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◆人権の基礎として道徳教育が必要  平成12年12月9日(土) 産経新聞


  高崎経済大学助教授・八木秀次

◆「闘争の論理」から出発

 今月四日から十日までは、「人権週間」に当たる。これは一九四八年すなわち昭和二十三年の十二月十日、国連の第三回総会において「世界人権宣言」が決議されたことを記念したものである。十二月十日は特に「世界人権デー」と定められている。

 日本人の多くは「人権」という言葉を「生きとし生けるものに対する深い慈愛」くらいに理解している。しかし、それは“麗しい誤解”である。

 「人権」という発想は西洋の精神的土壌の中で生まれた。そのため、「人権」には始めから「闘争の論理」が内包されている。

 十三世紀の初め、イギリスの諸侯は封建契約や古来の自由を破ったジョン王に要求を突き付け、戦いの末に受け入れさせた。そのときの確認文書がマグナ・カルタと呼ばれるものであるが、諸侯は国王から全六三カ条の要求をこのとき「勝ち取った」。一般にマグナ・カルタは人権宣言の嚆矢(こうし)とされるが、このとき以来「人権」には「闘争の論理」が働いている。ただこのときはまだ「人権」という言葉は使われず、「古来の自由・権利」と呼んでいた。権利は歴史の過程の中で生成してきたという意味である。

 今日のように「人権」すなわち「人間の権利」と称されるようになったのは十八世紀末のアメリカ独立革命とフランス革命の頃からである。

◆不利益にもの申す子供達

 アメリカ独立宣言(一七七六年)は「すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利が付与され」と天賦人権論を展開した。これはアメリカがイギリス本国からの独立を「勝ち取る」に当たって、人々の権利はイギリスの歴史の過程の中で生成してきた「イギリス臣民の古来の自由・権利」ではなく、「造物主」すなわち神によって賦与された「天賦の権利」という論理を展開したものであった。これによって権利から歴史性が払拭されることになった。

 フランス革命では「人間の権利」がとりわけ強調された。有名なフランス人権宣言(一七八九年)は正式には「人および市民の権利宣言」というが、ここでいう「人」とは、過去の歴史から断絶されたのみならず、カトリック教会からも「解放」された宗教性のない抽象的な「人間」である。また共同体から「解放」された「個人」でもある。

 アメリカ独立革命、フランス革命を経て確立した「人権」における「人」とは、このように歴史も宗教も共同体も持たない丸裸の抽象的な「人間」である。マグナ・カルタ以来、人々が自己の要求を「勝ち取る」に当たって、自己を振り返り何らかのブレーキの役割を果たしてきた歴史・宗教・共同体はこのとき否定され、それ以来ノーブレーキの「闘争の論理」だけが残ることになった。

 北海道の小学校の教室に「自分の不利益には黙っていない」という標語が掲げられていたという。この標語には「人権」の持つ「闘争の論理」が正確に示されている。教育の現場では「人権教育」と称して、まさに「自分の不利益には黙っていない」という「闘争の教育」が行われている。幼稚な低次元の欲望でさえ、それが制せられると「人権侵害」の声を上げ、要求を「勝ち取ろう」とする子供たちが量産されている。

◆理性的存在の人間否定

 また一部では「人権団体」と連携し、教育基本法の求める教育の中立性まで侵して、「人権団体」の論理に基づいた「人権」を僭称する偏向教育さえ行われている。国旗・国歌・元号が「差別」に当たるという指導や、徒競走に順位をつけたり進学校への進路指導をすることも「差別・選別」に当たるとされる。

 ある県の「人権教育指針」には「常に被差別の視点、人権侵害を被っている人々の視点に立ち、…民間団体とも協力して人権教育を推進していかなければならない」と書かれている。「人権教育」とは「常に被差別の視点」すなわち「民間団体」が「不利益」と考えることに対して戦う姿勢を示す子供を育成することであるというのである。「人権団体」の政治的な主張がそのまま教育の場で展開されることを憂慮する。

 「人権」は人間を歴史・宗教・共同体とは無縁な抽象的で無機質な存在と想定しているため、「人権」の主張は今日では人間の相互の関係を無視した観念の遊戯と化してさえいる。「女性の人権」との関連で「家庭内暴力」が問題とされるが、そこには「経済的暴力」として「大きな買い物の決定権を妻に与えない」ことまでが含まれるという。妻に決定権を与えなければ「暴力」とされ「人権侵害」とされるのである。

 人間の存在自体が否定されるとき「俺も人間だ!」との声を上げるという意味での「人権」主張には人間としての切実さがある。しかし、この「女性の人権」にも見られるように今日の「人権」主張は動物とは異なる理性的存在としての人間自体を否定することになってはいないか。

 「人権」は本来、丸裸の人間を想定しており、そこには「制約の原理」は働かない。だとすれば「人権」の主張が節度あるものであるためには何より、その基礎として道徳が求められることになる。「人権」が単なるエゴイズムの主張とならないために「人権」の基礎として道徳教育が切実に求められている。



※「人権の歴史」が簡単明瞭に語られている。人権を論ずる時に大切なことは、「人」の定義である。人間とは何なのかが定義できないことには「人権」を語れるはずもない。人間が生まれる時にさいし、「人生の目的と使命」があるのかどうかが問われてこその人権である。現在横行している人権は明らかに唯物論の立場に立つ、神なき人権であるが、果たしてそうだろうか。八木氏は道徳が許す範囲での人権を言っておられるが、私は神・仏が許される中での人権だと思っている。この論争をしない限り、我がまま人権が跳梁跋扈していくことになる。
by sakura4987 | 2006-06-12 16:19

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