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◆2・26事件70年に思う歴史のもしも

【正論】評論家・鳥居民 転機となった木戸幸一2度の決断

(産経06/2/25)

≪反乱の鎮圧を先にと奏上≫

 明日は二月二十六日。麻布檜町の歩兵第一連隊、道路を隔てた歩兵第三連隊を主柱とする千三百余人の陸軍部隊が蜂起した日だ。

 東京とその周辺に住む年配者であれば、「二・二六ね、あの朝は大雪だった」と呟(つぶや)くだろう。

 だが、その人の直接の思い出ではない。母や兄から何度となく聞かされた話であり、ドラマの中の一場面の記憶なのである。

 そう、あの日から七十年の歳月がたつ。

 あの日の朝の雪を憶(おぼ)えていなくても、あの雪は大雪だったと語る一言に、だれもが心の奥深くに持つ、あの事件、あの結末までの悲劇のすべてへの想(おも)いがにじみ出る。

 ところで、私がここで記したいのは、二・二六の悲劇の因果関係の網の目のその先で起きた悲劇だ。

 昨年十二月十五日の本欄で、私は近衛文麿公の六十年忌に触れて一文を記したが、そのとき言い残したことに触れることにもなる。

 私は木戸幸一の素早い決断がなかったなら、二・二六は別の解決になっていたと思っている。

 木戸はそのとき、内大臣秘書官長だった。昭和十一年(一九三六年)二月二十六日の朝、内大臣、斎藤実は殺害され、首相、岡田啓介は官邸で殺害されたものと、だれもが思っていた。

 陸軍大臣をはじめ、有力な陸軍将官、そして政治家たちは直ちに新内閣をつくるべしと主張し、反乱部隊、そのときには、かれらのだれもが蹶起(けっき)部隊と呼んでいたのだが、その首謀者の考えに理解を示してきた将軍を後継首班にすることを望んだ。

 かれらのだれもが首相にと考えたのは、軍事参事官、真崎甚三郎だった。

 ところが内大臣秘書官長の木戸は、テロを是認する解決策に反対だった。

 内大臣が殺されたために、かれは宮内大臣と協議した後、天皇に反乱の鎮圧を先にすべきだと言上したのではなかったか。

 天皇は、かれの考えを支持し、採るべき路線は決まった。

≪今度は内大臣として決断≫

 木戸と同じ考えの陸軍将官はわずかだった。陸軍中央の幹部の中では、参謀次長、杉山元だけだった。

 旭川から熊本までの師団長が息を凝らす中、仙台の第二師団長、梅津美治郎ひとりが陸軍中央に反乱軍の討伐を具申した。

 梅津が陸軍次官となって、事件の後始末をし、杉山が教育総監、続いて陸軍大臣となり、陸軍の再建に取り組み、反乱を「教唆幇助(ほうじょ)」したと検察に指弾されることになる真崎甚三郎、そして、その激しい党派性が陸軍内を分裂抗争に導いた小畑敏四郎は現役から逐(お)われた。

 ところが、事件から十六カ月後、中国・北平郊外の盧溝橋での小競り合いは、日本陸軍、蒋介石、毛沢東のそれぞれの思惑、慌てての計画、密(ひそ)かな狼狽(ろうばい)が錯綜(さくそう)する中、拡大を続けた。

 さて、二・二六から五年半の後、昭和十六年九月、日本はアメリカと関係正常化のための外交交渉を行っていた。それより二カ月前、アメリカは英国、オランダと組み、日本に対して石油の供給をとめていた。

 海軍首脳は、アメリカとの関係の完全な修復を望み、そのためには中国からの撤兵もやむを得ないと考えていた。それを言い出せない苦衷を理解して、海軍の主張を代弁しなければならないのは、天皇に「常侍輔弼」の責務を持つ木戸幸一だった。

 五年半前に内大臣秘書官長だった木戸は、そのとき内大臣だった。かれは海軍を救い、もちろん日本を戦争から救わなければならなかった。

≪近衛を見捨て東条を選択≫

 そこでだが、中国撤兵をアメリカに約束し、対米戦争を避けることになったら、どうなったであろう。

 議会と世論は中国と戦うべきではないと以前に主張した陸軍将官が正しかったのだと説き始め、盧溝橋事件の前に陸軍を追われた真崎甚三郎と小畑敏四郎の当然な再登場となり、もちろん杉山元と梅津美治郎は引退し、木戸幸一も内大臣を辞任しなければならなくなるはずだった。

 昭和十六年十月、中国撤兵を求める近衛文麿を見捨て、中国撤兵に反対する東条英機を木戸幸一が選んだとき、かれは何を考えたのであろう。かれは海軍の本心が分からなかったのか。それとも…。

 私が二・二六の悲劇の因果関係の網の目の、その先にある悲劇について記したいと最初に述べたのは、このことなのである。
by sakura4987 | 2006-02-25 07:56

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