◆【蒋介石日記】(2)「最も屈辱的」済南事件
■日本滅ぼす決意の発端
北伐による中国統一をみた一九二八(昭和三)年末、蒋介石がこの一年で最も屈辱的と感じたのは、前回紹介したとおり、北京に進撃する北伐軍と山東出兵した日本陸軍が済南(山東省)で衝突した「済南事件」(同年五月三日)だった。
どこまで蒋介石が怒りに身を震わせたのかは、日記によく表れている。事件直後の五月十四日には「毎日、日本を滅亡させる方法を一カ条書くことにする」と記し、翌日から今回公開された三一(昭和六)年分まで、ほぼ毎日欠かさず日記の冒頭に「雪恥」(恥をそそぐ)の二文字を書き続けたほどだ。
ここで大方の日本人は「はて」と首をかしげるだろう。済南事件については、北伐軍兵士らによる在留邦人婦女子の惨殺がまず頭に浮かぶ。「屈辱」の主客が逆では、というのが普通の理解だ。
これと対照的に、日本側で対中謀略の典型とされる張作霖爆殺事件(二八年六月四日)では、蒋介石の記述は「爆弾で負傷し命を落とした」(四日)と冷淡そのものだ。
爆殺前日の日記をみると、「張逆(逆賊の意味)作霖が駆逐され、山海関(中国東北部と中心部の境)を出て行ったが、戦いは終わらず楽観できない。外交、政治とも勝算はない」(三日)と、深刻な書きぶりだ。
当時、蒋介石が日本の関与に感づいていたかはさておき、爆殺を“厄介払い”と受け止めたのは間違いない。記述は「張作霖爆殺」という体験を蒋介石と張学良が共有できなかった証左であり、西安事件の導火線を読み取ることができる。
済南事件の記述に戻ろう。蒋介石は事件を引き起こす北伐軍の第一軍を直接指揮し、事件前日にいったん済南市街の様子を確認している。
≪済南城に六時(午前)入る。沿道では日本軍が鉄条網をめぐらし、おびただしく警戒。わが軍、人民の通行にも横暴であり、亡国のありさまだ。(中略)わが兵への殺傷や捕縛も聞く。種々の挑発や侮辱行為は耐え難い≫(二八年五月二日)
事件前日から、蒋介石の判断は日本軍による「挑発」の一点で固まっていたことが分かる。事件当日の記述はこうだ。
≪遠方で機関銃の掃射音。軍の試射かと調査を命じた矢先、日本軍とわが部隊が市街で衝突して銃撃戦。(中略)午後五時を期して済南からの撤退を各部隊に命じたが、夜も続く日本軍の砲撃でわが通信施設も大破。種々の暴虐ぶりは人の所業ではない≫(五月三日)
いわゆる「歴史認識」は、事実の起きた瞬間から当事者間で食い違いかねない。日本側で事件直後から伝えられた在留邦人への暴行や惨殺に関して、蒋介石は日記で一言も触れていない。報告を受けていなかった可能性は否定できないが、蒋介石を頂点とする権威支配が固まるなかで、この日記に示された認識が「完全な史実」として中国国民の間に定着したことは記憶すべきだろう。
蒋介石が愛用した商務印書館(上海)発売の「学校日記」は、民国十九(一九三〇)年版の通年行事欄で「五月三日 済南惨案国恥記念日」をこう説明している。
≪(日本は)居留民保護を口実に山東に出兵し、五月三日に済南でわが革命軍民千余人を惨殺しました。(中略)九日から十日にも済南に大砲を撃ち込み、軍民数千人を殺したのです≫
記念日の活動として、この説明では全国で半旗を掲げ、「日本帝国主義の野心を暴露する」宣伝活動が奨励されていた。
蒋介石が二八年五月十四日に記した「日本を滅亡させる方法」の第一カ条は、「教育を厳正にし、逸材を用いる」だった。こうした初等教育を受けた世代は、すでに八十歳前後。現代中国で「愛国主義教育」を進めた中国共産党の江沢民前総書記(79)も、この時代の子供だった。
(米カリフォルニア州パロアルト 山本秀也)
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【用語解説】済南事件
1928年5月、中国山東省の済南で、内戦から居留邦人を保護する目的で第2次山東出兵した日本軍が、蒋介石の北伐軍と衝突。混乱の中、日本人居留民12人が虐殺される事件が起きたため、日本政府は第3次山東出兵を声明、済南を攻撃して占拠した。翌年中国政府との協定が成立し、日本軍は撤兵したが、この事件を契機に中国の抗日運動が激化した。
【写真説明】
歓迎の大衆を前に革命のための結束を訴える蒋介石=1927年1月、漢口(現在の武漢市)
◆【蒋介石日記】(3)共産党の脅威、初期は突出せず 両刃の民族主義に苦慮
蒋介石の生涯は、内外の敵との果てしない闘争の日々だった。日記には「倭」の蔑称(べっしょう)を使った日本への憎悪だけでなく、軍閥、党内反蒋派といった政敵への怨念(おんねん)や批判が生々しい言葉でつづられている。
例を二つ紹介しよう。満州事変の起きた一九三一(昭和六)年、広東を拠点に分派活動を強め、同年末に蒋介石を一時下野に追い込んだ孫文の長男、孫科に対しては、「不肖のせがれめ」(同年五月二十七日)▽「倭寇と手を組む売国奴」(十二月二十四日)-と、孫文に払った敬意はかけらも見せていない。
より早い時期では、北伐構想をめぐる対立から、二二(大正十一)年六月に孫文退陣を迫る武装クーデターを起こした広東系の軍人、陳炯明が憎悪の対象だった。「わが国人、党友、子孫よ。陳炯明が元首党魁(孫文)にあだをなした罪を忘れるな。殺さずにおくものか」(二二年八月八日)と激烈な口調だ。
こうした初期のライバルが、最終的に蒋介石を脅かす存在でなかったことは歴史の示すとおりだ。蒋介石にとり、終生のライバルとなったのは無論、中国共産党であり、ほぼ同世代に属した毛沢東にほかならない。
しかし、三一年までの記述には、第一次国共合作(二四-二七年)が途中で実質的に破綻(はたん)してからの共産党掃討作戦や共産党員の粛清は登場するものの、共産党指導者を名指しした激しい非難は見当たらない。わずかに共産党の創設メンバー、陳独秀らの名が出てくる程度だ。
なぜか。三一年の日記にみえる共産党、共産主義への蒋介石の理解はこんな調子だ。
《反動派の争乱はなおやまず、国情は危急を告げ外国の侮りも強まっている。共匪(共産党への蔑称)はもとよりソ連を利用している状態だ》(三一年四月十二日)
《共産主義の実態は一つの宗教だ。マルクス教とでもいうべきであり、世界性、無国境性を有している》(同月十四日)
少なくとも、日記の記述からは、コミンテルンの指導や世界共通の階級理論への視点がめだつ。のちに戒厳令下の台湾で、徹底した反共路線を敷き、「大陸反攻」を叫んだ蒋介石の怨念はこの時期まだ感じられない。
蒋介石は三〇年末から、共産党が江西省などに築いた革命根拠地の包囲作戦を実施し、毛沢東のゲリラ戦術の手ごわさも承知していたはずだ。それでもなお、共産党が中国の支配を国民党と争う存在になることまでは、蒋介石もこの時点で到底予見できなかったに違いない。
むしろ、この時期の記述に見え始めるのは、拡大するナショナリズムにどう対処するかという悩みだ。連載の初回でも少し紹介したが、満州事変で蒋介石がとった「不抵抗主義」に対する学生らの反発は激しく、南京の中央党部(国民党本部)などは、三一年の十一月から十二月にかけて、連日激しいデモに見舞われている。
《昨夜十時すぎ、まさに辞職(蒋介石の下野)の会議を開いていたとき、北平(北京)大学の共産分子が学生を強要して中央党部にデモをかけ、発砲騒ぎとなった》(同年十二月十六日)
デモは翌日も続き、蒋介石は「もし制裁をおこたれば、このゆがんだ学生の風潮は民族を滅ぼすものとなる」(十七日)といらだちを隠さない。
租界の回収交渉など民族主義的な外交を進める上で、一九一〇年代以降、急速に高まった中国のナショナリズムは国民政府の後ろ盾でもあった。
だが、一歩対応を誤ると政権への激しい圧力となるわけで、共産党は地下学生組織を通じてそこを突いたのだ。政権とナショナリズムの微妙な関係は、反日デモへの対応など、今日の中国政治がなお抱える課題だ。(米カリフォルニア州パロアルト 山本秀也)
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■日本時代の1921年 台湾に立ち寄り
台湾が日本統治下にあった一九二一(大正十)年十月、蒋介石が台湾北部の基隆港に船で立ち寄っていたことが、日記の記述で分かった。蒋介石の台湾初訪問は、これまで戦後の四六(昭和二十一)年十月とされ、日本時代の台湾を目にしたことは知られていなかった。
立ち寄りは二一年十月三日で、広東方面から上海に戻る途中、基隆港に約七時間停泊した。下船したとの記述はなく、船内にとどまって読書をしていたらしいが、少なくとも市街風景はながめたものとみられる。日記では、停泊中の荷役などの作業が乱雑だと不満を述べ、「日本の国情の堕落ぶりが知れる」と酷評している。
◆【蒋介石日記】(4)宋美齢…封印された3人の妻
婚姻遍歴 生々しく綴る
一九二七(昭和二)年十二月一日、蒋介石は上海の教会で、終生の妻となる宋美齢と結婚式を挙げた。
《午後一時、孔邸(孔祥煕宅)で礼服に着替え、三時宋邸に到着。教会での挙式後、四時に大華礼堂で正式な婚礼を行う。(中略)愛情このときにあり、余は身をどこに置くべきかも知らず》
興奮は翌日も収まらなかった。二日の日記には「終日新居で愛妻と抱き合い語らう。新婚の甘さがなにものにも代え難いとはこのことか」とまで書き残している。
蒋介石の「新婚」はこれが初めてではない。宋美齢との婚約が調った二七年秋、「申報」などの上海紙に「蒋中正啓事」と題した蒋介石の個人広告が掲載されている。
《ご関心の各位へ。中正(蒋の名)、元妻の毛氏と民国十(一九二一)年に正式離婚。その他二氏とは元来、婚姻関係なく、すでに縁も断っている。家中に二児あるほか妻女はなし。事実無根の風説にはご注意願いたい》(大意)
この広告が蒋介石の私生活に関するガイドラインとなり、蒋介石の権威が確立されると、宋美齢以外の女性関係は封印された。三番目の妻だった陳潔如(七一年に香港で死去)が、英文でまとめた回顧録が台湾で翻訳出版されたのは、李登輝政権下の九二年だった。
ここで蒋介石の四人の妻を整理しておこう。(1)毛福梅(2)姚冶誠(3)陳潔如(4)宋美齢の順番となる。
親同士の合意により、十代で年下の蒋介石に嫁いだ毛福梅は、長男経国を生んだものの二一年に離婚。姚冶誠は芸妓(げいぎ)の出で内縁だったというが、陳潔如は蒋介石の支援者だった大富豪、張静江の媒酌で挙式。回顧録によれば、宋美齢との婚約が内密に固まった後、蒋介石から「五年間の米国留学」を言い渡され、二七年八月に上海を離れた。
毛福梅との結婚生活について、蒋介石は青少年期の思い出をまとめた一七年の日記帳に「ああ、余の逆境ここより始まる。(中略)これ中国早婚の悪しき結果なり」と無遠慮に記している。
それでも母が死去する二一年まで離婚を待った蒋介石だが、日本留学から戻った一一年から姚冶誠との内縁関係を始め、一九年には新たに陳潔如に求婚している。つまり、一九年から二一年までの間には、同時に三人の女性と婚姻、または交際があったことになる。
陳潔如に対しては、求婚後の日記(一九年十月五日)で、毛福梅との失敗した結婚を「十七、八年間もの罪」と呼び、「いま目覚めることができた。もう前車の轍(てつ)を踏むことはない」とまで書いている。
四人の妻のなかで、蒋介石が最も多く陰口をたたいたのが、二番目の姚冶誠に対してだ。陳潔如が妻の座を占めたあとも、蒋家と血のつながらない二男、緯国の面倒を陳と交代でみていたが、新たな妻を迎えた蒋介石への恨みは抑え切れなかったようだ。
《冶誠という女は嫉妬(しっと)が染みついている。いつも人を不快にしてくれるので、ことさら憂鬱(ゆううつ)だ》(二二年十二月十三日)
《冶誠の顔をみるとうっとうしくてたまらない。嫉妬深い女は養い難い。午後の来客は潔如が同席してくれた》(二三年四月十二日)
日記の上で、姚冶誠との関係は二六年の初めまで確認できる。回顧録だと、約六年間の結婚を突然打ち切られた陳潔如も修羅場をみせたようだが、さすがの蒋介石も日記で陳をあしざまに書くことはしていない。
蒋夫人となった宋美齢が、のちの西安事件や対日開戦後の米政府支援獲得で果たした政治的な役割は、蒋介石も予想し得なかったはずだ。陳潔如が夫人のままであったら、宋子文(宋美齢の兄)の交渉関与が期待できなかったことも含め、蒋介石が冬の西安から生きて南京に戻れたかは疑問かもしれない。
だが、その歴史論と、妻を次々と捨て去った蒋介石の遍歴評価は別の次元だろう。陳潔如は上海に戻って中華人民共和国の成立を迎え、周恩来の許諾を得て六一年、香港に移り晩年を過ごした。(米カリフォルニア州パロアルト 山本秀也)

