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◆教育に取り戻したい「公」の意味


基本法の改正論議に欠けるもの  評論家・作家・麗澤大学教授 松本健一

平成17年4月21日(木) 産経新聞

≪見出せぬ公私のバランス≫

 教育基本法の改正が政治日程に上ってきた。「米百俵」のエピソードを首相一期目の施政方針に引用した小泉内閣であってみれば、市場原理主義に固執するだけの郵政民営化よりも、「米百俵」の本義である教育改革こそまず第一に目指すべきことだろう。

 その意味でも、教育基本法の改正は手掛けて当然である。ただこれは、本来的には、憲法の改正と連動して論じられるべき問題である。

 なぜなら、憲法は国のかたちを原理的、外形的に規定するものであり、教育基本法はその国を根底において支える人間のかたちを精神的、内面的に方向づけるものだからだ。現行の教育基本法がその前文において、わざわざ「われらは、さきに、日本国憲法を確定し…」と述べているのは、憲法と教育基本法が国家の外形と内面の“両輪”を形づくっている事実を物語っていよう。

 では、敗戦直後の日本国憲法と連動してつくられた教育基本法のどこが一番問題なのか。それは、戦後教育の根幹が、この基本法の「個人の尊厳を重んじ…」という個所におかれたからである。この戦後的な理念には、二つの重大な問題点が含まれていた。

 一つは、この「個人の尊厳」の文言は、戦前の教育の基本原理であった「国体の尊厳」に対する否定、もしくは対抗概念に過ぎなかった点である。二つは、そのことにも関係するが、「個人」とは日本語で抽象的な「一個の人間」という意味であり、実体としては「私の尊厳」である。つまり、「私の生命」や「私の権利」や「私の利益」を絶対的な価値として考える精神である。

 そこに、「私の尊厳」を絶対的な理念として掲げた戦後教育の腐敗、すなわち道徳的頽廃も生じたのである。要するに、現行の教育基本法には、「私」と「公」とのバランスがどこにも感じられない。その結果、この改正にあたっては「愛国心」を謳(うた)い込まねばならない、という声高な主張も出てくるわけだ。

≪愛国心より祖国愛の精神≫

 「私」とは、肱(ひじ)を「ム(わたくし)」状に張り、他人と「禾(か)」つまり収穫物を争って独り占めにする、という意味である。それゆえ、日本文化の中での「私」は、私心を抱くとか、私腹を肥やすとか、私利私欲に走るとか、私闘を演ずるとか、ほとんどマイナス・イメージで使われてきた。

 そういった独り占め状態を外に、そうして社会に「八」つまり開いてゆくのが「公」という文字の意味であった。その「公」が、現行の教育基本法では家族にも社会にも国家にも介在されずに、一気に、「世界の平和と人類の福祉」に結びつけられてゆく。

 それゆえ、教育基本法の改正では、その「私」の尊厳が「公」の尊重とのバランスを取り戻す必要があるだろう。現在の論議にあっては、義務的な学校教育において「愛国心」を教えるべきだ、という主張もなされているが、わたしの考えでは、「公」を一義的に国家としてしまったことが戦前の“滅私奉公”教育の最大の過ちであった。

 かくして、わたしの考える教育基本法改正の方向は「愛国心」を謳うというナショナリズムの強化ではなく、むしろ「公」の回復を促すパトリオティズムの再構築である。パトリオティズムは、日本語とすれば郷土愛=祖国愛である。共産主義革命に絶望したエセーニンの詩にある「天国はいらない、ふるさとがほしい」の精神といってもいい。

≪大切なのは先人を敬う心≫

 教育基本法の改正に際して、「国を愛する心」を一元化して謳い込むことに、わたしはあまり賛成できない。あえてするなら、郷土と祖国を二義的に含む「くに」を愛する心、とすべきだろう。学校教育の実際においては、その郷土=祖国を愛する心を、郷土=祖国の風土と歴史、そうしてそこでの先人たちを敬うことで培ってゆくことが大切なのではあるまいか。

 学校教育における“奉仕”の義務化も、生徒一人びとりがどんなことを「公」への奉仕と考えるのか、それを思考させることが重要である。

 現在では私企業に委託されている教室の掃除から、校庭の草むしり、通学路のゴミ拾い、海辺や河川の清掃、そうして地域の老人介護、あるいは国や社会の公的事業への参加から、国際的な奉仕活動まで、自分が「公」と考えて行ないたいことを提案させ、それを教師と生徒の合同の討議にまかせた上で、その「公」への奉仕をみずから義務づける。

 そのことが、生徒一人びとりに「私」と「公」のバランス感覚を取り戻させるだろう、と思うのである。





※なるほど。こう言われてみると、確かにそうかもしれない。無批判に、「愛国心」を教育基本法に取り入れるべきだと思い込んでいたが、公の心についてはほとんど考えてこなかった。

確かに「愛国心」は大事だが、その前に、「他人を愛する心」の醸成が必要だ。国を愛するまでの段階には、まず男女の愛があり、家族への愛という生物学的に当然の愛がある。

次に、「隣人への愛」という、同僚に対する愛であり、友人に対する愛がある。これは隣り近所に対する愛であり、いろんな接する人への愛である。「接する愛」といっても良いかもしれない。

その上に「社会に対する愛」があるだろう。社会の一員として活躍しながら、社会に対して奉仕するという愛である。これがいわゆる、「奉仕」という事になり、「愛国心」もこの中に入る事になるだろう。

この「社会への愛」-「愛国心」にも発展段階があり、「郷土を愛する心」から始まって、空間的に徐々に広がっていく事になる。こう考えてくると、いきなり「愛国心」と言うよりも、その前段階も非常に大事になってくるのだが、現状では、「家族への愛」がすでに風化しつつあるのであり、まずは、足元から固める必要も大事になってくる。

それをひっくるめて、上記では『「くに」を愛する心』という表現になったのだろうと思うが、なかなか難しい問題だ。

教育基本法にしても、憲法にしても、専門家を招いての勉強会を通して、現在国会で議論されたりしているが、果たしてそれでいいのだろうかと常々思っていた。今の国会議員にそれだけの資質があるとはとても思えないのだ。

明治の様に、徹底的に考える一部の専門家に任せたほうが、どれだけ良い者が出来るか、比べ物にならないだろう。

さて、上記の記事に対する私の結論だが、私は、『「利自即利他」の精神を養う』とするのが良いのではないかと思う。仏教の用語でもあるし、自分も他人も喜ぶ心を養っていく事が大事だと思う。

滅私奉公でもなく、また、自分のみ良かれという心でもない、自分も他人も生かす道を選んでいくという、中道の精神を教えるべきだろうと思っている。

加えて、究極の愛である、「神仏への愛」も教えるべきだと思っている。これなくしては、本来、愛というものは成り立たないのである。
by sakura4987 | 2006-06-21 12:44

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