◆日本軍はベトナム人200万人を餓死させた?
【高山正之の異見自在】オウム騒動の原点 学識経験者って何だろう 1999年07月17日 産経新聞
ハノイの中心街に元フランス植民地政府の徴税局がある。
「よくもここまで思いついた」(A・ビオリス「インドシナSOS」)さまざまな税金やアヘンの売り上げがここでまとめられ、本国に送金されていた。
そこは今、「革命博物館」に装いを変え、「植民地支配に最も効果的だった」(同)ギロチンや拷問道具、ベトナム戦争時代のボール爆弾など百年に及ぶ戦いの記録が展示されている。
今、口先できれいごとを並べる大国の本性を見る思いがするが、そんな中に一室、「日本軍との戦い」と書かれた部屋があった。
のぞいてみると「日本軍のためハノイでは200万人が餓死したり殺されたりした」と説明書きがあって山積みにされた骸骨(がいこつ)の写真がかかっていた。南京の30万でも驚かされたのに、なんでこんなところで200万なんだと、もっとびっくりさせられる。
「そう、日本軍は四年間の統治の間に、燃料が不足したといってはモミを徴発して燃やしたりして飢餓をもたらした」とベトナム研究で知られる東京の某大学教授はいう。「日本はここでも残虐行為をしていた」と。
でも、素朴な疑問がある。日本軍がベトナムを支配したのは昭和20年3月、クーデターを起こして仏植民地軍を追っ払ってから終戦までの5ヶ月間。どうやればそんな短期間に200万人を餓死させられたのか。
「へっ」と教授、「日本の支配って5ヶ月間なの?」
そう、フランスがずっと実権を握ってきた。今に残るサイゴンのチーファ刑務所も昭和18年に完成し、どしどしベトナム人政治犯を送り込んでいたほどだ。
200万人餓死問題だって、ハノイの人民委員会幹部はあっさり「政治宣伝だった」と認める。「あの当時、ハノイ大洪水と干ばつに交互に見舞われ、多くの餓死者がでた。それを時期的に合うので日本軍と結び付けた。ただ、南の穀倉地帯との鉄道が連合国軍の爆撃で途絶えがちだったことも確かで、だから日本にも50万、いや5万ぐらいの責任はあったはず」
随分、思い切った値切りぶりだが、その飢餓の中、「日本軍は仏植民地政府から食糧を買い、われわれが街角で炊き出しをして市民に配ったものです」(ハノイ高射砲部隊兵長、落合茂氏)という証言もある。
同盟通信の小山房二特派員は「ハノイの雑貨店マゾワイエの日本人女性が飢えた市民のために炊き出しをしていた」とも伝える。
この教授はそれも知らずに、ベトナム政府の宣伝を“正直”に信じてきたわけだが、世の中にはもっと変な「教授」もいる。
例えばスマトラ・ブキティンギの「日本の穴」問題。
旧日本軍が地元民十数万人を強制労働に駆り立て地下要塞をつくったあと、彼らの口を封じるために「深い谷底に通じる穴」に投げ込んで虐殺したと、早大の後藤教授が新聞に掲載した。
これはベトナムの200万人話のように現地政府が政治宣伝に創ったものの引用でもなく、単に同教授の創作話だった(石井英夫「蛙の遠めがね」)ことが判明している。
ところが、さらに驚いたことに創作と分かったあと、今度は名大大学院の女性教授がこの話の受け売りを盛んに始めた。どうせなら別の話を創作すればいいのにと思うが、そういう能力はこの教授にはなかったらしい。
こういう「ヘンな教授」が多発する背景に、その育ち方を指摘する声がある。
教授への道はまず偉い教授の研究室に入る。研究員からやがて教授のメガネにかなって助手、さらに講師、助教授へと進むが、このシステムはほとんど江戸時代の丁稚奉公に似ている。ひたすら教授のご機嫌をうかがい、盆暮れの挨拶に引っ越しの手伝いもする。
女性の場合、多くは三十五歳前後で講師に引き立てられたあと、やっと結婚、出産となる。女性教授の初産はなべて37歳辺り、というのがその辺の事情をよく伝えている。
そういうアカデミックさとはかけ離れた世界で育つから、どうしても世間知らずで、ものの見方も偏屈になるのはしようがないのかもしれない。
◇
でも、いったん教授になると今度は周りの受け止め方ががらり変わる。与えられる称号は「学識経験者」。
おまけにそういう世情にうとい人たちは、政府の諮問委員会などには打って付けで、官僚の指導のまま、例えば高速道の値上げや公務員の賃上げなど、役所の意のままの答申をすんなり出す。
でも、たまには高度の判断を求められることもある。オウム真理教の破防法適用を問われた公安審査委員会もそのひとつだろう。
で、「教授」を含めた同じような育ちの6人の「学識経験者」が出した結論は「破防法不適用」。自主判断になれていない者が戸惑った末に出す“逃げ”の手段にも見える。
今、あちこちで市民がオウムに泣かされている。それもこれも学識経験者に本当に学識経験があれば起きようにも起きなかった騒動なのだ。
※ここからは、昨日いただいた資料。
◆ 「日本軍、ベトナム200万人餓死のウソ」
①200万人餓死説はベトナム側のでっちあげ----ハノイ人民委員会幹部が明かす
高山正之・変見自在 http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/110717.html(上記の記事)
二百万人餓死問題だって、ハノイの人民委員会幹部はあっさり「政治宣伝だった」と認める。「あの当時、ハノイ大洪水と干ばつに交互に見舞われ、多くの餓死者がでた。それを時期的に合うので日本軍と結び付けた。ただ、南の穀倉地帯との鉄道が連合国軍の爆撃で途絶えがちだったことも確かで、だから日本にも50万、いや5万ぐらいの責任はあったはずだ。」
②200万人餓死説の最初の火元-------ホーチミンのフランスからの独立宣言に出てくる話
●外国のプロパガンダを日本の左翼が検証もなしに垂れ流し、再生産し続けている。 「南京大虐殺」と全く同じ構造である。
③200万人餓死説のウソは計算すれば直ぐ分かる----コメ355万トンは駐留日本兵の518年分
●ベトナムが主張する「コメ355万トンを奪われた」は当時仏印駐留日本兵約2万5千人の518年分。
中山二郎氏の話-----仏印駐留軍(第21師団)に所属 第21師団は兵員約2万2千人~2万5千人 一人一日コメ5合(750g)--師団全兵士の年間所要量合計は6843.75トン コメ355万トンは2万5千人の518年分。
④200万人餓死説を否定する証言
●石川良好氏(元アイルランド大使)-----当時の日本大使館でコメ行政担当
・食糧危機は若干あったが、200万人餓死説は絶対に考えられない。
・当時、最悪の飢餓といわれた人口5万人の町ビン(ハノイ南方200キロ)に行ったが、人々が菜っ葉いりの白湯をすすっているのを見たものの餓死者は一人も見なかった。
●落合茂氏(元ハノイ高射砲部隊兵長)
・飢餓の時、日本軍は仏植民地政府から食糧を買い、われわれが街角で炊き出しをして市民に配った。
●同盟通信・小山房二特派員
・ハノイの雑貨店マゾワイエの日本人女性が飢えた市民のために炊き出しをしていた。
⑤200万人餓死説がウソであることを示す当時の状況
・1941(昭和16)年大東亜戦争開戦に先立ち仏印政府と協定して仏印に進駐した。 この時当然ながら行政権は仏植民地政府が持っていた。日本が仏印(ベトナム)の行政権を奪取したのは漸く1945年3月9日である。従って日本軍が行政を支配できたのは敗戦までの僅か5ヶ月間である。5ヶ月間に200万人を餓死させるのは物理的にありえないのである。
・コメの輸送を破壊したのは日本軍ではなくて連合国側である。ハノイ人民委員会幹部「南の穀倉地帯との鉄道が連合国軍の爆撃で途絶えがちだったことも確かで」
⑥あの贖罪派の村山富一首相もさすがに訪越時にも触れず。
冷戦下、日本は59年、当時の南ベトナム政権と戦時賠償協定を結んだ。飢餓が起きた北ベトナムに対しては、73年の国交樹立の際にもハノイの賠償要求を拒んだ。昨年8月に訪越した村山首相も、この問題には触れず、ベトナムのホ-・バン・キエト首相も「過去の扉を閉ざそう」と述べた。
引用文献・サイト
・中村粲「教科書は間違っているーー日本軍は500年分のコメを徴発した?」 p59 (日本政策研究センター)※
・高山正之「変見自在」http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/110717.html
・仏印の歴史をしっている?日本軍のベトナム蛮行?
・未解決の"大飢餓"賠償 経済援助優先でタナ上げ
・自由主義史観研究会
<参考>
●平成6年11月5日付毎日新聞(朝刊第3面)---共同配信 (※より引用)
“「旧日本軍の蛮行」非難 「200万人餓死事件」ベトナムが特別報告”「報告書によると、40年9月にフランス領インドシナに進駐した旧日本軍は、その年の3ヶ月間だけで46万8千トンのコメを調達、44年までに計約355万トンを調達した。当時、北部デルタで収穫される、夏・秋米は毎年約108万トンとされており、年によってはほぼその全量を旧日本軍が調達したことになる。
この結果、冬・春米の収穫を加えても44年11月から45年5月までの間、北部デルタの住民に残された米はわずか95万トン。これは『750万人が辛うじて飢えをしのぐだけの量』で国内での食糧搬送も厳しく制限されたため『250万以上が餓死した』としている」
●三省堂『日本史B』329頁 (※より引用)
「米を略奪されたヴエトナムでは飢餓もくわわり、約200万人の餓死者を出すほどの甚大な被害をあたえ---」
●米の所要量の計算
1人1日5合(750g) 750g×30日=2万2500g=22.5kg 22.5キログラム×12月=270kg=0.27トン 人が米を1日5合(750g)食べると年間で0.27トンになる。 米1トンでおよそ年間4人が養える。
●http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-12-08/26_01.html(共産党-赤旗)
●http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/sekai/vietnam/(毎日)
●『ベトナム“200万人”餓死の記録 1945年に本占領下で』 早乙女勝元著 大月書店 1993年
※今日は、昨日知り合いの方からいただいた資料を掲載した。大東亜戦争中に、日本軍があちらこちらで蛮行を重ねたというプロパガンダが流布され、一般の国民は内容をよく知らずに、何となくそれを了承し続けているように思う。
裁判の挙証責任でも、なかったことを証明することは非常に難しいそうだが、しかし、日本人の名誉のためにはやらねばならないことだ。考えてみれば、当時の兵士の日記に「南京虐殺はなかった」や「30万も死者はいなかった」という日記が存在するわけはない。あったとしても、「今日は平穏無事だった」や「死体を見た」程度しか残っていないだろう。
この難解な作業を「昭和史研究所の中村粲先生」が、「これは本来、日本政府がやるべきことだが、残された時間がなくなってきた」ので、証言を集めて会報として出しておられる。誠に誠に有難い事で、感謝してもしきれない気持ちで一杯である。
上記の事も、一部マスコミはろくに調べもせずに、垂れ流しているし、何と、教科書にまで載って、子供たちが今も勉強し続けていると思うと、いても立ってもいられない気持ちになってくる。
自国を愛せない国民が蔓延した国は、必ず亡びる。まあ、これは歴史の鉄則だろう。個人の事を考えればすぐわかる。自分が嫌いな人間が発展するわけがないではないか。その先は自殺という道に繋がっているのかもしれない。
この法則を知っているのが、何度も戦争に敗れては復興してきた、大陸の国家なのだろう。逆に言うと、自虐的にしてしまえば、その国の力は弱まり、支配できるということだ。なので、支那や北や韓国や在日が毎日のように繰り返しているのだ。
だから、政治家は口が裂けても、たとえ事実でも、絶対に認めてはならないのだ。何が何でも、嘘を突き通してでも、詭弁を使ってでも、なかったと言い張らねばならないのだ。それが政治家の最低条件なのだ。
この最低条件を満たしていない政治家が、我が国の政界にはびこり続けていては、国家は良くなっていくはずがない。お人好しの国民性は良い事だし、私もそこが好きだが、政治家はそれを政治の場に、絶対に持ち込んではならないのだ。
「恒久平和議連」に入っている国会議員の名前はこちらだが、この議連が、今度、韓国政府「強制動員被害真相究明委員会」と2月17日(木)14:30~15:50に衆議院第2議員会館の第3会議室で意見交換会をして、また我が国の悪口を言い連ねたのだろう。