◆自己否定、持ち込む愚
シンガポール 湯浅博 平成14年5月12日産経新聞
自衛隊の先遣部隊四十九人が三月四日に、独立を間近に控えた東ティモールに大型輸送機で入ったときに、小さなデモがあったと聞かされた。彼らの主張は、第二次大戦で東ティモールを侵略した日本軍は来るなということである。
ところが、デモを目撃した複数の東ティモール人にこの時の様子を聞いてみると、当初の情報からは微妙な部分が抜け落ちていた。デモの周りにいた人々から「何で手助けに来てくれた自衛隊を非難するんだ」と罵声(ばせい)がデモ隊に飛んでいたという。
「ケンカのような険悪な空気だった」と彼らは異様な光景を語った。しかも話には裏があって、デモ隊には東ティモールの若者二十人あまりと数人の日本人が連携し、ご丁寧にも日本語のプラカードをかざしていた。
日本の若者たちは東ティモールの学生や非政府組織(NGO)と被害者意識を共有し、民族感情を刺激した。どこか日韓関係と似たような、日本の謝罪活動家による「日日問題」が持ち込まれていたのである。
彼らの要求が行き着くのは「賠償」と「謝罪」になるだろう。しかし、その前提となる歴史認識と国際情勢には、時代の「流動性」があるから、ことはそう簡単ではない。
東ティモールを二百年も植民地として香料を収奪していたポルトガルが、いまは国連暫定統治機構の中核として民主化の手助けをしている。一九七五年のポルトガル撤退後に、この地を分捕ったインドネシアは当時、「反共の旗手」として西側から黙認されていたとの説がある。
つまり善悪は時代とともに変転しており、これらの国々が「賠償」や「謝罪」をしたという話は聞いたことがない。特に欧米には、「過去の出来事を現代の文脈で判断しない」という原則が貫かれているからだろう。
日本軍は一九四二年に豪・蘭連合軍が布陣するティモールに敵前上陸した。この戦闘でゲリラ戦に加担したティモール側にも多数の死傷者が出た。ところが戦後、日本は中立国だったポルトガルと一九五二年に国交を回復。インドネシアには五七年に経済援助とセットで賠償を実施した。
サンフランシスコ講和条約で賠償責任が問われたからだ。しかし東ティモールは事実上、請求を放棄しているポルトガルの統治下にあったから、法的には賠償義務が生じない可能性がある。
暫定政府のラモス・ホルタ外相は自衛隊が到着した当日、「相手の罪悪感を利用するような姑息(こそく)なことはしない」という趣旨の声明を発表しており、むしろ「独立国家をつくるための経済支援を求めたい」と現実的だった。しかも、日本軍に対する印象も、インドネシア軍の虐殺、略奪、暴行がひどかったせいかそんなに悪くはない。
東ティモールのNGOスタッフだったマリオ・カネラスさん(三〇)の父親は、十代の時に西ティモールに近いマリアナに進駐してきた日本軍のために働いた。父から聞いた日本兵士像は、子供に先に食事を与えるやさしさと、大人たちには規則厳守の厳しさがあった。
カネラスさんは以前、日本のテレビ局のティモール人慰安婦の取材に通訳として同行した。取材班は慰安婦とおぼしき女性に「日本軍はたくさん仕事をやらせたんじゃありませんか」と恣意的に問いかけ、その女性は「仕事は仕事。悪い人もいたでしょうが、みんなやさしかったね」と答えた。
もちろん、カネラスさんの話だけで日本軍の良しあしを決めつけようとは思わない。しかし戦争が悲惨で、そこに愚かな行為があったにしても、自己を全否定すれば国家も個人も生きてはいけない。日本人は敗戦によって自信を喪失し、反省の上に立って通商国家を築き上げてきた。
だからこそ、日本は最大の支援国として六十億円の緊急無償援助を出し、自衛隊は治安に気を配りながら東ティモールの「復興」に手を貸しているのではないか。
それにしても戦争というのは冷酷な力の体系であると思う。朝鮮戦争で韓国を侵略した北朝鮮も中国もいまもって賠償責任が問われていない。理由は引き分けだったから。では、ベトナム戦争で敗北した米国や、中越戦争で侵攻しながら逃げ帰った中国の賠償責任はどうか。実は、これら超大国に「賠償をよこせ」なんていえる勇気ある国も個人もいないのだ。
そこへいくと日本は資金力があるうえに歴史認識の外交カードに弱い。しかも国内には、一緒に連帯する新聞と謝罪活動家もいる不思議な国のワンダーランドなのである。