◆【阿久悠 書く言う】要するに教育ってのは
要するに教育ってのは 人間は一人では生きられない それをわからせることなのだ
ゴールデンウイークのテレビをはじめとするメディア、そして、ぼくらの日常会話も、「人間失格」という言葉が飛び交った。「要するに人間失格ということですよ」を、会話の結論にする。
JR西日本福知山線の脱線事故の、会社側の対応に、空気の読めない心ないものが多かったことで、人々の怒りを買った。さらに、それが終息することなく、日々新たな非常識が露見することによって遂(つい)に、人間失格という太宰治の小説以来、それほど日常化しない言葉まで使って怒ったのである。
凶悪犯罪の犯人に対して極悪人と指さしたことはあっても、人間失格と断定することはめったにない。極悪人は犯罪への憎悪であるが、人間失格は人間の基本的評価での落第であるから重いのである。
この事故に関しては多くの人が書き、まだまだ語られると思うので、直接には触れない。思いがけない形で飛び出してきた人間失格が、妙に生生しく響くのでそれを書く。
ぼくらは誰かに烙印(らくいん)を押す立場にはないが、理屈に合わない事件が起こる度に頭を抱えていたのが、この一言で済んでしまうということである。現代人そのものが、曲がった常識を真っ直ぐと信じて行動し、結果それが悲劇、特に喜劇を引き起こしている気がしてならないのである。
脱線の直後、置き石説が流れたが、その真偽はともかくとして、置き石という言葉に反応して、電車のレールの上に石や自転車を置く人間が数十人も出現した。
まず、置き石に条件反射のように行動に移す、不思議な意思力がわからない。面白そうだという好奇心か、俺にだってという自己顕示か、また誰にも見られずに石を置くことが出来たという達成感か。
その小さな好奇心、自己顕示、達成感のために、次なる大惨事とそれによる自己破滅を想像出来なくさせるメカニズムは何であろうか。
置き石で逮捕された男は六十七歳、世間を騒がせてみたかったと言っている。そういえば、幼児を撲り殺そうとした十七歳の少年も、同じことを言った。世間を騒がせ、自分が騒がれたいと。
十七歳の事件が先で、その時は世代的な欠落を考えていたが、六十七歳が同じことを言いながら愚行を働くと、これは世代ではなく、日本人が知らぬ知らぬの間に身につけてしまった精神のコレステロールのようなもので、もしかしたら、人間失格を叫ばせているエリート社員たちも、同種の失格条件を備えているのかもしれない。
おそらく、教育の核を失ったまま半世紀過ごしてしまったツケであろう。人間は一人では生きられない、だから、ということを教える初等講座をぼくらは省略し、省略がいつの間にか欠落になってしまったと思えるのである。(あく・ゆう=作詞家、作家)