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◆「男・女『らしさ』を考える」


平成15年10月7日(火) 産経新聞  「女らしさ」が重要度増す現代

≪ジェンダーフリー論の歪み≫

 いわゆるジェンダーフリーとは「歴史的・文化的に形成された男女の性差の否定」のことであると説明される。しかし、そうした論者達の主張を具体的に検討してみた時、私はしばしば強い違和感を覚えさせられる。というのも、そうした主張は往々にして「女が男らしくなること」のみに主眼を置いているように思われるからである。

 つまりこうした論者達が「女性の社会進出」「男社会の打破」を主張し、「男女の性差の否定」を唱える時、そこにイメージされているのは男らしくも女らしくもない女性(そうした性格は極めて観念しにくいが)などではなく、実は単に「男らしい女性」に過ぎないのではないかということである。一方で彼らが男性に求めているのは、女性が男らしくあることに理解を示し、それを差別なく平等に受け入れていくことであって、「女らしい男性」になることではないのである。そのように考えると、ジェンダーフリー論者の主張はつまるところ「女も男も区別なく男らしくなれ!」ということであり、「男らしさ・女らしさの否定」というスローガンとは大きく隔たったものと捉えることが出来るのである。

 このようなジェンダーフリー論のある種の歪みは、実は近代における民主主義や資本主義の発展と密接に関わっている。民主主義、資本主義で前提されるのは、自由で自立した個人である。それは経済的に独立し、自らの意志と責任の下に行動し、市民としての権利・義務を自覚してそれを引き受ける決意を持った存在である。民主主義、資本主義という近代社会の根幹をなす原理は、このような強くたくましい理想化された個人という概念に支えられたものであった。

 ここで注意されねばならないのはこのような個人像は多分に男性的な性格を帯びたものであるということである。それは経済的な自立、理想と信念に基づいた勇気ある行動、公共心と義務感など、多くの点で「男らしさ」を連想させる。近代的個人は実に「男らしい」存在なのである。そのように考えるならば、民主主義や資本主義が大きく発展した近代という時代は、極めて男性的な原理に基づいて構築された時代であったと言うことが出来るであろう。いわゆるフェミニズム運動はこのような社会状況を背景として発展を遂げて来た。それは男性的な原理に支配された近代という時代の進行へ女性を適合させようとする運動であった。このことはフェミニズム運動の起源がフランス革命にあることを考えてみればより理解しやすいであろう。フェミニズム運動は「近代」という時代の性質と密接に関わっているのである。

≪求められる慎みと優しさ≫

 しかし、今日では近代という時代を支えたこれらの概念の負の側面が次第に認識されるようになっている。二十世紀の歴史の教訓から、経済的な自立が欲望追求と過当競争を正当化し、理想と信念が独善を生み、勇気ある行動が破壊をもたらしたことが問題視されるようになったのである。これはいわば行き過ぎた「男性化」への反省であったと捉えてよいだろう。そこに求められている精神は慎みと優しさであり、寛容であり、穏やかさである。それらはすぐれて女性的な原理である。これは男性的原理が強すぎた近代という時代を、女性的な原理でもって止揚し、適度なバランスをはかろうとする試みなのである。

 このように考えれば、近代的でありそれゆえに男性的であるフェミニズム論、およびその延長線上にあるジェンダーフリー論は、「女らしさ」が重要度を増している現代社会においては、ある意味で時代に逆行しているとさえ言えるのではなかろうか。最も私はここで封建時代のような男女関係に回帰せよと言いたいのではない。性別に関わらず同じ人間としての人権と個性を尊重する平等の理念は、近代の残した偉大な遺産である。

 そうした観点から価値観の多様性を尊重し、男らしい女性、女らしい男性が存在することを否定するわけではない。しかしその上で、男性も女性も、もう一度「女らしさ」の価値を再認識することが重要ではないかということである。そしてその際には、ややくどい言い回しだが、歴史的に女性が中心となって「女らしさ」を担ってきた事実に配慮すべきであることは言うまでもない。少なくとも全ての女性から女らしさを取り除こうとするかのような偏狭な考えを義務教育の場で押し付けるような真似は許されるものではない。

 以上のような議論を男性優位社会の維持をはかる詭弁だと捉える向きもあろうが、それは女らしさと男尊女卑とを一体不可分のものと決めつける、いささか硬直的な思考に基づくものではなかろうか。現代においては氾濫する男らしさよりも女らしさの価値の方がかえって高まっているのではないかと私は感じる。元来日本は「たおやめぶり」と「ますらをぶり」が共存する国であったはずである。時には「進歩」の手を休め、失われつつあるものの価値を振り返ることも大切なのではなかろうか。





※違う観点から言うと、「西洋」と「東洋」なのだろう。近代国家は、特に日本は西洋の波をもろに受け、東洋的なことを捨て去り、西洋化へまっしぐらだが、男女共同も結局は西洋化を推進しているだけのことだという。現在のイラク情勢を見ても、西洋的価値観には争いが付きまとうが、東洋的、仏教的思想は、争いを好まず、融和を図ろうとする。今必要なものは、シューマッハが言った、「スモール イズ ビューティフル」という東洋的なものだが、平和運動をやっている左翼の連中は、この東洋的な文化を壊すことを嬉々としている。ここにも論理的矛盾があるのだが、それが分からない人間がいくら平和運動をやってもろくなことにはならない。
by sakura4987 | 2006-06-21 16:35

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