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◆東京裁判を変えたかもしれぬ一冊


『紫禁城の黄昏』完訳出版に思う 上智大学名誉教授・渡部昇一 

平成17年4月19日(水) 産経新聞

《謀議も侵略も成り立たず》

 判子一つについての解釈が歴史を大きく考えることがありうる。歴史上の「イフ(もしも)」は限りなくあり、「風が吹けば桶(おけ)屋がもうかる」みたいなものも少なくない。しかし、どう考えても歴史上の大きな問題が、ほんの小さいことのために流れを変えることもあるのだ。

 その一つがレジナルド・F・ジョンストンの『紫禁城の黄昏(たそがれ)』が、東京裁判の証拠として却下されたことである。本書は先ごろ、筆者も監修に加わり完訳本が上梓(じょうし)されたが、この本が証拠として採用されておれば、あの裁判の一番の眼目であった「共同謀議」も成り立たず、満洲国建国を日本の大陸侵略ということができなくなるからである。

 その超重大な一級資料といってよいものが証拠として却下されたのは、「判子」についての知識不足だったのであり、まさに「風が吹けば桶屋がもうかる」みたいな「もしも」であったのである。

 ジョンストンは映画ラストエンペラーの中で、少年皇帝溥儀の側にいつもついていた黒衣の家庭教師(帝師)である。彼は当時、一流のシナ学者であり、後にはロンドン大学教授、同大学東方研究所所長になった碩学(せきがく)であり、うそを書くような人でなかった。

 一九二四年(大正十三年)の十一月二十二日、段祺瑞の軍隊が北京に入ると、溥儀の生命も危うくなった。それで同月二十九日に、溥儀はジョンストンとともに、折りからの砂塵(さじん)に隠れて、日本公使館に逃げ込んだのである。

 芳沢謙吉公使は、躊躇(ちゅうちょ)し考え抜いた上で、溥儀を公使館に受け入れ、温かい待遇を与えることになった。このあたりのことを本当に知っているのは溥儀とジョンストンの二人だけである。

《自ら建国望んだ皇帝溥儀》

 ジョンストンは、溥儀がシナ人に愛想を尽かし、父祖の地に戻り、父祖の位に即(つ)くことを熱望していることを知り、満洲国の誕生を心から喜んだ。そして昭和九年(一九三四年)、つまり満洲国建国二年後に『紫禁城の黄昏』を出版したのである。

 ジョンストンは「シナ皇帝」というような言い方はシナにないことを指摘する。常に王朝の名を冠した皇帝がいるだけで、領土名を皇帝の名称にしない。イギリス王とかフランス王といえば、イギリスとかフランスという領土の王様である。一方、溥儀やその先祖が即位してなったのは大清国大皇帝であった。

 だから明治四年には日本と清国が結んだ条約でも日本は『大日本帝国』でシナは『大清国』である。英文では「チャイナの皇帝」となっているが、それは当時のヨーロッパには領土的称号しかなく、王朝名の称号(たとえばハノーバー朝国王など)は慣習上使わないためである。

 「チャイナの皇帝」は翻訳の問題であり、シナには領土名の皇帝はいない。元朝の皇帝はモンゴル人だし、清朝の皇帝は満洲人である。しかし英語にすれば「エンペラー・オブ・チャイナ」と誤解されやすい称号に翻訳される。だからシナ大陸を征服した満洲族が、その帝国を「清」と称したが、革命で北京を追われたら先祖の固有の領土の満洲に戻って、そこの皇帝になっても少しもおかしくない。

 この辺りのことをジョンストンは学殖豊かに、明快に説き明かしている。そしてリットン報告書を書いた人たちの無知をも指摘している。こんな本が東京裁判に提出して証拠として採用されたらどうなるか。しかもジョンストンの、この本には溥儀の親書が序文として写真版で掲載されているのだ。

 東京裁判でブレークニー弁護人は、溥儀は日本の侵略の犠牲者でもなく、自らが満洲国をシナから独立させることを望んだことを証明しようとした。ソ連に抑留されて生命の危険を感じていた溥儀は、ジョンストンの本に寄せた自分の親書は、満洲国国務総理の鄭孝胥が書いたもので、自筆ではなく内容には関知しないと言ったのである。

《実印の伝統を完全に無視》

 しかし、この親書には「宣統御筆」という玉璽(ぎょくじ)があり、これは民間の実印みたいなものである。しかし実印の伝統のない国からまた弁護人はその点を突かず、ジョンストンの本は証拠として却下になった。日米のインテリが戦前にこの本を読んでいたら、また戦後のこれが東京裁判の証拠として採用されていたら、日本の大陸政策も全く別の目で見られることになり、対中ペコペコ外交も避けられていたであろう。

 保守派の人までが中国に弱いのは、万里の長城の北の満洲がシナ人に侵略されたことを知らないからではないか。



※やはり渡部昇一さんはいい!この方の本にお世話になった方は多いのではないだろうか。上記の「紫禁城の黄昏」も、この先生から教えられた方も多いと思う。

これについては、ブログの「復刻・禁苑の黎明-Twilight in the forbidden city」が完全翻訳を行ってくれているので、いつか時間を作ってじっくり読んでみたいと思っている。本当に有難い方が多く、感謝するばかりだ。 

政治家は何故もっとこの様な方を重宝しないのだろうか???これも現代の七不思議なのだが、歴史学者ではないということからなのだろうか。

しかし、政治というのは、今回の支那の暴動を見ても分かるとおり、ある意味、プロパガンダの戦いでもあるわけで、やはり自国にとって都合のいい意見をどしどし取り入れて、大いに意見を述べる事が大事なのだが、未だにこの課題がクリアできていない。

日本の戦略としては、あくまでも「大東亜戦争肯定論」で押していけばよかったのに、戦後すぐの共産党運動が恐かったのだろうか。事実、戦後まもなくの日本民主党の教科書に対する政策意見の中には、すでに偏向教科書の事がしっかり述べてあるそうだ。

つまり昭和57年の「教科書誤報事件」から 教科書が悪くなったのでは、戦後まもなくからの共産党の暗躍により、日教組や教科書会社を中心として、歴史教科書はおかしくなっていたのだ。

教育や歴史問題というのは、政治の一分野かもしれないが、これを軽く扱うと、全てがおかしくなるという事が、当時も今も、政治家には信念としてないらしい。

この政治論争は、日本においては民間が頑張っているが、相手は国である。正直言って、巨大な相手を敵に民間で戦わざるを得ないのだが、それでもなお、武士道精神を持った人たちが、国の将来のために頑張っている。

各地の教育委員会の委員には、何が何でも「日本人の意地」を見せつけてもらいたいと、心からお願いしたい。
by sakura4987 | 2006-06-20 13:54

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