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◆日本人捕虜の村から

【日露開戦から100年 第5部・恩讐を超えて】(2)里帰り楽器奏でる「友好」

 東京・永田町の憲政記念館の展示場に今春、ロシアから一世紀ぶりに一時帰国した二つの楽器が並べられた。

 サンクトペテルブルクから南東に約百八十キロ、ノブゴロド州メドベージ(熊)村で収容生活を送った日露戦争の日本人捕虜たちがシラカバで作った遺品である。

 一つは鹿児島地方に伝わる「ゴッタン」に似た板張り三味線、もう一つは中国・明清楽に用いられる月琴だ。弦はとうに失われ、三味線の木面はひび割れていたが、月琴には牡丹(ぼたん)の花や月、太陽の浮き彫り装飾が施されていた。

 写真も添えられていた。この三味線と月琴に尺八、アコーディオンなどを交えて六人の丸刈りの日本兵が収容所内のベッドに座って演奏会を開いている光景だ。端唄か、それとも都々逸か。後方では白い軍服姿のロシア兵が監視するともなく立っている。百年前の撮影にしては鮮明だ。

 特定非営利活動法人(NPO法人)の「日本・ロシア協会」のメンバーが昨年訪れたサンクトペテルブルクの国立劇場音楽芸術博物館に展示されていた楽器を偶然、発見した。しかし、損傷が激しく、約一年がかりの対露交渉の末、修復のため初の“里帰り”が実現したのだった。

 「日本人捕虜が収容所で作った楽器で現存するのは全ロシアでもこの二つだけでしょう。メドベージ村の郷土博物館には『日本の捕虜の私からナージャ(女性の名前)にささげる』と収容中に習ったロシア語で淡い恋心をしたためた扇子もあるんですよ」

 楽器に付き添って初来日した同博物館のウラジーミル・コシュレフ主任管理者(五三)は興奮気味だった。

 日露戦争は双方で約七万人もの死者を出す壮烈な戦闘だったが、一方で「最後の紳士的で、牧歌的とさえいえる戦争でもあった」(サルキソフ山梨学院大教授)。

 その象徴として有名なのが両国における捕虜の厚遇ぶりだが、楽器にまつわる逸話も少なくない。ロシア軍の旅順での降伏(一九〇五年一月)直後に行われた水師営の会見で、ステッセル将軍が敗軍の将ながら帯刀を許された日本の武士道精神に感動し、乃木希典大将にピアノを贈ったとされている。修復されて今、金沢学院大学に鎮座するピアノがそれといわれる。

 メドベージ村は露土戦争(一八七七-七八年)ではトルコ人捕虜の収容地となった。草原と森の平原地帯にあるが、樺太北部と同じ緯度で自然環境は厳しく、凍傷や呼吸器病にかかる日本人捕虜も多かった。

 しかし、強制労働や拷問などは記録されておらず、死亡した日本人捕虜は十九人だけで全員が病死だった。

 日本国内のロシア人捕虜収容所に日用物資を贈っていた東京・ニコライ堂の宣教師ニコライは、ロシア正教会の情報網を通じてはるばるメドベージ村の日本人捕虜にも日本語の書籍などを送ってきたという。

 「大変だよ。メドベージ村に大勢の日本人が連れてこられた。皆同じ顔で目は細く、何を言っているのか分からない。あのアジア人は子供を捕まえて食べてしまうかもしれないから、決して村に近づいてはいけないよ」

 母親からこう警告された十三歳の少年がある日、やむを得ぬ用事でメドベージ村に入った。前から二人連れの日本人捕虜が歩いてきた。少年は思わず恐怖で路肩に寄って叫び声をあげようとしたとき、捕虜の一人がパンの塊を差し出し、少年の頭をなでながら「怖がらなくていいよ」と言った。少年は小躍りして家に帰り、一部始終を語った。これが日本人捕虜と村民の温かい交流の始まりだった…。

 コシュレフ氏はこんな逸話も明かしてくれた。

 日露双方での捕虜の厚遇は両国が捕虜の人道的扱いを定めたハーグ条約(一八九九年)を順守することで国際世論を味方につけ、講和などを自国有利に導きたい政治的思惑もあったとされる。しかし、メドベージ村では「日露間で本当の友情が芽生えていた」(コシュレフ氏)。捕虜たちが日本に出立する朝、周辺の村々の住民までかけつけて、捕虜と次々に抱き合い、惜別の銃声が響きわたったという。

 三味線と月琴の修復は日本の技術で見事に成功し、ロシアに戻った。「再生された楽器は今後百年、二百年…と日露の友好の証しとして保存していきたい。近い将来、この楽器を使って日露双方で合同の演奏会を開き、そのCDも出してみたい」。コシュレフ氏の夢は広がる。(斎藤勉)



※この様な人生に生かせる良い歴史を、もっとたくさん知りたいものだ。文科省は何をやってるのか。
by sakura4987 | 2006-06-21 13:04

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