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◆宗教教育論議が浅薄な日本


武蔵野大学教授、杉原誠四郎氏に聞く 世界日報

宗教的情操の涵養は不可欠  政教分離解釈は「違憲」/友好的でなく社会主義的

教育の目的は人格完成/宗教的無知を形成する学校

 「心の教育」の必要性が叫ばれながら、歴史的に心の問題を扱ってきた宗教に関する教育には政府も学校も消極的だ。その原因はどこにあるのか。戦前からの宗教教育、また日本の宗教文化に詳しい杉原誠四郎・武蔵野大学教授に聞いた。

 ――教育基本法の改正では「宗教的情操の涵養」を入れるかどうかが論点の一つだ。

 宗教教育に関する議論は非常に浅薄で、例えば「憲法の上では宗教を信じない自由もある」という論があるが、宗教を知る立場からは、まともに取り上げるような論ではない。「宗教を信じない」とは「特定の宗派宗教を信じない」の意味で、人間は宗教的ではないという意味が含まれているわけではない。にもかかわらず、あたかも宗教にすがるのは駄目な人間だとでもいうような意味合いで、低次元の議論をしている。

 「宗教的情操の涵養」が最初にうたわれたのは昭和十年の文部省次官通牒(つうちょう)で、明治以来の宗教を軽視する教育への反省が込められていた。この前後、キリスト教の影響で、日本の仏教学者が仏教教育論を展開し、寺で日曜学校を開くなどしている。当時はマルクス主義に対する警戒感が強く、戦争に備えた思想善導の意味もあったが、マルクス主義の虚構性、危険性が歴史的に実証された今から言うと、その警戒感は正しかったことになる。

 戦後は戦前の教育を反省し、宗教教育を充実させる方向に転換した。昭和二十年の文部省訓令で明治三十二年の訓令を撤回し、私立学校においては宗派的宗教教育を行ってもよいとした。これは米国から見ても妥当で、占領軍も容認・支援し、米国並みの宗教教育重視の学習指導要領を昭和二十二年に作成させた。

 ところが、昭和二十年に神道を学校から排除するいわゆる神道指令が出された。それが占領解除後も拡大解釈され、宗教教育を重んじるという教育の普遍性が後退してしまった。

 ――憲法は宗教重視なのか。

 神道指令の影響を受け、憲法で厳しい政教分離を規定しているが、基本的には民主主義憲法なので、政治と宗教は友好的な分離であると解釈すべきだ。社会主義国でも教会を壊すなど直接宗教を弾圧したのはアルバニアだけで、そのほかの国は政教分離を厳しくしたにすぎない。日本の政教分離規定は友好的分離が前提なので、社会主義的な解釈はむしろ憲法違反になる。しかし、宗教を知らない法学者、法的な発言の仕方を知らない宗教者のせいで、政教分離の厳しい解釈を当然視している。

 ――戦前は国家神道による宗教教育が行われていたのか。

 神道は祭祀(さいし)であって宗教ではないという論理で、公教育の中で神社参拝を強制するなどはあった。神道は創始者がおらず、教典がないなど、宗教ではないという論拠は一応はある。戦後は祭祀も宗教とし、祭祀の行事への参列は個人の自由となった。

 しかし、祭祀と宗教一般を全く同一視すると、社会的な不自然をもたらすことにもなる。例えば、祭りが公道を使うのも厳密には憲法違反だ。やはり祭祀と宗教は違うとしないと、憲法を中心に宗教と社会、国家が協調関係を保てない。

 政教分離は個人の信仰の自由を守るのが目的なので、国家と宗教が一致していた状況での条文は、「分けなさい」となる。しかし、それを過度に強化すると、宗教は教会の中だけという社会主義的な政教分離になる。人の心は祭祀を介しても宗教的に豊かになっていくから、祭祀も健全に存続する余地を残しておかないといけない。

 ――今の規定でも宗教教育は可能なのか。

 宗教教育を否定する意図はないので、今の条文でも十分に成り立つ。憲法に「宗教教育をしてはならない」と書いてあるのは、特定の宗派宗教の信仰を公立校で強制するような宗教教育をしてはならないとの意味だ。

 「心の教育」が叫ばれているが、心の究極は宗教的な問題である。人が生きる意味は自然科学では分からず、それを問うことが既に宗教心だ。そうした要素を抜きに教育しようとしたら、教育として成り立たない。

 ――日本の宗教文化の特徴は。

 日本人は特定の宗派に強くのめり込まないで、複数の宗教を並行的に信仰する。飛鳥時代に日本に伝来した仏教は神道の基盤の上に広がったため、神道と仏教が併存する形になった。どちらも国民を独占的に支配することはできず、宗教として過激性を弱めた。大陸から海を隔てている日本には、取捨選択する余裕があった。当時、仏教は儒教や道教とともに入ったが、日本人が一番感動したのは仏教で、空海も仏教が一番いいと言っている。道教は採用せず、儒教はむしろ道徳的な意味合いで入れた。天皇という神道の祭司が仏教を入れたのは、世界の宗教の常識からすれば稀有(けう)なことだ。

 ――鎌倉仏教は世俗の倫理として説かれ、それによって庶民化する。その上で、江戸時代には鈴木正三、石田梅岩らによって庶民の倫理として広がる。

 教育基本法は、教育の目的を「人格の完成」においている。カントも人格を重視しているが、教育目的として「人格の完成」を言いだしのは戦前の日本の教育学だ。江戸時代に、儒教を基に「人間の完成」という観念が作られた。そこに明治以後、人格という概念が入り、「人格の完成」が人間の完成を意味するようになった。ヨーロッパの教育学に教育の目的を「人格の完成」におく伝統はない。「人格の完成」は宗教から生まれたものなので、その意味からも、教育基本法は、当然、宗教的情操をうたわなければならない。

 ――宗教教育をするにしても教える人がいない、テキストがないという反論がある。

 日本には宗教戦争の歴史がほとんどなかったので、日本人には宗教を自覚的に表現する訓練ができていない。それは確かに弱点だが、だから宗教を教えられないというのはすり替えだ。

 今の状況は、例えば国語の教材の中から宗教関係の記事は全くなくなっている。法然は小さい時に父親を殺されている。その父は法然に、おまえは絶対に仇(あだ)を討ってはいけない、仇を討てばその子がおまえと同じ思いをするからと諭す。その教えを守って法然は比叡山に登り、修行した。

 それは今の平和思想からも感動的な話で、国語の教材に入れるのにふさわしい。父親の広い気持ちは宗教から来ており、宗教は人の一生を決めるほどの力を持っていることを伝えることができる。別に浄土宗を広めるという意図ではない。

 次の学年では曹洞宗の道元の話をすればいい。道元は中国の寺で台所の料理をしている人に、料理も優れた修行であることを教えられた。そして次の学年ではイエス・キリストの話を書けばいい。音楽の時間にはいくつかの宗教音楽を聴かせて、音楽の発達の歴史を教えればよい。音楽や美術は歴史的に宗教を土台に発達してきた。

 ところが現在の中学校学習指導要領には、戦国時代にヨーロッパからキリスト教の宣教師が日本に来るが、その歴史の授業でヨーロッパの宗教戦争については教えないようにとわざわざ書いてある。特定の宗教にかかわると政教分離に反するという考えからだ。

 これでは、生徒がキリスト教の原理に触れるせっかくのチャンスを摘むことになる。カトリックとプロテスタントがどのように対立し、カトリックが地球を半周してまで宣教した動機がどこから出てきたのか、それを歴史の事実として教えただけでも、キリスト教の理解が深まる。結局、現在の学校では宗教的無知を意図的に形成していることになる。そういうレベルで見ると、宗教を教える人がいないという次元の問題では全くない。

 宗教を軽視して人の心の問題を解決することはできない。宗教を無視して教育は成り立たない。河村建夫前文科相も二〇〇四年八月三日、日本記者クラブでの講演で、「命の大切さは宗教観から生まれる。宗教観をどう育成するかが重要だ」と述べ、宗教教育の在り方を見直す必要性を強調したが、これは大変よいことである。

 ――宗教者は声を上げるべきか。

 ところが多くの僧侶は世襲宗教者なので社会の問題に敏感でない。そして知識人一般の宗教的無知、宗教軽視は自覚的な信仰の歴史がないからだ。そうした大らかな雰囲気の日本の宗教土壌の良さも十分に理解した上で、社会的、国家的に宗教はどうあるべきかを真剣に考えないといけない。



※この宗教については言いたいことは山ほどある。その一つに、日本の宗教界の堕落がある。戒名に値段をつけよと誰が言ったのか。きんきらきんの衣装をまとえと誰が教えたのか。僧侶の目的は一体何なのか。ふざけるのもいい加減にしろとまずは言いたい。  

さて、「心の教育」という言葉はあるが、心の概念も、心の健康の概念も曖昧なままで、心の教育ができるはずがない。テレビにも良く出る医学者で養老孟司という人がいるが、彼などは、心は脳の中にあって、死んだら何もかも終わりと公言しており、それをまたマスコミは垂れ流しているが、これこそ、大誤報というものだろう。この場合は、死んでから後に謝罪ということになるが、この謝罪はきついことになる。  

この原因は、何も疑おうともせず、長年にわたって培われてきた唯物論的思考癖があって、心というものも唯物論的に考えるのが正しい考え方であり、そうでない考え方をうさんくさいものと見る癖が、いつまでも抜けきらないからである。  

しかし今、明らかに、しかも恐ろしい形でそのツケが回ってきたと言うべきである。近年の様々な事件を見ると、人間に対する尊敬の念などあったものではないし、礼儀というものもほとんどなくなりかけている。

「愛」であるとか、「礼節」であるとか、「謙虚」であるとかいうものは、唯物論からは絶対出てこないのである。その根源に尊きものを認めるからこそ出てくる徳目なのだ。政治家も教師も学者も、そして左翼もマスコミも時には沈黙の時間を持って、熟慮してみるといい。自分の愚かさに気づく時間をとるといい。

「言論の自由」ということも根源を考えれば、「信仰の自由」から出てきたもので、信仰ある人に許された自由であって、何でもかんでも言いたい放題に言うことが「言論の自由」などというのはもっての外なのだ。

信仰にはなじめない人もいようが、それならせめて、大宇宙の神秘に思いをいたし、大自然に、太陽に地球にそして先祖に感謝して手を合わせるくらの心境は維持したいものである。明治の頃までは、朝になるとあちらこちらから、鉄砲を打っているのかと勘違いするほど、拍手の音が鳴り響いていたそうだ。  

先日、小泉八雲の「神国日本」を購入しようと思い、書店で注文したが絶版になっていた。無念としか言いようがなかったが、ここに我が国の現状をまた見ることが出来る。大事な大事なものを捨て去って来ているのだ。現状では、外に期待する事はほとんど絶望的なので、せめて内なる価値観を各人が高めることが大事だと思う。
by sakura4987 | 2006-06-20 14:18

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