石の「統一戦線」に協力し、共産党の八路軍は日本軍と2689回もの戦闘を行った、と報告していた。 ■9.中国人民の苦難■ 1945年8月9日、ソ連軍が日ソ中立条約を破って、満洲に侵攻した。同時に毛沢東は、ソ連侵攻後の地域を共産ゲリラで占領する作戦を進めた。スターリンは蒋介石に3ヶ月以内に撤兵すると約束をしたが、一度、侵入してしまえば、そんな約束は反故にされた。 満洲に居座ったソ連軍は工場や機械設備を丸ごと「戦利品」として運び去り、また投降した満州国軍20万を共産党の配下に置いた。さらに日本軍の武器庫を接収し、中共軍に引き渡した。航空機900機、戦車700両、3700門以上の大砲・迫撃砲、1万2千挺もの機関銃、数十万挺のライフルなどである。さらに北朝鮮にあった日本軍の武器庫からも貨車2千両以上に満載した兵器や軍需物資が搬入された。 しかし、日本軍との戦いを通じて鍛え抜かれた国民政府軍は精強で、ほとんど実戦を経験していなかった共産党軍は歯が立たなかった。ソ連軍が撤退した1946年5月からわずか数週間後には、国民政府軍は満洲の主要都市すべてを奪い、中共軍は崩壊寸前まで追い込まれた。 ここでもまた毛沢東に救いの手が現れる。アメリカのマーシャル将軍が国民政府軍の侵攻を中止させたのである。マーシャルは米政権内に巣くう親ソ派だった。以後、ソ連の援助を受ける共産党軍と、アメリカの援助を受けられない国民政府軍の形勢は次第に逆転していく。[c] もっともソ連からの援助を無償で貰っては借りを作ると考えた毛沢東は、毎年100万トンの食料を送ると約束した。そのために、満州地方から容赦なく食料を徴発し、1948年には数十万人規模の餓死者を出した。また国民政府軍の立て籠もる長春を攻撃したときは、毛沢東は城内を兵糧攻め責めにせよ、と命じ、50万人の民間人の脱出を許さなかった。5ヶ月後に落城した時には、50万人の人口が17万人に減っていた。 1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門の楼上に立ち、中華人民共和国の成立を宣言した。その頃、林彪は「民衆は政権交代に歓喜しているようには見えない」と、ソ連に伝えている。 それも当然だろう。中国共産党政権は、中国人民が求めて得たものではない。毛沢東がスターリンの意向を受けて、日本軍を引きずり込んで国民政府軍との全面戦争を戦わせ、その後も国共内戦で国土を荒廃させた末に成り立ったものである。 しかし、中国人民の苦難はこれで終わりではなかった。権力のためには民衆の苦しみなど歯牙にもかけない毛沢東によって、2千万人もの餓死者を出した「大躍進」や、40万人もの死者を出した「文化大革命」へと続くのである。[d,e] (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(239) 満洲 ~ 幻の先進工業国家 傀儡国家、偽満洲国などと罵倒される満洲国に年間百万人以 上の中国人がなだれ込んだ理由は? http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog239.html b. JOG(263) 尾崎秀實 ~ 日中和平を妨げたソ連の魔手 日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日 の「赤い東亜共同体」が実現する! http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog263.html c. JOG(441) 中国をスターリンに献上した男 なぜ米国は、やすやすと中国を共産党の手に渡 してしまったのか? http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog441.html d. JOG(109) 中国の失われた20年(上) ~2千万人餓死への「大躍進」 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog109.html e. JOG(110) 中国の失われた20年(下) ~憎悪と破壊の「文化大革命」 http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog110.html 1. ユン・チアン『マオ 上』★★★、講談社、H17 http //www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/406206846/japanontheg01-22%22 2. 中村粲、「大東亜戦争への道」★★★、展転社、H3 http //www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886560628/japanontheg01-22%22 < 前のページ次のページ >
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