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◆サハリンの同胞を救った夫婦 朴魯学・堀江和子(1)


平成16年9月27日(月)産経新聞

取り残された日本人妻  「家族一緒に日本に帰国させてください」駐ソ大使に嘆願書

 北朝鮮による拉致被害者や家族の報道が今、連日のように新聞やテレビで流されている。

 「私たちも同じような立場になっていたのかもしれない」

 堀江和子(七七)はそう思うと胸が詰まった。長い間、母国の政府が関心すら持たず、救出に動こうとしなかったという意味では、拉致被害者もサハリン残留韓国人問題も同じだ。“祖国から忘れられた存在”ほど悲しいものはない。海を隔てたすぐそこに自分の国があるのに…。

                 ◆◇◆

 終戦まで、樺太(現サハリン)には四十万人以上の日本人がいた。酷寒の不毛の地に、日本人が鉄道や道路を通し、産業を根付かせたのである。

 和子は昭和二(一九二七)年、樺太・西海岸の真岡(現・ホルムスク)で生まれた。十一人兄弟の三女。大正期に樺太へ渡り、製紙会社に勤務していた父が十七年に亡くなるまでは、暮らしぶりも良かったという。

 すべてを変えたのは終戦、そしてソ連軍の突然の侵攻だった。和子はその日のことをよく覚えている。「ぼろぼろの格好の兵隊が行進していた。腕には日本人から奪った腕時計がいくつも巻いてあり、万年筆や着物を欲しがる兵隊もいた。言葉も分からず、とにかく恐ろしかった」

 やがてソ連軍は日本人が築いた施設を次々と接収し、住民には職場復帰を命じた。もちろん、だれも出国はできない。そして翌年、ソ連が行った人口調査で「日本人」と「無国籍者」とされた朝鮮半島出身者は完全に区別された。これが“悲劇の第一幕”であった。

                 ◆◇◆

 朴魯学(パクノハク)(昭和六十三年、七十五歳で死去)は大正元(一九一二)年、日本が植民地支配していた朝鮮半島の生まれ。新聞広告で見た樺太人造石油の労務者募集に応じて、樺太に渡ったのは昭和十八年のことだった。

 当時、樺太の給与水準は内地(日本)や朝鮮半島と比べても高水準で、それに魅力を感じて、海を渡る朝鮮半島出身者が少なくなかった。もちろん、「強制」ではなく、自分の意思である。

 戦争のために国民の動員を可能とした徴用令が朝鮮半島で施行されるのは十九年九月になってからだ。ただ、徴用を見越して募集に応じた人もいないではない。朴は後に和子に、「一家のうち、いずれ誰かは(徴用に)行かねばならない。弟が病弱なので私が行った」と語っている。

 終戦を迎えて、朴は真っ先に故郷(現在の韓国)へ帰るつもりだった。妻と三人の子供がいたからだ。だが、終戦から一年たっても、ソ連当局からは帰国について、何の沙汰(さた)もなかった。そんなとき和子との縁談話が持ち上がったのである。

 当時、兄の家にいた和子にとっても、帰国のメドが立たないまま、兄の世話になっているわけにはいかなかった。

 二十一年九月、朴と和子は結婚する。朴に妻と子供がいることは秘密だった。このことが、後に和子や韓国の妻、そして朴自身を苦しめることになるのである。

                 ◆◇◆

 皮肉なことに、結婚から程なくして、和子は日本人の引き揚げが始まることを知った。二十一年十一月、「米・ソ引き揚げ協定」が結ばれ、日本人の引き揚げが決まったのである(二十四年までに、約三十万人の日本人が帰国)。

 だが、引き揚げの対象に「無国籍者」となった朝鮮半島出身者は含まれていなかった。当時、米占領下にあった日本はこの決定に関与していない。というより関与できなかった。だから「日本が朝鮮半島出身者だけを置き去りにした」という指摘は事実でない。

 和子も日本に帰りたかった。たとえ夫だけを残しても…。何度も手続きをしようとしたが、周囲に説得され、「またチャンスがあるだろう」と思いとどまった。まさか、それから十年以上も帰れなくなるとは考えもしなかったのである。

 このとき、同じようにサハリンにとどまった日本人妻は約千人いた。山口サハ(七七)は、知らないうちに母親らが自分だけを残して帰国していたことを知り、ショックで倒れそうになった。

 母親は同じサハリンでも離れたところにおり、知らせたくても通信手段がなかったのである。帰国した母親はそのことを生涯悔やみ続け、ことある度に「サハが一緒だったら…」と話していたという。十三年後、ようやくサハが夫婦で帰国したときには、もう母親は亡くなっていた。

                 ◆◇◆

 朴と和子の間にはその後、一男二女ができた。国に帰りたい気持ちは二人とも同じだったが、共産圏のサハリンでは海外の情報はまったく入ってこない。手紙のやりとりもできない…。和子が当局に帰国を陳情すると、「それなら北朝鮮へ行け。日本へ行けば子供は売春婦にされるぞ」と脅された。サハは、「先が見えないことが何よりもつらかった」と振り返る。みんな閉塞(へいそく)感にさいなまれていた。

 わずかに光が見えたのは三十一年の日ソ国交回復であった。「この機を逃したら一生日本に帰れない」と思った和子は思い切って駐ソ大使にあてて嘆願書を出した。

 「私たち日本女性は朝鮮人の夫を残して帰るにしのびず、やむなく樺太に残りました。いまはみな子どももいます。家族一緒に日本に帰国させてください」

 和子は無茶を承知でソ連のフルシチョフ首相(当時)に電報を打ったこともある。

 こうした和子の行動力を『サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか』の著者、新井佐和子(七四)は「このとき和子が何もしなければ、彼らの存在は忘れ去られていただろう」と書いている。

 朴魯学・堀江和子一家五人の日本への帰国は三十三年一月に実現した。そして、このときから夫妻の本当の闘いが始まるのである。=敬称略(喜多由浩)

 (注)戦前の事項には「樺太」を、戦後は「サハリン」を使用した。

                  ◇

 【サハリン残留韓国人問題】 日本時代に、企業の募集や徴用などで、樺太(現ロシア・サハリン=元来、日本の固有の領土であり、現在も帰属が決着していないという主張もある)に渡った朝鮮半島出身者約1万人(終戦時)が戦後も帰国を認められなかった問題。そこには、日本人妻約1000人もいた。

 冷戦構造のなか、当時のソ連が友好関係にあった北朝鮮に配慮し、国交のない韓国への帰国を認めなかったためとされている。サハリンには戦後、北朝鮮地域などから2万人規模の派遣労働者が渡っており、これを含めた人数が一部で伝えられたことがあるが、彼らは日本とは関係がない。

 日本人妻は昭和30年代に夫や子供とともに日本への帰国を認められたが、それ以外の朝鮮半島出身者は出国できず、朴魯学・堀江和子夫妻らの帰還運動によって、帰国の道が開かれるまで、何十年もの間、サハリンに取り残された。




※この問題も、日本人が強制連行したということになっている。少しでもかじれば馬鹿馬鹿しい作り話だということがわかるが、これも事実の様になってしまっている。そもそも日本の歴史学者は何をやっているのか。と言ってもほとんどが中国や北朝鮮の手先として歴史を改竄し、学生に教えている。
by sakura4987 | 2006-06-21 13:10

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