人気ブログランキング |

★★★ 日本再生ネットワーク 厳選ニュース ★★★

sakura4987.exblog.jp
ブログトップ

◆あばずれ語 混成語化とともに転げ落ちる

平成16年10月6日(水)産経新聞

 小六女児が同級生の女児をカッターナイフで切り殺すという衝撃的な事件があって、その後加害者のウェブサイトに書かれた今時の子供たちの荒廃した言葉遣いのことが報じられた。

 「うぜー(うっとうしい)」「へたれ(根性なし)」「じこまん(自己満足)」「でぶす(デブでブス)」…。電車の中などでの若い人の会話から「うざってー」「まじぎれ」「きもい」「むかつく」「めんどい」など似たような乱暴で攻撃的で責任回避的な言葉遣いが耳に聞こえてくる。

 このような言葉のスラム化は、あの事件の加害女児に特有な現象ではなく、国語がすっかり疲弊してしまっているのだと改めて思わずにはいられない。

 言葉というものは、金融や交易、あるいは外交などと同じく、絶えず国際的な相互接触によって生存競争にさらされている。マーケットを支配下に置いた言語は、他言語を見えない軍事力で日々に制圧しにかかっているのである。かつて、詩人で記号学者の森常治氏がラテン語とゲルマン語の挟撃に遭って、辺境の地に追いやられたケルト語の運命について書いている(『都市・記号の肖像』)のを、「国語断想」で取り上げたことがあるが、それはケルト語に特定した話ではない。生存競争に敗れればいずれの母国語も辺境の地に押し込められ、あるいはまた下層民の言語に落とされるのである。

 〈あばずれ語〉とでも呼ぶよりほかない乱暴で下品な言葉遣いは、国語の下層民化でなく何であろう。一見普通に見える子供たちの内的言語に下層民化した国語がすみ着き、美しく品のある言葉を駆逐しつつある。それは美しく品のある私たちの国語が外的言語-主として市場を牛耳る米英語-に屈して、その生命力を衰微させつつあることを投影している姿だと考えると事の本質が見えてくる。

 〈あばずれ語〉化した国語を仮に新国語と呼べば、その特徴を語形の崩れや隠語の常用化、あるいは国語文の間投詞化に見ることができる。

 間投詞は普通なら、言葉の合間や切れ目に入れる語であるが、今日のそれは「エッ! ウソ! マジ? ホント!」のように、文全体がぶつぶつ切れた間投詞の集合になってしまうところに特異さがある。間投詞は感動詞ともいう。「ああ」と叫んだまま、絶句するのだ。絶句するということは思考停止の状態に陥ることである。

 だから、間投詞だらけの新国語を用いる人は持続的思考が不得意なのである。いや、内的言語の貧困によって持続的思考が困難になったため、感嘆符や疑問符付きの間投詞だらけになってしまうのだ。思考力の退化は、人間のサル化の始まりかもしれない。放置すれば国語はただの叫び声の集合に過ぎなくなる。

 こうした惨状が何によってもたらされたか。何度でも書く。それは戦後国語政策である。知識や情報の民主化・大衆化はある意味で戦後民主主義思想の象徴でもあった。しかし、それが夢幻に過ぎなかったことは、若者の活字離れが証明している。易しい言葉を使えば知識や情報は大衆化されるか。ノーである。知識や情報はそれを得ようとする者の強い知的な欲求なしには決して大衆化されない。逆に言えば知的な欲求が強ければ、難字だらけの書物でさえ知識として血肉化するのである。

 読んで知的欲求を満たせない新聞国語は消費言語に過ぎない。安っぽい消費言語に堕して観念行為に堪えられないと考える知識層は英語語彙で物を考えるようになった。国語の構文に片仮名語を大量にはめ込む習慣が何をもたらすか。それは国語の植民地化、混成語化である。

 かくて、国語は知識層による混成語化と、非知識層によるあばずれ語化の二つの引力によって坂道を転げ落ちつつある。それで滅びない国語はどこにもない。ケルト語の運命が重なって見える。そのことをよくよく考え腹を据えて国語の保護に取り組まないと取り返しのつかないことになろうことは言をまたない。国語の平易化など何の役にも立たないのである。




※祖国とは、その国の伝統や文化、情緒などを継承する国語の上に成り立つ。フランスでは娘を嫁がせるとき「うちは貧乏で持参金を持たせてやれないが、娘には幼いころから、正しいフランス語だけは仕込んであります」と挨拶する親もいると聞く。 

 「教育は言葉に始まって言葉に終わる。私たちはある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは国語だ。それ以上の何ものでもない」(フランスの思想家・シオラン)


 敗戦直後のことだが、日本語がすんでのことでローマ字化されかけたことがあった。十何年か前、「米政府極秘文書」で明らかになったが、日本の“民主化の徹底”を図ろうとしたGHQ(連合国軍総司令部)の一中佐の短絡的な独断によるものだった。 

 ドーデの名作『月曜物語』のなかの「最後の授業」。フランスとドイツにまたがるアルザス地方の少年である“私”が、例によって学校を遅刻すると、教室はいやに静かになっている。驚いたことに先生は正装で、「みなさん、今日は最後の授業です。アルザスはプロシアに占領され、ベルリンの命令で明日からはドイツ語しか教えられなくなりました」という。 

 母国語を奪われようとする人びとの悲しみと、それに抵抗しようとする決意。「国民が奴隷となっても、国語さえ守っていれば自分の牢獄のカギを握っているようなものです」と語る先生の言葉は、感動を誘う。 

 国を愛するということは、その国の言葉を大切にすることだ。
by sakura4987 | 2006-06-21 16:13

毎日の様々なニュースの中から「これは!」というものを保存していきます。


by sakura4987