◆明治憲法の思想 ~日本の国柄とは何か~
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八木秀次(高崎経済大学助教授)
憲法研究を志した理由
本日のテーマ「明治憲法の思想~日本の国柄とは何か~」というのは、学者としての私の学問的目標である。
学生時代、ふとしたことから今の憲法の制定過程に興味を持った。
それは「ポツダム宣言は果たして明治憲法の改正を要求していたのか」ということだった。
中でも最も衝撃的だったのは、美濃部博士が明治憲法の改正に大反対していた事実だった。
ご存じの様に、美濃部博士は「天皇機関説」を唱え、国体明徴運動で学問的にも社会的にも実質的に葬り去られた人である。
本来なら明治憲法の被害者であり憎悪さえ持っていても可笑しくない筈なのに、
その人が明治憲法が占領軍の圧力によって風前の灯火となる段に及んで、
改正の必要は全くないと言って一人論陣を張り、最後の最後まで明治憲法の擁護に廻った。
このことを知って俄然明治憲法に興味が湧き、大学院に進んで本格的に研究してみようと思ったのである。
歴史・伝統に立脚した明治憲法
明治憲法については内容もさることながら、その制定の姿勢に興味を持った。
戦後、明治憲法はプロシア憲法の模倣と一刀両断された。
が、これはまったくの俗説に過ぎない。
周知の様に、明治憲法制定に深く関わった伊藤博文は、憲法学はおろか法律のまったくの門外漢であった。
その伊藤は天皇の命を受け兎も角憲法調査のためヨーロッパに赴くのだが、
伊藤が最も問題としたのは憲法の在り方、憲法とは何か、憲法を創るとはどうゆうことなのか、ということだった。
こうした煩悶を持って伊藤はベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインの門を叩くのだが、
この両学者は憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、
苟も一国の憲法を制定しようというからにはまずその国の歴史を勉強せよ、とアドバイスする。
グナイストにしろシュタインにしろ歴史法学の碩学で、法とは人間が人為的に創るものではなく、
歴史の中に既にあるものから発見するものという学問的信念を持っていた。
この歴史法学の碩学からアドバイスを受けて、伊藤の煩悶は氷解し憲法制定作業は急ピッチに進むことになる。
金子堅太郎と井上毅
明治憲法には伊藤の他金子堅太郎と井上毅、それにヒルマン、ロイスラーが制定に関与した。
ここでは特に金子堅太郎と井上毅について触れたい。
偶然なことに、金子堅太郎と井上毅も伊藤博文とは全く別ながら歴史法学の認識に達していたからである。
金子堅太郎は福岡出身で若い頃岩倉使節団に同行してアメリカへ行き、
現地の中学校、高校を経て、ハーバード大学のロースクールに学ぶ。
この時家庭教師をしていたのが後に連邦裁判所の判事となるホールズで、
金子はホールズから歴史法学を学ぶ。
また金子はエドモンド・バークの著作に非常に惹かれた。
バークは抽象的権利よりも具体的権利を重視した学者で、金子はバークの思想を纏めた「政治論略」を翻訳した。
これが伊藤博文の目に留まり憲法制定に参加することになる。
金子は日本に帰ると現在の日本大学の前身となる「日本法律学校」を創る。
当時は法律と言えば外国法の継受、模倣が主流で、
例えば今の中央大学は「イギリス法律学校」、法政大学は「フランス法律学校」と称し、
それぞれイギリス法、フランス法の継受、模倣を専らとしていた。
帝国大学に至ってはドイツ人教授がドイツ法を講述していた。
そうした風潮の中で、金子は自ら創建した法律学校に「日本」の名前を敢えて冠した。
外国法の継受、模倣ではなく、歴史法学の立場に立って飽くまでも日本の法の研究、確立を志したのである。
このことからも金子の信念と覚悟の一端が窺えるであろう。
「うしはく」と「しらす」
井上毅も同様である。
井上毅はフランス語に非常に堪能で、本来ならフランス法の継受、模倣に傾く筈なのに、
日本はフランスの様な先進国ではなく同じ後進国のプロシアに学ぶべきであるという強固な信念を持っていた。
その際もドイツ法の継受、模倣ではなく、
日本の歴史・伝統に立脚した日本法の確立でなければないという信念を持ち、
古事記・日本書紀などの国典の研究に没頭した。
記紀などの国典にこそ日本の国柄が顕れているという信念からであった。
こうして井上毅は出雲神話の中に、
同じ「統治」でありながら「うしはく」と「しらす」という使い方の区別があり、
天皇に対しては「しらす」「しろしめす」の語しか使われていないことを発見する。
「うしはく」というのは民に対する権力的強権的支配の意味に使っているのに対し、
天皇と民の関係については「しらす」の語しか使っていない。
歴代天皇は民を慈しみ、民の考えを受け入れ、民の幸せの為に統治されて来た。
ここが諸外国の「うしはく」的王権と決定的に異なる日本の国柄である。
こうして明治憲法の第一条「万世一系の天皇統治す」という文言が出来上がった。
伝統に回帰し歴史に徹底した結果、最も近代的な概念に辿り着いたのである。日本においては「復古即近代」なのである。
私擬憲法について
戦後、「明治憲法=悪、私擬憲法=善」、という思想が風靡してきた。
左翼学者が「天皇対国民」の関係を対立的に描き、抵抗史観を殊更煽り立てて来た。
その残滓は今も学校教育に色濃く残って国を歪めている。
だが、自由民権家の私擬憲法と明治憲法とは内容的に言われる程の差はない。
伊藤などは自由民権家の私擬憲法を積極的に参考にした位である。
例えば左翼学者の家永三郎が絶賛する植木枝盛だが、
その憲法草案は第一章を「天皇」とし、非常に皇帝の権限が強い君権主義を唱えている。
東洋のルソーと言われた中江兆民しかりで、イギリス流の立憲主義を唱え、ルソーの様な君権否定の思想はどこにもない。
自由民権家は皆明治維新を闘った尊皇家で、天皇の御存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎ見ていた。
尊皇と自由民権とはイコールであって、矛盾は何もないのである。
天皇の役割
天皇の地位と役割については戦後大きく歪曲されて来た。
天皇の御存在は戦後西洋流の絶対君主として殊更描かれるが、
明治憲法下での天皇の機能は今現在の象徴天皇と同じ運用であった。
「統治権の総攬」というのも形式的儀礼的精神的規定で、
実際的実質的には立憲君主として権力の運用は「司(つかさ) 司(つかさ)」に任せられていたし、
「神聖不可侵」という規定も、どこの国でも規定している立憲君主の無答責を定めた当然の規定である。
むしろ天皇の憲法上の役割で重要なのは、
民の父母、国民の御親として国民、赤子を慈しむ究極の擁護者としての役割である。
明治憲法の起草者も単に立憲君主に留まらない、民の究極の擁護者としての役割を天皇に期待した。
この天皇の役割は終戦の際に見事に発揮された。
世上、天皇は終戦の聖断が出来て、何故開戦の決断が出来なかったという批判があるが、それは立憲主義に対する無理解である。
開戦は立憲君主として司(つかさ) 司(つかさ)に任せられていたものを形式的に裁可されたのであり、
終戦の際は立憲君主としての役割を超えて国民の御親として究極の擁護者としての役割を果たされたのである。
今、国会では憲法調査会が設置され改正への検討が進んでいるが、
こうした天皇、国柄についての根本的認識が何もなく、単なる制度いじりに終始している。
憲法を意味する英語constitutionは、体質、国柄を本来の意味とし、憲法という意味もここから派生している。
このことからしても、一国の憲法はその国の国柄に立脚したものでなければならないのである。

